違法の戦争、合法の戦争 国際法ではどう考えるか? (朝日選書 (782))

著者 : 筒井若水
  • 朝日新聞社 (2005年8月5日発売)
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  • Amazon.co.jp ・本 (260ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784022598820

作品紹介

人類の歴史に戦争がなかった時期はない。なくならない戦争を前に、人類の英知は戦争被害を最小限にするため、戦地での傷者や病者の保護、捕虜の待遇、文民の保護、毒ガスの禁止など、戦争国際法を作ってきた。これがジュネーブ法として現在も継続されている法である。戦争が人類を滅亡させるほどの脅威となった20世紀、国際法は、戦争そのものを禁止とした。-しかし戦争はいまだになくならない。はたして戦争禁止は実現可能なのか。「戦争」と呼ばれない戦争状態を、国際法ではどう扱うのか。違法のはずの「戦争」勝者を誰が裁くのか。対テロ戦争は違法か合法か。国際社会は、国連は、「戦争」をどうとらえているのか。国内法との違いも踏まえ、国際法の立場から探る。

違法の戦争、合法の戦争 国際法ではどう考えるか? (朝日選書 (782))の感想・レビュー・書評

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  • 武力行使禁止原則の下で、実際には行われている武力行使をどうとらえるか、ユス・アド・ベルムとユス・イン・ベロをどうかんがえるべきか(正当側はユス・イン・ベロを選択的に適用してよいか、ユス・アド・ベルム偏重の結果として武力行使の態様はどうなっていくか、など)など、「戦争」を国際法で論じているという点では非常に面白かった。
    武力紛争法は素人なので、ユス・アド・ベルム?ユス・イン・ベロ??って感じで、内容的にも個別に言いたいことは何となくわかっても、全体通してどういう主張・考えなのってなると、いまいち理解しきれていない。再読の要ありと認む。

  • 世界政府論に人々が引き付けられたのは、何よりも大戦への恐怖からである。
    1990年にイラクがクウェートに侵攻したのも、朝鮮と同じく、イラクの考えるところの国家が分断された状態を解消するためである。
    国際機構は、戦争の制限、禁止をはじめ、一艇の目的の元に設立され、諸国はその目的の実現に努めるように約束して、その加盟国となる。

  • 国際法を絡めながら憲法9条や現代におけるテロ行為、国際連合憲章について論じている。元法学部生としてはとても興味深かったが、この文章を読むのになかなか苦労した。小段落ごとのテーマに沿った内容はだいたい理解できるが文章全体の背後に潜んでいる真の主題をうまく汲み取ることができなかった。また複読します。

  • 国際法をきちんと勉強したことがなかったせいか、非常に読みにくい文章だと感じたので、どこまで理解できたか自分でも把握しきれていない。なので、ひとまずいちばん基本的なところ、国際法の役割についてまず考えてみたいと思う。もちろん国際法は著者の言うように国際社会の平和確保が目的ではあるが、それでも「法」とひとくくりには語れない性質があるのではないかと考えたためである。それがたとえば、国内法の性質と国際法の性質には決定的な違い(後述)があるし、性質が違うゆえん、それぞれへの捉え方や役割も自然と違ってくるだろう。したがって、国際法を理解する上でまず始めに国際法と国内法の性質がどのように違うのかを考えてみたい。
     さきに国内法について考察すると、民主的な法治国家であればだいたいどこの国の国内法もそうだが、国内法にはさまざまな種類の法から成り立っている。条文憲法をもつ国であれば、憲法を頂点にして、下に刑法、民法、刑事訴訟法、労働法、道路交通法(便宜上、これらを憲法と区別して「下位法」と呼ぶことにする)などと続く。これらの下位法は、ほとんどの国でそうであるように、憲法に矛盾のない内容から成り立っている。憲法はそういう点から、国内法において絶対的頂点に位置しているのである。そして、国内法一般(=憲法+下位法)と法執行の関係について見れば、国内法は裁判所が唯一の司法の場となっている。殺人を犯したのであれば、よほどの窮地に立たされた自己防衛でもない限り、有罪判決を受けるのが当然である。そして国民は有罪であろうが無罪であろうがその判決を絶対的で正統性のあるものとして受入れ、これに従うのである(もちろん控訴や上訴することはできるが、最終判決を拒否して受入れない権利はないだろう)。そういう意味で、法に従う国民もまた、法の絶対的拘束を受けるのである。また、国内法の制定プロセスについて見ると、立法するのは三権分立されている場合は国会とよばれる、いわば国民の代表者の集まりである。そこには絶対的権威をもつ法に従う国民の民意がなにかしらある程度反映されている建前である。(もっとも憲法に関しては、日本の場合、そして多くの国の場合、国民の直接投票が要求される。)国内法はこのようにして、正統な裏づけによって国民の上にたち、国内法が違反に関してその国民への拘束力と強制執行力をもつのである。
     ところで、国際法はどうだろうか。通常の理解によれば、一般に国際法とよばれているものには「法」という実体がない。その中味は大きく二つにわかれ、慣習法と成文法である。とくに後者に関して言えば、国家間の条約や宣言(もっともこれも条約の一種であるが)から成り立っている。国連憲章も国際法(条文法)の一種である。ところが、国際法(条文法)に関しては、どうやら国内法でいう「憲法」的なものが現物として見当たらない。「憲法」の役割を果たすものとして、条約法がある。はたして条約法が国内法の「憲法」と同じくらいの絶対的拘束性があるかどうかは不明だが、国際法(成文法)をつくるうえで大事な役割を果たしている。一般国際法の強行規範があり、これに抵触する条約(国内法の「下位法」にあたる)は無効とされている。これがいわば、国際社会の一般的利益を指すもののようである。執行について見ると、国際法のおける執行過程は分権的とされ、判決は法的拘束力を持ちながらも強制執行され得ない。つまり、判決の拘束をうけるのは、判決を受入れたときのみということである。そしてほとんどの場合、当事国の合意なしには裁判も始まらないし、その判決は強制執行より低い勧告や当事国らによる話しあいで解決させるものが多い。また、本書にもたびたび出てくる国連の強制措置は、必ずしも法執行の意味をもっているわけではないようだ。そして、条約を主とする成文法に関して言えば、国家が条約を承認し、一定の支持を得た条約(あるいは二カ国間条約のような当事国間の合意を得た条約)が発効してはじめて拘束力を持ちえるのであるし、拘束とはいえ、締結国が条約脱退すればその国は拘束から逃れるのである。つまり、(国内法の国民にあたる国際法での)国家は、ある意味法の上に立っているのでもある。絶対的拘束力がないのが国際法の実体ということである。
     このように、国内法と国際法を比較することによって、国内法の拘束性があることで国家内には秩序が生じるのであるし、国際法にはそれがないため、国家内のような秩序が国際社会に生じることはない。したがって、国際法がありながらも(不法とされる)武力紛争(侵略など)をなくすことはできないのである。

