女人平家 上 (朝日文庫 よ 1-5)

著者 : 吉屋信子
  • 朝日新聞社出版局 (1979年5月発売)
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  • Amazon.co.jp ・本 (237ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784022601957

女人平家 上 (朝日文庫 よ 1-5)の感想・レビュー・書評

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  • (2005.08.15読了)(2005.02.06購入)
    平忠盛と平清盛の息子たちの話は、平家物語・源頼朝・源義経の話の中で、多く語られ、合戦絵巻などにも繰り返し現れるわけですが、平清盛の娘たちについては、さほど語られる事はないようです。この本は、平清盛の妻平時子と娘たちについて書かれた本です。
    時子の産んだ子供は、男3人、女3人の6人ですが、先妻の子や、清盛が他の女に産ませた子供も引き取って育てるので、8人の娘たちが登場する。平氏の系図に名前が明記されているのは、安徳天皇を産んだ徳子と盛子(摂政関白の妻)のみで後はただ女子とのみ記されているとのことです。小説家というのは、これだけの資料で、さも見てきたように生き生きと動かし、生き返らせてしまうのですから驚きです。

    平清盛は、右近将監高階基章の娘と結婚し、長子重盛が生誕した。清盛このとき21歳。清盛の妻は重盛が5歳の冬に風邪と思えたのが病状が変わって逝った。
    1145年清盛28歳の時、時子18歳と再婚した。清盛の子は、重盛一人と思っていたら、別の女性に生ませた基盛がおり、家臣のもとで育てられている。
    1147年冬時子の実子が生誕した。宗盛と名付けられた。2年後に、基盛も時子が手元に引き取り、兄弟三人一緒に暮らし始める。
    1152年、清盛の4男知盛が生まれた。知盛り誕生の7日後にもう一人清盛の第一女昌子(よしこ)が侍女から生まれていたが生母は産後の肥立ちが悪くみまかったため、時子が引き取り育てることになった。
    1153年正月、清盛の父平忠盛は、58歳の生涯を終えた。清盛はこの年36歳の男盛りを迎えていた。忠盛未亡人の房子は、実子頼盛の館(池のほとりにあったのでその邸を池殿と称した)に移り髪を切って尼姿となったので、池の禅尼と呼ばれた。
    1156年2月、清盛北の方時子に男児誕生、重衡と命名、母子健全。4月に清盛のもう一人の子供盛子誕生。この子も六波羅に引き取られ、時子が養母となった。
    この年、保元の乱が起こり基盛が初陣した。嫡子重盛は、中納言藤原家成の姫と婚礼を行った。重盛20歳。
    1157年の初冬、清盛北の方は四度目の出産で初めて姫が生誕した。徳子と名付けた。
    1158年冬に時子はまたもや姫の母となった。その姫は寛子と名付けられた。
    1159年平治の乱が起こった。乱のさなか、時子は三人目の姫を出産した。時子は32歳。姫は、典子と命名された。
    1160年、源頼朝は池の禅尼の助命運動により助かり、常磐の三人の子供今若、乙若、牛若も寺に入れて出家すると定まった。
    真夏のある日、次男基盛は、水かさの増した宇治川を馬で渡ろうとして、馬もろとも水中に没し、21年未満の若い生涯を終わった。
    その秋、宗盛14歳と時子の末の異母妺郁子15歳の婚礼が行われた。
    1162年、時子は、西八条邸に平家の女系家族だけで移り棲んだ。
    平清盛の子供は、常磐に産ませた子供もいるが、時子は、この子はさすがに引き取らなかったし、清盛も時子には知らせなかった。
    「六波羅時代から、もう長女の昌子や次女の盛子は読み書き手習いを教えられていたが、それも西八条へ移ってからはいよいよ本格的に、しかるべき師の指導を受けさせようと時子は考える。7歳の徳子と下のまだ童女の寛子、典子にも、早く難波津から始めさせたかった。難波津とは少女の最初の読み書きの手習い文字だった。難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春ベと咲くやこの花-この和歌が仮名文字手習いに用いられていた。当時の貴族の子女は、第一に手習いに身を入れ、第二に琴を弾じて人に遅れを取らず、第三に「古今集」20巻はことごとく暗誦しなければならぬのが、教養の基準であったから、習字、弾琴、和歌の三科目は絶対に欠かせぬ。」(96頁)
    娘たちの教育係に選ばれたのは、世尊寺伊行と妻の夕霧夫妻であった。
    次女盛子8歳に縁談が持ち上がったとき、盛子は双子の姉で、妹は、尼寺に預けられて育てられていることが分かった。盛子は、六畳殿摂政基実公の北の方にと定められた。結婚の儀式の時、基実は22歳で既に一子の父、盛子は9歳。披露宴の席で、盛子の妹佑子が西八条に迎えられた。
    佑子は、庵主の老尼がやがて写経させるために漢字の教育をしており、文字は、千字文を学習中で、漢文は『白氏文集』を少し教えられているということで、漢文の師を必要とした。世尊寺伊行は、大江広元(16歳)を推薦しようと考え依頼にいったが、「この広元、一学生に過ぎぬ身ながら、たとえ今をときめく平家の息女とは申せ、幼き小娘に漢文を講ずる閑日月は持ちませぬ。」「清盛公がこの広元に「貞観政要」の講義を乞わるるならば喜んで参上、清盛公の政治観念の大いなる欠陥を指摘してご参考に供したい、それなら明日にもその求めに応じまする」と断られてしまった。
    その後、広元は、思いなおして佑子の漢学の師を引き受ける。
    1166年3月上旬、花の盛りに清盛の長女昌子が正三位権中納言、官職は右兵衛督花山院兼雅と結婚成立した。新郎20歳、新婦は15歳の春だった。
    7月末に摂政基実がまだ二十四歳の若さで病死した。幼妻の盛子は11歳の可憐な未亡人になった。継子の元通は嫡子ながらまだ8歳の幼さであった。
    1167年清盛は、頭痛のため太政大臣を辞した。1168年病気平癒を願い出家した。このためか頭痛は嘘のように消えた。
    大江広元が佑子の漢学指導を始めて3年たった。「姫の学業もひとまずここまで成就されしを見届けて安堵の上、このたび太政官庁少納言局に仕官いたすと心定めました」「佑姫、この広元はすさまじきものは宮仕えと心定めて、生涯を気ままな学究の徒として送るをむしろ本望とのその志を曲げて、このたびの仕官に踏み切ったは、このままでは入道大相国と北の方に頼もしき男と認めていただけぬを恐れた余り、この上は世の常の男のごとく、立身出世一筋に励み、名を上げ高位の職に昇って、平家の美しき姫を得たいと思い詰めました」と広元が言うのに対し、「佑子は無位無官のままにても、ただ学問にひたむきの今の広元さまに女の一生を賭けたいと思うて居りました」と答える。(219頁)
    (「女人平家上巻」の後半は、大江広元と佑姫の恋物語に費やされている。大江広元が太政官庁少納言局に仕官したのは事実かと思われるがそれ以外は、作者の創作と思う。)
    太政官庁少納言局は、詔勅、宣命、宣下を勘考して正し、あるいは太政官の奏文をつくる官務だった。大江広元はその局の権少外記、いわば書記官に準ずる役の一人だった。上司の少外記は、三善康信だった。
    大江広元が太政官庁少納言局に出仕して一年余を過ごした翌年の1171年に権少外記から一段上の本格的な少外記に昇進した。
    (上巻終了)

