- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022599469
作品紹介・あらすじ
日本最難関と言われる東大入試。その国語・現代文問題には良問が多いが、なかでも「第二問」は、文章を読んだうえで感想や考えを160〜200字で書かせる、独特かつ伝統的な「200字作文」である。世に出たばかりの金子みすゞの詩を取り上げた「伝説の1985年第二問」を始め、寅さんのセリフ、死に行く友人への手紙…とバラエティに富んだ作品が毎年出題され、これらには実は通底する大テーマがあった-。まさに「至高の第二問」である。1999年をもって、この「第二問」の形式は消えたが、今なおこのテーマは東大入試に出題され続けているのだ。東大は受験生に何を求めているのか-。過去問30年分を分析し、題材となった様々な文章を読み解き、解説書の「赤本」では触れ得ない作品の本質に、ひいては東大入試の本質に迫る。
感想・レビュー・書評
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筆者は私と同年代。私も東大受ければ良かったかな。
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東大の国語が一貫して問うてきた「死」。その軸に沿って、東大の過去問を紐解いていく。筆者によれば、受験生の解答はおろか出版社の「模範解答」すら表層的な理解にとどまっており、東大の意図を捉え切れていないという。
比較的難解なテーマである一方、決して難しすぎないと思うので、東大に関わりのない人も含めて一度は読んでみることをお勧めしたい。 -
金子みすゞ
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東大の入試問題にここまでストーリーを見出すか!
あまりにも鮮やかに描き出しているので、懐疑的になってしまうけれど、通読してみると、やはり納得させられてしまう。
それが深読みなのかどうかは分からないが、ひとつの分析のかたちであると思う。 -
俺は頭が良くないから難しいことはよくわからないけど、この本は「東大入試の国語」の問題にはに死と誕生、彼岸や食物連鎖のような対照的、対極的のようで連鎖している深いテーマを見つけようとしている。
関係ないけど、万物が「死」をむかえるのは、あとから生まれる「生」が進化を促すから感じた。 -
東大の入試で出されていた「死」をテーマとする「第二問」をピックアップしている。
金子みすゞや寅さんのセリフが入試に取り上げられている大学の凄味と、その中のテーマの難しさ。勉強「しか」やってきていない受験生には手も足もでないだろう。 -
深く考えさせられました。
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先ず、金子みすゞの解釈から、死生観が究極の問題。
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過去30年の東大現国入試。その至高の第二問。
99年まで東大入試現代文には、「二百字作文」と呼ばれる問題形式が存在していた。それはある文章を読んで、それについて感じた事、考えた事を二百字で述べよ、というものだった。
後年になるほど「単に要約、説明、体験談を求めているのではない」という注釈がつくほどこの問題にたいして率直に意見を述べる学生の割合が少なかったのだろう。作文なんて何年ぶり、という学生も多かったのかもしれない。
それはさておき、そこで取り上げられる文章がどれもこれも「死」を意識せざるを得ないものばかりで、まるで東大現代文は死に取り付かれているようだ。
一見、死の香りもしない文章の引っ掛かりを探ってみると、その根底には死が潜んでいる。
伝説の良問と名高い1985年の金子みすずの詩は、そのまま読めば弱者への配慮を忘れないように、ともとれる。
だが、これは誰もが誰かの犠牲に成り立っているという「みんなクロ」という構造を示している。
他人事ではなく、私たち自身が被害者でありながら加害者であるという意識を突きつけている。
一般的な受験勉強ではこのような考え方については教えられない。けれど、死や罪といった答えの出ない矛盾や苦しみを持つ「デクノボー」たちに東大は優しい。そういう人を求めているのだろう。
その「死」であるが、死とはまた生の対極にあるものではない。
時間軸が生から始まって真っ直ぐに伸び、最後に死で終わる。このような時間軸なら生まれたものには死に向かって生きている。
