サブカルチャー文学論

  • 朝日新聞社 (2004年2月12日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (672ページ) / ISBN・EAN: 9784022578938

みんなの感想まとめ

文学とサブカルチャーの交差点を探求する作品は、独自の視点からさまざまな分析を展開しています。特に、村上春樹の作品に対する解釈や、ビックリマンチョコを用いた物の売り方についての考察が読者を驚かせます。最...

感想・レビュー・書評

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  • 体裁からして異様な本である。私は単行本で読んだのだけれど、600ページ超、異常とも言える厚さ。「サブカルチャー文学論」をいうタイトルを見ると、大塚英志を知らない人間は「ライトノベルや少女小説などのサブカルチャー小説についての何かの論なのかな」と思うでしょう。そして大塚英志を少しでも知っている人は「サブカルチャーに陥落しつつある文学の話なのかな?」と感じると思う。しかし、これは私の読後感では一貫して、最初から最後まで江藤淳論である。この650ページと言及される様々な小説家は、すべて江藤淳の文学の基準を見定めるために使われている。
    大塚英志は『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』の中で、本書についてこう書いている。「ぼくが断続的に書き連ねている「サブカルチャー文学論」は江藤淳論として書かれている。江藤淳が自死したから便乗してそう記すのではなく、ぼくは江藤の仕事を人がサブカルチャーとしてしか生きられない時代にあって、その上でそれでもいかに生き延びるべきなのか、という殆ど絶望的ともいえる問いかけの連続として理解し、それが江藤の文学に対する基準、でもあったことを強く感じていた。江藤淳によって思いがけなくも賞賛された小説と強い口調で否定されあるいは黙殺された小説との間にある境界線とは「サブカルチャーであること」をめぐる批評的な態度の有無であったことは連載の中で執拗に検証してきたつもりだ」
    なぜここまで江藤淳にこだわるのか、という疑問がふっと浮かぶが、それは大塚英志の周りの編集者たちも同様のようで(そもそも保守とリベラルで立場も違うし、一見すると江藤淳のマッチョな振る舞いと大塚英志の少女的感性は最も相容れないもののように思える)、よくなぜ江藤淳なのかと不思議がられるというようなエピソードがどこかに書いてあった。
    大塚英志の読みでは、江藤淳のサブカルチャー文学への批判の基準は、その小説が描く仮構の世界に対して、作家が仮構であることの批評性を持っているか、という部分だった。それは江藤にとって、戦後日本が仮構であり、また自分自身も仮構の存在であると認識していたからである。そのサブカルチャーへの奇妙な感受性が、サブカルチャーの作り手としての大塚英志に感銘を与えているのだった。そのことはこれまた『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』で少しだけ、次のように説明されている。
    文学が上位文化でなくなったのと同様に、サブカルチャーも下位文化であった自分の位置を見失っている。不在になった全体をサブカルチャーが代行し始めているけれど、サブカルチャーには全体(超越性と言い換えてもいいでしょう)を代行する力はない。その時に、サブカルチャーが全体に陥落していく回路を断つためには、自身が何ものなのかということをしっかり定義づけしなければならない。だからこそ、大塚英志はサブカルチャーの作り手として、サブカルチャーがサブカルチャーであることの困難さをどう生き延びればいいのかということを、600ページ超にわたって執拗に検証していくのである。もちろん、この本がオウム後に書かれていることは偶然ではないでしょう。この本が執拗に見えるのは、実存の問いだから。大塚英志の江藤淳の読み方は、江藤淳の文章に対しても新たな可能性を開かせる。それはまさしく批評の力というものを感じさせるし、そしてこのような大塚英志の真摯な姿勢を、私は常に信頼している。
    余談ではあるが、この頃の大塚英志の江藤淳に対する文章は、本人が生きていたり、また死後時間が経っていなかったりするからか、抑制が利いていて美しい。この頃の大塚英志は、江藤淳に会ったこともなく、また文壇の中で自分は会えるような立場にもなく、葬式に参列するような存在でもなかったと自己規定しているが、最近の文章では、実は江藤が死ぬ少し前、大塚英志にコンタクトを取ろうとしていたが、それを大塚自身が拒否していたようなことが明かされている。この頃の抑制の美しさ、自己徹底のされ方と、最近の苛立ちに満ち、やや抑制を欠いている大塚英志の文章の質の違いに私は日本のリベラルの陥落を見るのだけれど、それはまた別の話なので、別の時に考えようと思う。
    私はこの本を読み始めた時、これが自分にとってあまりに素晴らしい本であることを予感した。しかし読み進めていくうちに、扱われている小説が、あまりにはるか昔に読んだものばかりであり、さすがに村上春樹などは内容も覚えているけれども、よしもとばななや山田詠美などは本当に小学生くらいの時に勢いよくすべて読んでしまい、その内容はすっかり覚えていない。が、この本を読むために、一度覚えていない小説は読み返したいと思ったのである。読み始めから読み終わりにやや時間がかかってしまったのはそういう事情だったのだけれども、結果としてよしもとばなななどを読み返してから読んで本当によかった。
    しかし、大塚英志は江藤の文芸評論を読み進めるうちに、江藤が示す文学は規定せずとも無意識に上位文化であり、サブカルチャーの立ち位置も明白であることにある種の感慨を感じているようだけれども、私は2019年、この本に書かれている作家たちのサブカルチャーと文学の出会いにすら羨ましさを感じる程度に堕落?している。村上春樹も村上龍もよしもとばななも山田詠美も、大江健三郎だって、彼らの表現がそれが江藤淳にとって認められないものだったとしても、そこには少なからず時代の反映があり、サブカルチャーの反映(これも江藤淳の認める文学にはならないと思うけど)があり、そこには語るべき問題があった。今や、彼らの最盛期は過ぎ、もちろん何か新しい小説はこれからも出版されると思うけれども、それが今の現実と何か結ぶことは考えにくい。後々から見れば、彼らの人生の一連の文学的流れの中に収まってしまうような内容になっていくでしょう。そしてその後、何かを結べるようなシーンはなく、私にとって小説は、素晴らしいものを提示してくれる部分はあるのだけれども、今と繋がるものではなく、化石発掘のようにその時代を慈しみながら今、何か転用できるものがないかと考えることに過ぎなくなってしまっている。文学の撤退戦は、これからいつまで続くのだろうか。

