- Amazon.co.jp ・本 (312ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022515919
作品紹介・あらすじ
【文学/日本文学小説】人気作家・みはるは講演旅行を機に作家・白木と男女の関係になる。一方、白木の妻・笙子は夫の淫行を黙認、平穏な生活を送っていた。だが、みはるにとって白木は情交だけに終わらず、〈書くこと〉を通じてかけがえのない存在となる。父と母、瀬戸内寂聴をモデルに3人の〈特別な関係〉に迫る問題作。
感想・レビュー・書評
-
小説家の父・井上光晴と作家で僧侶の瀬戸内寂聴の不倫を娘である井上荒野が書く。
この作品に恨みや憎しみなどの感情を覚えることはなく、ただ静かな深い愛を感じた。
なるべくしてなった関係なのか…不自然さが無い。
だが、男女関係を断つように僧侶になった瀬戸内寂聴の心のうちは、計り知れない感情の渦の中に埋もれてしまったかのようで見えない。
もっと見えないのは妻の方であったが、
ことばに表すことのできないものがあっただろう。
最期にそばにいてくれる人がいるということは、幸せだったと言えるのだろう。
2022年11月現在 映画上映中
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
井上荒野さんの作品はまだ数作しか拝読していませんが、この作品は作者渾身の作ではないかと思いました。
作家であるお父様の井上光晴さんと、お母様、そして尼僧で作家の瀬戸内寂聴さんの不倫関係を書かれた作品です。
荒野さんとしては、作家として書かずにしておけないテーマだったのであろうと思いました。
白木篤郎(井上光晴氏)はどうしようもない、女たらしのダメ男ですが、女たらしゆえになぜこれほどにと思う程女性にモテます。
長内みはる(寂聴氏)は懐の深い女性で、男前です。
妻の白木笙子は本当に賢い女性で、二人ともなぜ、こんな男性が好きなのだろうと思ってしまいます。
そのエピソードも色々出てきますが、妻が産院に一人でいるときに他の女性の元に行ってしまっているなんて、妻の心中を考えると全く持って酷いとしかいいようがないです。
でも、確かに篤郎は女性にだらしがなかったけれど、本当に人間らしくて、面白い方であったのでしょうね。
この作品は1966年篤郎40歳、笙子36歳、みはる41歳、長女の海里5歳から始まりますが、昔の人は皆大人ですね。
作者の荒野さんは私より少し世代が上の方ですが、完全に二人の女性の目線から書かれていらっしゃいます。
私は、父親を見る娘の目線で読んでしまったように思います。
最後の二人とも篤郎のことが本当に好きだったのだとわかる場面では、なんだか不覚にも涙が滲んでしまいました。
二人の女性の関係は、修羅場のようなものは一度もなく、途中からは同じ人を好きになったという同士のようにもみえる清々しいもので、読んで嫌なかんじになる話では全くありませんでした。
この作品は、荒野さんの代表作となられるのではないかと思いました。 -
瀬戸内寂聴さんと最後の男井上光晴氏とその妻の物語。書いたのは井上光晴さんの娘、井上荒野さん。めちゃくちゃ感動した。
長内みはるは作家の白木篤郎に会い、小柄で声が大きく野暮な男だと思うが、不思議な魅力に惹かれていく。やがて男女の仲になるが、自分の他にも女がおり、自分一人のものにはならないと悟る。みはるは愛に疲れ、自由になるために出家する。一方、妻はみはるがただの浮気相手ではないと感じ…
3人の人間性と三者三様の愛し方が書かれていて、ドロドロとはしておらず、じーんと感動する作品です。
嘘つきで弱くて可愛いところもある作家、篤郎。どうしようもない男です。そんな男を愛する者として、会わずしてお互いを認め合い尊敬しあうみはると妻のバランスが絶妙。
