- 本 ・本 (160ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022509246
感想・レビュー・書評
-
浅井忠の絵を見ることが多いのに、なかなか愛着を感じられなくて…
ホントに彼の絵を愛する人の文章を読むことで、凄く身近に感じられるようになった!
「…と思う」とかが多く、事実に基づいた読み物というより、多分に著者の思い入れありきの、本なのだけど、私にとってはその方が浅井忠という人物が像を結び易く有難かった。
改めて忠の作品を見るのが楽しみになった!詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
取りあげた画家にまじめに向かい、考察したと思える作品。
著者の感想なども随時に出てきた。
評論というのでも小説というわけでもなかった。 -
政府、御用達ではなく
その時代をきちんと生き抜いた
「人」に ちゃんと焦点を当てて
語ってもらえるのは
とても うれしい
「絵画」の世界だけでなく
どの分野にも
その時々に
「自分を貫いた人」
がいることを
本書から学んだような
気がする -
(2012.03.03読了)(2012.02.16借入)
副題が「日本近代洋画の父・浅井忠」ですので、浅井忠に関するエッセイです。
評伝というよりは、著者の思い入れの強く入ったエッセイという方が適切でしょう。
「東京新聞」の夕刊に2011年4月から7月の間に掲載されたものに加筆修正を加えたものということです。
洋画排斥運動というものがあったというのは、この本で初めて知りました。日本がに未来はないという話は、あちこちで目に触れるのですが。
「坂の上の雲」を読んでいると正岡子規が登場します。正岡子規の友人として、夏目漱石も出てきます。浅井忠は、正岡子規や夏目漱石と親しかったようで、この本の何カ所かで交友の様子が述べられています。「坂の上の雲」に浅井忠は出てこなかったような。
2006年の3月に浅井忠の水彩画の展覧会を見ましたが、そこにグレーの風景を描いた作品が多数展示されていました。この本の中でグレーを描いた作品の話が出てきますので、その時に見た絵を思い出しながら読みました。
「高野コレクション 浅井忠展」
開催場所:日本橋タカシマヤ 8階ホール
開催期間:2006年3月24日(金)~4月11日(火)
目次は以下の通りです。
グレーまで
天の道
実なき学問
西洋画との出会い
師・フォンタネージ
西洋画排斥運動
夢さめみれば
浅井忠・関連年表
●『縫物』(16頁)
浅井忠が明治35年、グレーから戻った直後にアパートの門番の妻をモデルに描いた『縫物』は、黒田の『読書』とは対照的である。一心に縫い物に励む女性の横顔には、穏やかな中に一瞬の刃の光のような緊張感が走っている。こってりと絵具の塗られた黒田の重厚な絵よりも一気呵成に描いたように思われる浅井の絵の方に、針のひと目、ひと目を追う女性の真実のきらめきを感じるのだった。
●グレー村(20頁)
川岸の向こうに、アーチ型の古い石の橋がみえた。その背後に、教会の古い塔が顔をのぞかせていた。すべては、浅井忠の穏やかな絵の世界のままであった。明治34年の夏、浅井は病床にある正岡子規の許へ手描きの絵葉書を送った。そこにも、この橋が描かれていた。子規と浅井は、ジャーナリストの陸羯南の紹介で知り合った。
●漱石(31頁)
明治33年10月末、留学先のロンドンに向かう途中の夏目漱石は浅井忠のパリのアパートを訪ねた。二人を引き合わせたのは、正岡子規だったようである。
●漱石の思い出(33頁)
「わたしが先年ロンドンに居った時、この間亡くなられた浅井先生と市中を歩いたことがあります。その時浅井先生はどの町へ出ても、どの建物を見ても、あれは好い色だ、これは好い色だ、と、とうとう家へ帰るまで色尽くしで御仕舞になりました。流石画伯だけあって、違ったものだ、先生は色で世界が出来上がってると考えているんだなと大いに悟りました」
●工部美術学校(91頁)
浅井忠は明治9年(1876年)11月、新設された工部美術学校画学科に入学した。画学科の生徒は、追って12月に入学を許された女子生徒6人を入れて、39名だった。これは、美術の先進国フランスと比較しても画期的なことであった。パリの国立美術学校に女子の入学を許されたのは、1897年だった。すべては、時の工部卿伊東博文とイタリアの駐日公使アレッサンドロ・フェ伯爵の間で決まったようである。
●洋画排除(122頁)
明治22年の2月11日、大日本帝国憲法が発布された。その直前に、洋画科を排除して、東京美術学校が開校した。
●日清戦争(135頁)