けれど、それとは別の時間軸、季節で円環する時間軸もある。そこには死(冬)の後に生(春)が来る。そして、また死に向かっていく。
誕生=死の方程式が成り立ち、生まれるためには死をくぐらなければいけない、という世界観がある。
すると、死は回る時間の中の一つの過渡期にすぎない事が分かってくる。
排除しがちな死は以外にも日常の中に潜んでいる。それは夢の中の空き地の光景の泣きないほどの懐かしさだったり、線香花火の落ちる灯の切なさだったり、散っていく桜の花びらの儚さだったりする。
その小さな死に目を向けると、私達の日常は容易にひっくり返ったりするのだ。
死とは生の始まり、とは何も季節の例えにすぎるわけではない。
生き物は皆死ぬが、誰だって死には恐怖を感じる。だが、死をだんだんと受け入れられる心境に変わっていくらしい。それは積極的な死への希求ではなく、次世代が自分達の役割を担っていく事を認め、生を諦める事、と記述されている。
その意味でこの社会は祖先の遺産/犠牲の上に成り立ち、私達は彼らからプレゼント/負い目を受けている。
私達の役割とはその債務手形を次世代に引継ぎ、どんどんドミノ倒しのように次へ次へ渡していく事だ。
死の上に生が成り立ち、誰もがそのドミノの上にある。
その事が「第二問」の根底を流れるテーマだった。
・蛇足になりますが、備忘録として引用します。
「言葉」の語源(「言」はコトの全てではなく、ほんの端にすぎないもの)
「子供の頃、おそらく私達の多くは似たような経験をしているはずだ。
遠足の興奮をあとで作文に書こうとして、できあがった文章がどうもしっくりこなかった経験として。
遠足という事態を振り返って捉えようとした瞬間、その時の興奮は手からすり抜けていってしまい、何度「楽しかった」と繰り返しても、陳腐な「抜け殻」の負ような表現になってしまう。
(中略)
まして言葉によって乱舞する雪という「こと」を表現しようにも、ほんの「端」にしか言葉(ことのは)にならない。」 -
P7
たとえば、ある青年医師の経験は象徴的だ。一九七七年、三〇歳の医師が
線維肉腫で片足を切断する。しかし、その九ヵ月後、胸に痛みを感じる。
ガンの転移である。その日のことを彼はこう記している。
(転移を知った)その夕刻。自分のアパートの駐車場に車をとめながら、
私は不思議な光景を見ていました。世の中が輝いてみえるのです。
スーパーに来る買い物客が輝いている。走りまわる子供たちが輝いている。
犬が、垂れはじめた稲穂が雑草が、電柱が、小石までが美しく輝いてみえるのです。
死に直面すると、これまで何気なく見ていた、いわば白黒の世界が、
突然このように総天然色の輝く世界へと姿を変える。世界がまったく違って見える。
・・・
桜は同じなのだが、自分が劇的に変化した、ということである。養老は言う。
「知るということは、自分がガラッと変わることです。したがって、世界が
まったく変わってしまう。見え方が変わってしまう。」
●これは欺瞞じゃないかな。下記のように人間の感覚の不確かさを
象徴しているだけだと思う。
・一緒に食事をしていた友人がタバコ嫌いだと知ったから吸わない。
・あいつのことは嫌いだけど、具合が悪いと知ったからやさしくする。
・ただの茶碗だと思ったけど、100万円もすると知ったら良い物に思える。
こういった感覚で死を美しく捉えようとしてはならない。死の感覚を
歪めてはならない。
●普遍的な『ほんとうの幸せ』なんて存在しないんじゃないかな。
●人間が生き物の犠牲のうえに生きなければならないことは、ほんとうに
不幸なことだろうか。仮にテクノロジーが発展して、人間が空気から
エネルギーを得ることができるようになり、一人で誰にも迷惑をかけず
生きることで幸福になれるのだろうか。世界では微生物を魚が食べ、
魚の屍骸を微生物が食べているのに。生き物が他の生き物を殺さず
生きていくことで、幸福になれるとは思えない。
●生き物を殺して食べて自分が生きることが偽りの幸せだとする。仮に空気をエネルギーに変える機械が発明されて、人間がいかなる殺生もおかさず一人で生活できたとして、外の世界は変わらず草は牛に食べられ、牛は虎に食べられている。さらなる革命が訪れてすべての生き物が空気で生きて、何者にも害を与えない世界になったとき、『ほんとうの幸せ』が訪れるのだろうか。
●春 暖かい陽射しを好きになる。太陽は喜んで近付く
夏 熱い陽射しを憎む。太陽は慌てて離れる。
秋 日に日に涼しくなる陽射しに安堵する。太陽はますます傷付き離れる。
冬 寒さを嫌悪し家にこもる。太陽は傷心のなかで近づいて行く。
☆きっかけは日経トレンディの読書術に関する書評をみて
読了日:2010/08/
著者プロフィール
竹内康浩の作品





