素手のふるまい アートがさぐる<未知の社会性>

  • 朝日新聞出版 (2016年7月7日発売)
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Amazon.co.jp ・本 / ISBN・EAN: 9784022513922

作品紹介・あらすじ

【文学/日本文学評論随筆その他】東日本大震災後、アートのもつ底力がこじあけた未知の社会性とは? 被災地支援に取り組む芸大生と写真家、陶芸家のタコツボ無人販売所、工芸家のウクレレ化保存計画……臨床哲学者が社会とアートの交差する場所に立つ日本の未来への刺激的評論。

みんなの感想まとめ

アートが持つ社会性とその力が、震災後の東北における新たな形で表現されています。多くのアーティストが、アートに関心のない人々を巻き込みながら、未知の社会性を探求している姿が印象的です。読者は、アートの創...

感想・レビュー・書評

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  • アートの社会性について。
    震災に前後する東北でのアートシーンを中心に。
    私もよく知るアーティストがたくさん出てくるので、その切実さには共感するところが多い。
    「アーティストたちが、とりたててアートに関心があるわけではない人たちを巻き込みながら、「素手」でたぐりよせようとしているある〈未知の社会性〉(p32)」

  • 命や魂といったものを全力で雑巾絞りにした時に、ようやく垂れた一滴…のようなこの読後の感覚は一体なんであろうか。
    創作が個人になろうが、協同になろうが、結果的に多くの人が参与して(見た人も含めて)絞られる、その行為自体を「アート」と呼ぶのか。だとしたら「アート」は「社会」の中で立ち上がってくるものと言えるのだろう。
    ただその時、滴った雫が「アート」なのか、皆の手に残る力一杯絞った跡が「アート」なのか、もしくはその双方が「アート」なのかは、よくわからない。
    ただこれも「汝」に問いかける所作、「われーなんじ」へと繋がる路なのだろうと思われる。

  • 私にとっては、少々難解であった。
    社会性。人間性とアート。技術としてのアート。
    社会にとってのアート。
    ここに書かれている、所謂アーティスト達の考え方
    生きざまについては、非常にあこがれる部分が多くあります。
    昔はこういう人間になりたかったなあという思いがあります。
    いまになって、現実として社会からはぐれること。斜めに
    なることはなかなか困難であります。

  • ・人間が「生活」していくためにはもともと重労働が必要だったはずなのに、私はただぼーっと毎日の生活に知らず知らずのうちに埋もれていたのです。それは「便利な生活」という強烈な違和感だったのだと思います。幼い頃によく感じていた「見えるもの全部嘘かもしれない」「お父さんもお母さんも張りぼてかもしれない」「この壁の先は何もないのかもしれない」という感覚はどんどん膨れあがっていった。本当になにも存在しないかもしれないという切羽詰まった感じだったから、心の底からたしかに信じられるものがどうしても必要だったんです。例えば走って「ハアッハアッ」って息をしたときの苦しい感じとか、思い切り叫んで息が続かなくなる寸前のしびれとか、腕の皮膚をつねったときの痛みのように、体が直接的に反応するような、負荷がかかっている状態にハマっていった。そうすると精神がすごく静まるんです。私はそういう感覚の直後に得られる「穏やかな」気持ちを求めていたんですね。だから、なにもしないでただ家の中にいると無意味に暴れだしてしまうよな気がして、意識的に体を激しく使う運動や踊りや歌に夢中になっていた。

    ・たくさんの方が「どこさもいかね」って言った。それは「北釜にずっといるよ」ということ、現在北釜に住む70歳以上のほとんどの方がこのあたりの地域で生まれ、育ち、働き、家族をもち、長い時間をこの土地で生きてきた。自分の意思や体が土地そのものととても強くつながっていて、土地の方がその人を主導しているとも言える。人間社会に生きるうえでの複雑で絶え難い様々なことが時折その人を襲ったとしても、苦しみの時間は土地と人に痕跡を残しながらも必ず過ぎ去っていく。時間を堪えた身体が器としてこの土地に「ある」という事実が、私には「強さ」に見えたんです。この独特の雰囲気や俯瞰的な視線は、土地とのつながりがあるからこそ生まれた持久力とタフさなのです。北釜には、人が住む場所や畑などを開墾してきた歴史があるのですが、土地はそもそもそこにあり、陸が消えてなくならない限りなにがあってもそこに存在しつづける。春夏秋冬が巡るように、あるときその土地で生まれ、やがてはその土地に埋まっていく。だから私は「どこさもいかね」という言葉にひとつのたしかな生きる方法を見たんです。

