- Amazon.co.jp ・本 (258ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022591173
感想・レビュー・書評
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今までに何度となくこの本を開き、ところどころ読み返していたが、久しぶりに最初から最後まで読み通してみた。
以前は立ち止まらずに読み飛ばしていただろう箇所がずいぶんあった。こちらも年齢を重ね、著者が言わんとすることが理解できるようになってきたのかもしれない。
医者として「らいの人」と接し、自身も大病を乗り越えてきている。その著者が、思索を重ねた結果、人間を超えるものを想定しないわけにはいかないと断言する。
何かをする以前に、人間としての「ありかた」がたいせつであり、何が有用であるか、ということさえ、人間にはわからないのではなかろうか、という。
まだ理解できていない箇所があるに違いない。時間をおいて、再び読み返す機会を持ちたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
498.6-カミ 300309846
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ジュンク堂書店池袋、¥462.
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1971年に出た『人間をみつめて』初版の3年後、1974年に朝日選書の1冊として新版の『人間をみつめて』が出ている。
「改訂版へのあとがき」(p.258)にも書かれているように、初版とは構成の一部が変わっており、II部の「らいとともに」(「らい」には傍点)から「短文二つをとり除き」、以前はIII部にあった「光田健輔の横顔」がここに入れられている。また、移動した光田についての文章とともに初版のIII部にあった人物論4つが廃され、III部は全く新しく「島日記から」となった。
II部から削られた短文二つとは、「万霊山にて」と「米国のらい病院をたずねて」(「らい」には傍点)だが、これらは、のちにみすず書房から出た『人間をみつめて』では復活して収められている。万霊山(ばんれいざん)は納骨堂。
初版にはなかった「島日記」は、神谷美恵子が40代でふたたび長島愛生園へ行くことになってから、島滞在のたびに小さな手帖に書きつけていたという日録である。この新版では、そのうち特に「関係事項」を拾いあげたものが収録されている(「島日記」の全体は、のちにみすず書房から出た著作集の9巻『遍歴』に収められている)。
1961年の日記。
▼二月十二日
朝九時に高校へ。主として前にフランス語を教えた十名ほどの学生たちと円くなって歓談。私は今書いている生きがい論について少し話した。学生たちはそれぞれ就職や大学入試受験の希望を持っている人たちなので明るい。ただ、社会へ出た卒業生の経験によると、自分がらいであった、という意識をかくし持っているためにすいぶん苦しむらしい。かくさないで堂々と社会復帰できる世の中ではまだないようだ。(p.222、「らい」には傍点)
1961年の高校生というと、敗戦の前後に生まれた世代だろう。団塊の、少し上。その世代のことを想像しながら、神谷が日記に書いた内容を読んで、クローゼットからのカミングアウトということを考える。クローゼットに押し込められてしまったのは、おそらく患者本人の意向ではなく、そうすべきだという法の力であり、病気に対する忌避感情の強さなのだろう。神谷のいうような「かくさないで堂々と」が可能となるとしたら、何がよりどころにできるだろうかと思う。
強制的に隔離され、社会のなかで「いないことになっている」者たちが、自分たちはここにこうして生きているのだと存在を堂々とみせられるようになればと思うが、そうはいかないための苦しみは「いないことになっている」者の側が負うことになりがちだ。
隔離した、忌避した、その主体とは誰なのかと考えると、ぐるぐるする。戦争責任の話みたいやなと思う。光田がワルイ、天皇がワルイというくらいで、強制隔離や戦争についての責任が尽くされるとは思えないから。強制的な隔離がこんなにも長く続き、戦争へと向かっていった、そういう社会につながる今に、自分が生きているということを、忘れたくないと思う。
▼八月二十六日