  • 筆者は戦後、特に1970年代以降の文学作品がサブカルチャー化しているという。あるいは文芸評論家・江藤淳の言葉を引用し、そう主張する。だから文学のサブカルチャー化を日本文学に限定して言及しているかどうかは曖昧である。しかし、日本文学に限定しているとしても、はたして日本文学がサブカルチャー化していると一般に言い切れるかどうか疑問は残る。

     ただ、これも文学一般の状況として考えるならば、ルネサンス以降の世界の社会状況は少なくとも冷戦の終結に至るまでの約400年間は文学のテーマが存在していたと言えると思う。そのテーマとはその時代における人の有り様、生き方に対する疑問・苦悩であり、「どうあるべきか」「どう生きるべきか」というある種の運命論であった。

     しかし、冷戦以降の状況はいわゆる高度消費社会が急速に進展し、先進諸国に於いては表現・精神の自由、職業選択の自由はほぼ完全に達成された。つまり不自由が無くなり、と同時に政治的イデオロギーは瑣末な差異の問題に縮小した。今日の政治話題は環境問題や経済問題であり、それは方法面の論争はあっても、大きな方向性はほぼ誰にとっても自明になっている。

     今日の状況にいたっては個々人の人生に「どう生きるべきか」の問題は運命としてでなく、ただの趣向の選択としての「どう生きるか」になった。社会の制約に翻弄され、束縛される個人の問題は消滅したと言ってもよく、あったとしてもそれはまさに「個人」的な問題であり、共有し共感できる文学のテーマにはなりにくくある。