明治27年8月、日清戦争が始まった。浅井は時事新報通信人、黒田はパリのル・モンド・イリュストレ社の通信人という立場で、それぞれスケッチブックを携えて日清戦争に参加した。
●猥画(141頁)
浅井には、それが何であるか、すぐわかった。明治30年、病床の子規を慰めようとして描いた艶笑戯画である。
(2012年3月6日・記)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【展覧会】
東京国立博物館所蔵 没後100年記念
高野コレクション 浅井忠展
主催:NHKプロモーション、日本経済新聞社
開催場所:日本橋タカシマヤ 8階ホール
開催期間:2006年3月24日(金)~4月11日(火)
入場料:一般800円
洋画家 浅井 忠
1856年 佐倉藩の江戸屋敷に生まれる
1863年 父常明亡くなる、佐倉へ移る
1873年 上京する
1876年 工部美術学校に入学する
1889年 明治美術会をつくる
1898年 東京美術学校の教授になる
1900年 フランスに留学する
1902年 グレーで作品をかく
1902年 帰国して京都へ移る、京都高等工芸学校の教授になる
1907年 文部省美術展覧会の審査員になる、京都で亡くなる
浅井忠は、黒田清輝と同様、近代洋画の父といわれるので、どちらが年上なのか調べてみたら、黒田さんの生まれは、1866年ということで、浅井さんより10歳若いことが分かりました。それに黒田さんのほうは、フランスに留学してから絵画に転向しているので、絵の勉強のほうでも、浅井さんのほうが早いことが分かりました。
浅井忠は、代表作は、なんどか見た事はあるのですが、浅井忠だけの作品を集めた展覧会は見たことがありません。
没後100年に一年早いのですが、没後100年記念展が開催されているので、会社の帰りに見てきました。
作品のほとんどは、水彩画です。油彩画も幾つかあります。テーマは風景画がほとんどですが、人物画も幾つかあります。
フランスのグレー村の洗濯場や公園の樹を描いた作品の印象が強いので、フランス留学で絵を習得した人と思っていたのですが、絵の習得は、日本の工部技術学校でした。フォンタネージに学んだということです。
フランスへ行ったのは、1900年4月17日、43歳の時で、グレー村の作品を描いているのは、1902年ごろです。帰国後京都へ移り、1907年に亡くなっていますので、非常に残念なことです。
「農家内部」1887年、水彩、昔懐かしい土間や囲炉裏が描かれています。鶏の影などがほほえましい感じです。
「火の見櫓の見える風景」1887年、水彩、町の空き地から見た風景です。家の付近には、鶏や、何人かの人々が見えます。
「少女と犬」1893年、油彩、着物の少女が膝に犬を抱いて座っています。少女は犬のほうを見ているので、伏し目に描かれています。
「従軍画稿(日清の役)」1894年、船から馬を陸揚げしている様子が描かれています。
「巴里ルクサンブール公園」1900年、公園のベンチに座る3人の人物が描かれています。ちょっと珍しい絵です。
「グレーの教会」1901年、大きな石造りの教会が描かれています。何の飾りもない教会です。
「読書」1902年、油彩、椅子に座って本を読んでいるフランス女性が描かれています。
「グレーの牧牛」1901年、水彩、塀がめぐらされ、木立が並んでいます。木の途中までが太く、そこから細い枝がたくさん出ているのは、桑の樹でしょうか?手前に3頭の牛が草を食んでいます。こちらに背を向けた女性がしゃがんでいるのですが、何をしているのかは分かりません。
「グレーの冬(グレーの橋)」1902年、水彩、村へ向かう道が描かれています。カミーユ・コローの描いたような風景です。
「グレーの洗濯場」1902年、水彩、ロワン川が手前に流れ、向こう岸に洗濯場があり、木立の向こうに、ガンヌの塔が見えます。縦長で、2枚あります。
「ナポリ」1902年、「ベニス」1902年、イタリアにも行っているということです。
風景画は、どの絵も正当な絵で、詩情が感じられるので、ゆったりと見ることができます。
【黒田清輝】(1866-1924) 洋画家。鹿児島県生まれ。フランスでラファエル=コランに師事し外光派を学ぶ。帰国後、白馬会を創立し美術運動を展開。東京美術学校初代教授として西洋画を指導。また文展および帝国美術院の創立に尽力。代表作「読書」「朝妝」など。
【浅井忠】(1856-1907) 洋画家。江戸の生まれ。号は黙語・木魚。フォンタネージに学び、詩情にじむ写実的画風を確立。1889年(明治22)明治美術会創設に参加。関西の勃興期洋風画の発展に貢献、多くの後進を育てた。代表作「収穫」「春畝(しゆんぼう)」
著者プロフィール
太田治子の作品





