- Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022600233
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『ある記憶』の描写が美しかった。
本当にこの人は美しい表現をされる……うっとりして何度も読み返した。
1956年の秋の話。
スエズの動乱がおさまったのちに、再開されたバグダッド飛行場からテヘランへ。
p226
「…略…天日に、土も石も木も街も人もが曝し尽くされていたイラクの風物を痛い迄に見て来た僕の眼に、緑の多いイランの風景はどんなに美しく見えた事だったろう。」
この後、滞在最後の日。最後の夜の乾盃をす可く、お酒を呑む建物に入るのだけれど、「強いて言えば、酒楼とでも形容するのが最も似合いそうな店であった。」
「
酒楼の中は広く、煙草の煙と酒の香りの立ち籠めたその中には、数百人の男女が夜を過ごしていた。
巨大な壁面の其処此処には豪華なペルシャ絨毯が掛けられ、天蓋をかたどったシャンデリアの柔かい光りの輪の中では、ペルシャ服を着た数人の楽隊が不思議な旋律を奏でていた。僕は、細かな透かし彫りのある木の衝立を背にした落ち着いた一隅を見付けて、其処の卓子(テーブル)に着くと、古風なペルシャ風の服装をしたボーイの持って来たワイン・リストの中から、アラックを註文した。ボーイのだぶだぶに膨らんだズボンと、先きが上に細く反り返った履き物と、腰の帯に吊った偃月刀(えんげつとう)を見ながら、何時頃までこの国の人達はこんな服装をしていたのかと僕は考えていた。イラクではまだアラビヤ服が多かったが、イランで…略…」
『一衣帯水』も、海に隔てられた他国との距離を思う悲しい話でありながら、とても美しかった。
「
「…略…座礁した露艦からぶん獲った鐘を、中学の、時間を知らせる鐘に最近迄使っていたりしました」
その話の途中で、点々と、そして、遂には海一杯に迄拡がった漁火が点き始めたのである。且(かつ)て大海戦が行われ、巨大な水柱と火柱が錯綜し、鐵の裂ける轟音が渦巻き、悪魔の饗宴が繰り拡げられた海に、今、人たちは、平和の漁火を点し、烏賊を追う。時の流れの中の、その二つの事柄の対照は、僕の心の中のフィルムに、感動的なコントラストとして焼き付くのだった。
漁火は、何処までも、何処までも、海を一杯にするかのように、美しく拡がって行った。
」
「
日の沈んで行く方角の空には、今日の名残を未だ歌い続けたいかのように、茜色の光りの征矢(そや)が飛び交っていた。風の無い空に、耳を澄ませば、何千、何万、何十万という光り輝いて飛び交う光りの征矢からは、人間の耳には捉える事の出来ない程サイクルの高い音が降って来ているように思われた。若し、人間の耳が捉える事が出来たとすれば、その音は、高く澄んだ鈴の音に似ているように感じられた。秋の音だ、空の音だ、光りの音だ。僕はそう思った。」
」
「
四辺を海に囲まれた島国に生きて来た我々日本人は、常に隣国との境界を意識して暮らして来たヨーロッパ人と異って、国境という概念への認識が希薄である。国境という語は、何処か、遠い国々の境界に引かれた線のように考えられ勝ちだし、国境という語自体が、既に、エクゾティックな響きを宿して我々に聞こえ勝ちである。然し、海を隔てていても、国境は厳としてあるのだし、もっと広く考えれば境界線(ボーダーライン)というものは、国と国との間どころか、国の中の、県と県との間にも、街と街との間にも、家と家との間にも、その家の中の部屋と部屋との間にも、そこに住む人間と人間との間にも、そして、悲しい事だが、人の心と人の心の間にも、厳としてあるのが事実だし、その境界線の中で自分を磨く事だけが、境界線の中を広々としたものに変じ、境界線を勝手に乗り越えて悲劇を醸すの愚を避ける唯一の方法なのだという事も思う。我々が今生きているという事さえ、死との境界のこちら側に居るという事だけなのだと思う。
」
高見順さんの「死の淵より」から詩を引かれて
「
生と死の境には
なにがあるのだろう
たとえば国と国との境は
戦争中にタイとビルマの国境の
ジャングルを越した時に見たけれど
そこにはなにもなかった
境界線などひいてなかった
赤道直下の海を通った時も
標識のごとき特別のものは見られなかった
否 そこには美しい濃紺の海があった
泰緬国境には美しい空があった
スコールのあと その空には美しい虹がかかった
生死の境にも美しい虹の如きものがかかっているのではないか
たとえば私の周囲が
そして私自身が
荒れ果てたジャングルだとしても……
」
別の巻で、白夜の島を訪れたときの光景をいぶし銀の空、いぶし銀の世界と表現されていて、『一衣帯水』の中でもいぶし銀の光りと書かれていた。とても、美しかった。