     結果、現実とのコミットメントとしての文学は確かに昔と比べて発生しづらい環境になりつつあるのは間違い無いと思う。故に文学が極めて「個人」的問題を扱うか、あるいは単に不器用な生き方しかできない人間のドキュメントか、虚構を背景とするサブカルチャー化になるのはいわば必然の成り行きであるとも言える。

     それを踏まえて上で「サブカルチャー」化していく文学の現状と展望を批評することはそれなりに意味の有ることだと思う。しかし、筆者である大塚はその点における切り口がどうにも歯切れ悪い。「サブカルチャー文学論」と銘打ちながらも、実際には江藤淳を中心とするサブカルチャー批評をする批評家の批評だけに終わっている。そこには筆者の「サブカルチャー」論が欠如している。別な言い方をすればサブ「サブカルチャー」批評をしているだけであり、例えて言えば、料理を評論するのでなく、料理評論家の評論をすることで「料理を評論した」と主張するようなものである。だから大塚の「文学のサブカルチャー化」に対する意見は見えてこないばかりか、評論の対象とする人物も村上春樹、村上龍、山田詠美、大江健三郎などの一部に偏っていて、それで文学の「サブカルチャー」化を総覧するというのはかなり無理がある。

     単純に純文学が急速にその範囲と意味と意義を失いつつあり、従来の純文学を模して継続するならば、虚構をその根城にしなければならないということであろう。つまり、リアルな社会ではなく、文学のテーマが発生する似非地球社会を想像し、その中で文学らしきものを継続する。それはもはや純文学の定義からすれば、かなりその範疇に入れるのは難しく、むしろあらたな文学のジャンルとして認知する方がいいのだろう。実際にリアルな社会で生きるテーマを見いだせず、それでも「純文学」に浸りたいとする需要は世界中にあるだろう。村上春樹が世界で消費されている状況はその反映とも言える。

     社会全般が急速に都市化されて、養老孟司が言うところの「死が日常から駆逐」され、かつて暗闇であった部分も明るい光度0になり「鬼」が消滅されつつある。かつて伝統社会や国家が意味を押し付け、その対比・反射として個人の生きる意味を容易に見出すことのできた昔と違い、いまは対照的な生きる壁と足場を失い、無重力な空間の中で自ら生きる意味を探すのでなく、創りださなければならない。その足場を提供することが果たして「純文学」のテーマとなりうるかは分からない。宗教にその役割を求めるひともいるだろう。しかし、科学観の発達・浸透は従来の宗教からも意味を蒸発させつつあり、一般的な生きる意味の創造と役割を担うことは難しい。

     ただこのような困難な文学の状況の中で「文学」そのものの生きる苦悩を眺めるのは興味深いかもしれない。文学が自己言及的に「文学」を文学する有様は現代だからこその眺めでありテーマであると思う。

  • ちょっと長いなと感じた。村上春樹の分析など面白かったけど、一番おぉっと感心したのは、ビックリマンチョコとかけたある種の物の売り方でした。

  •  連載当時から評判が悪かった一冊。 確かに文学をサブカルチャーの領域に無理やり引っ張り込んで(サブカルチャーしか大塚は語れないので)、文学と戯れるのはいかがなものか。 が、中身は以外と面白い。 こんな解釈もあるのだなと変に納得する一冊。

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著者プロフィール

大塚 英志(おおつか・えいじ):1958年生まれ。まんが原作者、批評家。国際日本文化研究センター名誉教授。本書に関連する著書として『怪談前後』『「捨て子」たちの民俗学』(KADOKAWA)、『公民の民俗学』(作品社)、編著に『柳田國男 山人論集成』(角川ソフィア文庫)、『接続する柳田國男』(水声社)など。また、文学者時代の柳田國男と田山花袋を描くまんが原作『恋する民俗学者』(KADOKAWA)がある。

「2026年 『「学問」の本筋 柳田國男と双極の民俗学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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