    ・志賀は北釜に来て「写真屋」として祭事や行事の写真を撮る役を得た。そしてそれと並行して彼女自身の作品制作を進めるうちに「だんだんとわからないことをする人だ」という理解が広まっていったようで、いつのまにか、被写体になってと頼んだら何かしている最中でも「いいよ」って引き受けてもらえる。その「わからなさ」の「すごく自由な振れ幅」が心地いいと志賀は言う。「わからない」ものごとが、じぶんと外部との境界でじぶんを拒絶するものとして現れてくるかぎりは、「わからなさ」はだんだんせっぱ詰まったものになってくる。ずっとっそのことにじぶんは悶え、苦しんできたのだが、そのときじぶんは「『わからなさ』の計り知れなく深い面に接する機会があったとしてもスルーしていた」。が、北釜ではじめて「わからなさ」が「人と人とのつながりのなかに連帯して存在しうる生きた感覚」であることに気づいたというのだ。そして「いまいろいろ思い返すと、『なぜ』が問われないことを最大の魅力として捉えているその理由は、じつは『なぜ?』が一番私を突き動かす原動力なのかもしれないということ」だ、と。

    ・「スキルとよばれるものは、隣の芝生に行って発揮されなきゃじつはだめなんじゃないか」。いいかえると、「アーティストがアーティストとしてアートの分野で何かをするのは基本的にあたりまえ」のことであって、「違う言語に翻訳されて、それが活用される」ことこそスキルというべきものであり、「違う分野に出かけて行って、アートで培った何かをそこに翻訳し、何かを作れる」ことではじめてアートとなりうるのではないか、と。アーティストとは、いってみれば「隣の芝生に行けるパスポートをもっている人」のことだと。

    ・「人間どうしやったら意思疎通がうまくいかんと腹が立つけど、蛸やったら腹は立たんでしょ。犬でも猫でもそう。あれははじめから他人やと思うてるし、「絶対他者」という存在を想定してやると不思議に心は騒がない。文化の違いとかなんとかいっても、蛸との違いに比べれば知れてるから。そういう「絶対他者」とおなじ空間でともに生きているというのは、関係がつかんでも、「まあええな、まあしゃあない」ということです」。

    ・松井は言う。「眼の前でしなくちゃならない美術鑑賞というのがそれだけでもし価値や普遍性があるのやったら、どうして蛸に美術が負けるのか。ほんとはみんな美術よりももっと大切なものがあるということに気づいているんやないか。何かにじぶんを投影しようという、そんな「表現」はどうでもいい。それより蛸(=他己)から見える自己の方がたぶん正しいというか、大事やとおもう。だからうちのゼミでは卒業制作のテーマが決められないやつにはみんなで決めてやるんです。「おまえはゴルフをやれ」と。すると案外そういうことでぴったりはまったりする。途中で「やっぱりおれ、ゴルフやないと思います」と、やっとほんとの顔を出してきよることもある」。
    「殻を破る」という言い方も松井はした。「大人も子どももみんな、殻はおなじ硬さやね。ぼくだって防御するために殻をもっている。ただその殻を破りやすいかどうか、あるいは破ることを快感に思っているかいないかが違うだけで、それによって手続きが回りくどい人もいれば、かんたんな人もいる。だからぼくがやっているのははぐらかしですよ。こう来るやろうと思えばこっちに肩透かしするとか、どんとぶつかるとかね。ここんところ、蛸に罠を仕掛けているときの感覚とすごく似てる」。

    ・「この頃はよく、世界のアート・シーンに出るのにデッサンなんかできなくてもいい、どこどこのだれだれは美大なんか行ってない、などと言います。でも日本社会のように真っ平らになった社会のなかに際物みたいなやつがいるわけがない。わざわざ美大に入ってくるやつなんか特にそう。だからはじめは、ほんまにこつこつしたデッサンがどれだけできるかとか、轆轤が一日どれだけ引けるのかとか、そういう枠にはまった仕事をきっちりさせなあかんと思うんです。だってこれまで物をロクに取り扱ったことのない学生には、たとえば服作りでパターンを手描きするときの、線を引く音がきれい、なんて絶対にわからない。「いやや、いやや」と言いながらデッサンをやって、寝てるのか起きているのかわからないような状態で石膏像を見ているような連中ではないと見えん世界というのがやっぱりあるでしょう。別の言い方をすれば、思ったとおりのラインを指で出さなくてはいけないというのがあるんです。あるいは、ここはもうちょっとしゃきっとせなあかんという。イメージが先にあるんじゃなくて、先に経験がある。この経験に則ってこのラインをもう一度再現するという果てしない作業をくり返しているうちに、ようやっときれいなラインが見えてきて、このラインに沿って歩きたいというふうな形ができあがってくる。それを経験させてやりたいんです。いまの美大の学生というのは、総合大学の学生よりも「〇〇したい」というその「たい」が薄い。だから授業でも「なんか違う」と思うと、抵抗するよりは消えていく。すっといなくなる。ぼくはこの違和感を膨らしてやりたいんです。でもそのためには、どこかで現実をちゃんと生きてなあかん。でもその生きてる感じがつかめない。ひたすらラインを引くというのはそのために必要なんです。そう、普通の人として違和感がほしい。材料はなんでもあげるから、その違和感を勝手に膨らませてもっとぼくを驚かせてほしい。ワクワクさせてほしい」

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784022513922

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著者プロフィール

鷲田清一(わしだ・きよかず) 1949年生まれ。哲学者。

「2020年 『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

鷲田清一の作品

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