篤郎の死に際して『ただわたしたちは自分で選んでここにいるのだ』と思う出家したみはると『私という人間のほとんどを、持ち去っていくのを感じた』と思った妻。それぞれ女としての愛し方と生き方を貫こうとする姿がかっこよかった。 -
穏やかなように見えて
二人の女性の中には
しっかりと鬼もいたんでしょう
それがお互いに見えてもいる
また 二人を苦しめる
男こそ真の鬼でもある
でも最後まで
友人でもあった 妻と愛人と夫
この真の恐ろしさを隠して
男性は見ないふりをしないと
不倫できないですね -
瀬戸内寂聴と井上光晴がモデルになっているお話し。
そうとは知らず読み始めたので、最初はフィクションとして、途中からはノンフィクションとして読んでいましたが、どちらにしても心の機微の描き方が上手く、最後まで楽しく読めました。
淡々と事実を描くだけというわけでもなく、過度に物語へ舵を切るわけでもない絶妙な具合でした。 -
瀬戸内寂聴さんと井上光晴、その妻
不思議な恋愛関係をモデルに井上光晴の娘が描いた作品。
不倫にありがちなどろどろした愛憎というよりも
寂聴さん(小説の中ではみはるさん)と井上光晴の妻(小説の中では笙子さん)の同志だからこそわかるある意味の愛を感じる作品。
と、いうか、1人の男性を愛した2人の女性の愛のカタチを描いた小説。
それも愛、これも愛、きっと愛なのかしらね…
井上光晴(小説の中では白木)が、
ま~ホントにどうしようもない女好きな男(でもモテモテ)として描かれているんだけどそれでも2人の女性はこの男の人でないとダメだったんだろうな…
白木は2人の女性(みはると笙子)に対してめちゃくちゃ甘えているとしか思えないんだよね~
自分が寝た女のことをさりげなく伝えたり
ばれるようなウソをついたり…
でもってそれを許す(というか見て見ぬふり)をする2人は愛ゆえなのか…
読んでたらもうはがゆい感じがして
白木に対してイライラして何度か本を閉じてしまった
いつまでも追いかけられたい、愛の中心にいたいっていう白木のエゴだと私は思ったんだけど、それでも2人の女性は白木に愛を感じているのだから、まあそれはそれで白木の愛は2人を幸せにしていたんだろね~。
でも、私はこんな男、一番キライだわ。
って、こんなふうに愛すべき憎まれっ子を描き切った井上荒野さんの文章力がすごい。 -
文学作品としては、芸術性が高い。自らを登場させながら、不倫相手の半生を記す。記憶を辿り、補い、想像し、紡ぐ。ドロドロとするはずの男女の性愛をドラマチックに描く。しかし、モデルとなった生臭坊主を面白がって世間がエンタメ化している様が中々素直な感情で受け入れ難い。最近、高級風俗嬢が出家?して有名になっている人がいる。人間の過去には固執しない。苦難や反省もあるだろうから。しかし、生き様として過去を肯定して売りにしてしまえば、ならば出家とは何だろうか。この自らの嫌悪感は何か、考える。
文学作品は、人間社会を多角的な視点で描くから、読み手に寛容性を齎す。書き手は寛容性を突き抜け、自在性を手に入れ、奔放になるのだろうか。最近読んだ数冊は、作家の自制心が欠如し、それ故人生に起伏を与え、芸術性を高めたようなストーリーが続いた。
想像力が性の奔放さを与え、書けば書くほど、実社会で再現したいという欲求が抑えられなくなるのだろうか。登場人物の臨場感が自在性を煽り、リアルとの境界線は危うく時に嫉妬さえする。なりたい自分を想像してみよう、言葉にしてみよう、という手法に近い症状を齎すのかも知れない。 -
作者の父 井上光晴と、私の不倫が始まったとき、作者は五歳だった。(瀬戸内寂聴)
単行本の帯である。つまりは、作者・井上荒野の父・光晴と、瀬戸内寂聴は長年不倫関係にあり、本書はその両者と光晴の妻であり荒野の母である女性の3人の物語である。
俗名瀬戸内晴美こと寂聴が出家したのは、そもそも光晴との関係を清算するためであったという。晴美との関係ばかりでなく、光晴は、度々、行く先々で浮気をした。その父に母は終生添い遂げた。