     さて国際法の性質を理解したうえで、いつものレポートに戻ることにする。今回の課題図書で著者が言いたかったことは、なんとなくではあるが、武力行使があることは致し方がないのだが、そのなかでも文民を保護することが現在の国際社会が成し遂げられる(というよりは、まだできるかもしれない)最大のこと、というように理解した。ところが、ここにも二つほど問題がある。一つ目、文民保護といっても、戦争形態の変化によってそもそも誰が文民で誰が非文民なのすらつかない状態になった。国連のソマリアでの経験のように、難民キャンプをつくったところで、ゲリラ兵が文民に混じって援助を受けることもあった。これでは文民保護が意図とは逆にゲリラ兵を保護することになってしまう。また、文民保護と言った場合、コソボでのNATO空爆やイラク戦争を見ればわかるように、武力制裁する側には相手国・地域の文民を保護しようと思う気持ちなどまったくないのである。このような制裁を行なう側に今以上に文民保護の義務を課すことができるよう(可能かどうかの議論はさておき)国際法の整備も大事だが、文民保護の意識を国際社会のなかで広め、この意識をさらに固めていくことがいま一番必要とされているのではないだろうか。
    前回のコスモポリタンというわけにはいかないが、「人間の安全保障」を武力紛争において前面に出すことは不可能ではないように思う。まだ完全に読んだわけではないが、このことと関連して2001年にはカナダの「介入と国家主権に関する国際委員会(International Commission on Intervention and State Sovereignty:ICISS)」が「保護への義務(The Responsibility to Protect)」と題されるレポートを出している。おおざっぱなことをいえば、国家には国民を保護する義務があり、もし国家がこれに失敗したときは、国際社会がこの義務を負うとするのである。ここには人権や国際人道法の理念が背景にあるということである。つまり、(不法とされるような武力紛争や強制措置における文民保護などに対する)強行執行を欠く国際法を補うために、文民を保護することを国際社会の義務としたのである。もっといえば、「人間の安全保障」という観点からスタートして、国家の形にこだわらない組織が文民保護を行なうということである。これによって少なくとも上の段落で挙げた後者の問題を解決することができよう。その主体はたとえばジュネーブ条約提唱のもととなった国際赤十字のようなNGOから、国家による拘束の比較的少ないUNHCRなどのような国連組織まで挙げられよう。
    ゲリラ兵と文民を区別できないから十把一からげに攻撃すればよいはずはない。国家の影響力の大きいところでは、確かに文民保護といった動きを求めても応えてくれる期待は少ない。だが、構成主体がもはや国家に限らなくなったいまの国際社会であるからこそ、国家の影響が比較的少ないところで、ジュネーブ条約を丁寧に実行していくことが可能である。国際法の欠点を補うためにも、そうした国家影響のあまり及ばない団体を支援していくことが大事であろう。

  •  筒井先生の書かれた本。国際社会における国際法と公権力の議論は同領域における主要なテーマでもある。

     武力行使は主要な強制力行使の手段であり、この観点から公権力を考えることが重要であるのは言うまでもない。


    [感想]
     
     見方が偏っているかもしれない。確かに安保理は国際社会において特別な地位にあり、それが決定する強制行動はあるいみ公権力の現れであるとも言える。しかしながら、現段階でははっきりと安保理による強制行動が公権力の発動とは言いがたい。現象を捉えれば、そう見えるものの、いまだに国際法の解釈は各国にゆだねられており、自己救済も完全に否定されているわけではない。

     著者は同書を大衆向けとしているものの、「戦争」という用語を自衛権、復仇、侵略戦争およびその他の武力紛争を含む概念として用いており、合法な戦争、違法な戦争という単純な構造を提示している。
     しかしながら、違法ないしは合法な武力行使と表現したほうがより理解しやすいと私は感じる。なぜなら、戦争という言葉には政治的なニュアンスが含まれるように思われるからだ。合法違法を論じるのであれば、政治的ニュアンスを廃した、現象としての”武力行使”という言葉を用いた方が誤解を招きにくいと思う。
     ないしは、序章にて”戦争”という用語についての分析ないしは定義づけを行うべきであったと思う。

     大衆書であることは理解できるが、憲法や国連憲章にも武力行使という用語が用いられていることからも、同語を用いたほうがよりすっきりすると思う。また、国際法になじみのない日本人にとってもそのほうが啓蒙という意味においてはよいと思う。

     最後に大衆書であることは理解を示すが、僕にとってはあまりおもしろいものではなかった。これは著者もあとがきで書いているとおりである。まったく国際法を学んでいないものには良い本だといえよう。

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