    吉屋信子(よしや・のぶこ)
    1896年 新潟市生まれ。
    1912年 栃木高等女学校卒。
    1919年 玉成保母養成所卒。
    1916年7月から8年間、「少女画報」に「花物語」52篇を連載。
    1928年 渡欧、一年近くパリ滞在。
    1957年 「鬼火」によって第4回女流文学者会賞受賞。
    1966年 『徳川の夫人たち』。
    1967年 菊池寛賞受賞。
    1970年 紫綬褒章受賞。
    1973年 大腸癌のため没、享年77歳。

    ☆関連図書(既読)
    「義経(上)」司馬遼太郎著、文春文庫、1977.10.25
    「義経(下)」司馬遼太郎著、文春文庫、1977.10.25
    「炎環」永井路子著、文春文庫、1978.10.25
    「絵巻」永井路子著、角川文庫、2000.08.25
    「大塚ひかりの義経物語」大塚ひかり著、角川ソフィア文庫、2004.09.25
    「義経」宮尾登美子著、日本放送出版教会、2004.11.25
    「平家物語を読む」永積安明著、岩波ジュニア新書、1980.05.20
    「平家物語」高野正巳訳・百鬼丸絵、講談社青い鳥文庫、1994.04.15
    「平泉 よみがえる中世都市」斉藤利男著、岩波新書、1992.02.20
    「奥州藤原氏 平泉の栄華百年」高橋崇著、中公新書、2002.01.25
    「源義経」五味文彦著、岩波新書、2004.10.20

  • 上中下
    平清盛の妻と娘がどのように成長し、そして運命の荒波と戦っていくのか。
    男の『平家物語』に対し、そこで描かれなかった女性たちにスポットを当てた小説。

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