そういうとスキャンダラスなようでもあり、横暴な父に耐え忍ぶばかりの母だったようにも聞こえるが、本作ではそのようには描いていない。
むしろ、嘘つきで浮気でどうしようもないところを抱えつつも愛すべき男と、それを挟み、どこか戦友のようでもあり、男とよりも互い同士の方が共感し理解しあっていたような2人の女の物語である。
実話をモデルにはしているが、作品自体はフィクションである。
著者インタビューによれば、3人のうち、存命の寂聴にはかなり詳しい話も実際に聞いているが、父母は故人であるため、確かめることのできない点も多い。
物語は長内みはる(=寂聴)と笙子(=光晴の妻)が交互に語る形式を取る。
すでに作家であったみはるは、地方で行われる講演会に招かれ、白木篤郎(=光晴)と知り合う。第一印象はさしてよいものではなかったが、そこから2人は徐々に距離を詰めていく。
笙子はその気配を薄々感じつつ、篤郎の妻としての日々を過ごす。
その2人の間を行ったり来たりし、時に別の女にも寄り道をする篤郎。
みはるは篤郎との関係に行き詰まりを感じ、終止符を打つために1つの決心をする。
年月を経て、2人の女の間には共感に似たものが芽生えていく。
さて、おもしろかったのか、と言われれば、おもしろくはあったのだが、何だか釈然としない読後感も残る。つまるところ、この作品が「話題性」を超える何かを持っているのか、というのが私には最後まで掴み切れなかったのだ。
それは登場人物の誰にも深い共感を覚えなかったからかもしれない。
乱暴な言い方だが、篤郎がいかにも昭和の作家で、バイタリティあふれ、放埓である。満州生まれであるとか、炭坑の暴動を主導したとかいう、自筆の年譜が嘘であるというのもなかなかすごいが、妻が書いた小説を自らの名前で発表したというのも強烈である。
「作家」として生きることというのは、それらを呑み込んでしまうほどにすごいことなのか、そうでなければ「作家」ではないのか、そのあたりがどうにもよくわからない。
夫よりも才能があったかもしれない妻は、しかし、夫の死後も結局は作家とはならなかった。そこには深い孤独があったようにも思うが、笙子が書かなかった理由は判然とはしない。
みはるは、自分の気持ち(というか性愛を伴う本能のような感じがするが)に正直な人物で、ただ、時に世間のモラルと自分の中の軸がずれることがあるのが、一部からは非難され、一部には強く支持される源なのだろう。そこはそこでよいが、男との関係を断つために選ぶ手段が「出家」というのに仰け反る。源氏物語の女君や平家物語の白拍子かよ!?というところである。このあたりの発想は作家ならではなのだろうか?
個人的には、本作の山は、2人の女のそこはかとない交情に加えて、笙子が書き続けなかったこととみはるが出家したことなのではないかと思うが、その2つとも描き込みが十分だったように思えないのだ。後者に関しては、それこそ寂聴自身がどこかに書いているのかもしれないが。
タイトルも若干わかりにくい。「鬼」と言われたら、何だか般若の面のような、おどろおどろしい情念を思い浮かべるが、それよりはもっと「逃げ水」のような、追いかけても手に入らないものを3人が3人とも追っているようにも思えた。
3人が3人とも、つながっているようでつながっていない。つながっていないようでつながっている。そのことが湛える深い孤独にふと胸を突かれる。 -
これは素晴しい作品だった。
身内だからこそ書けたのか。
父、母、そして不倫相手。だけれどもその不倫相手・寂聴は後々はいい関係性になっているし。
実際に「みはる」が語ってるし、「笙子」が語っている。
その間を篤郎が行ったり来たり。
これはやっぱり笙子さんが素晴らしかったですよ。
笙子さんであったからこそですよ。
私は瀬戸内寂聴さん、というより瀬戸内晴美さんが好きでした。
井上さんの本も、晴美さんの本も読み進めたい。
この不思議な関係性をもっと知りたいです。