昨日は午前三時間講義したあとで中に入り、病室、外来を巡回した。外来の人の中にKさんが来ていたが、彼と話している最中に奥さんの容態急変の知らせが来て、その後間もなく亡くなった。Kさん夫妻は光田先生に全生園からつれて来られた愛生「開拓者」の一人。恋女房をうしなってどうするだろう。彼は戦後プロミンが開発されてからいわゆる「光田イズム」批判の動きが起って来たことをいつも怒っていて、先日も舎に往診した時、「自分でいいと思ったことを生きぬいて、どうしていけないのか」と拳をふって悲憤慷慨していた。(p.226、全生園とは、東京の多磨全生園)
このKさんは、別のページで「いったい、どうして光田先生を尊敬してはいけないのだ」と号泣する姿が書かれている人のことだろう。神谷はKさんのことを「光田先生が連れて来られた、えりぬきの患者さん」(p.196)とも書いている。えりぬきの患者がKさんであったとすれば、光田や神谷に批判的な患者もあったのだろう、各療養所にあった懲罰房に入れられたという人たちは、あるいはKさんとは全く違うタイプの人たちだったのではないかと思う。
1964年の日記。この年は光田健輔が亡くなっている。
▼五月二十六日
光田先生ついに昇天され、昨日岡山でお葬式。今日は園葬。患者さんたちと万霊山まで歩いて納骨式にも出る。感慨胸にあふれる。(pp.236-237)
▼十一月二十一日
Nが島へ一緒に行って園長と話してくれることになった。新大阪で彼とおちあい、日生まわりで島へ。よる園長官舎へ。私は精神科医長として採用されることになった。任官は来春までのましていただく。Nと先生の間に細胞学の話がはずむ。
患者のすわりこみを警戒して園長はここ二、三日ちっ居中とのこと。患者と職員が敵同士になり果てている園の現状。新しい精神病棟建設にも反対の坐りこみが始っている。(p.237、Nは神谷の夫・神谷宣郎を指す)
1951年には、全国国立らい療養所患者協議会(全患協)が結成され、政府に対して旧癩予防法改正を求め、また各地の園では作業放棄闘争やハンストが広がった、という。1953年には国会陳情・座込みが行われたというが、1953年に成立した新らい予防法は強制隔離政策を継続するもので、「近き将来本法の改正を期する」と付帯決議もされたが、らい予防法が廃止されたのは1996年、43年も後のことだった。
神谷が「患者のすわりこみ」と書いている1964年の前年には、全患協が厚生大臣宛に「らい予防法改正要請書」を提出しており、愛生園でも患者の反対闘争があったのだろう。
神谷美恵子は、光田イズム批判の激しくなった当時を「いったい、人間のだれが、時代的・社会的背景からくる制約を免れうるであろうか」(p.196)とも書いている。それは、「今」から見れば光田擁護に思えるし、神谷もその強制隔離策を支えた存在ということになるのだろう。「時代的・社会的背景からくる制約」も考えつつ、それでもやはり、隔離はどうなのかと考えたい。
あわせて借りてきていた『神谷美恵子の世界』で、加賀乙彦が「神谷美恵子さんの思い出」を書いているなかで、光田健輔のやってきたこと、神谷美恵子のやってきたこと、それらは「時代の波の中にあった」「歴史の中にいた」と見るべきではないかと書いている。
ハンセン病が"治る病気"となった戦後にも、光田は引き続き、らい予防法が存続したほうがいいと言い、隔離の存続を主張した。そのことが、患者たちの解放運動の側からみれば批判の対象になる、ということはわかる。
▼…1950年にプロミンが日本にやってくる。でも、時すでに遅しなんですよ。その前に発病して、体が崩れてしまったり、盲目になってしまった人たちの治療は、無菌状態にすることはできるけど、体をもとに戻すことはできませんでした。そこで、身体障害を持った人々が療養所のなかに取り残されていくという状況があって、それを光田健輔は、この人たちは一生やっぱり国が責任をもって見なくてはいけない、という主張をしたのです。
それは、ある意味では正しく、ある意味では反時代的な発言であったと思うのですけれども、神谷さんの活動もそういう時代の波のなかにあったということは、私はやっぱり考えなくちゃいけないんじゃないかと思います。…(『神谷美恵子の世界』、pp.193-194)
リバティおおさかでやっている「たたかいつづけたから、今がある~全療協60年のあゆみ~」を、終わる前に見にいこうと思う。
(8/15了) -
〈人間を超えたもの〉への〈感謝〉を呼び覚ましてくれる作品。江尻美穂子『神谷美恵子』は、評伝として比較的よくまとまっており、「人と思想」を知る上で併読をすすめる。 (2010: 村松晋先生推薦)