銀の座席 (朝日文庫 ほ 2-1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (235ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784022602893

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  •  この作品は新聞連載当時に目にしており、内容は全く記憶していないが時々読んでいた。まだ学生であった私には 遠い未来の話であり、どこか人ごとではあったが。 それから30年以上が過ぎた今 ふと思い立って検索してみたところ文庫になっているようだったので購入。
     著者はどういう人か全く知らなかったが、哲学者として多くの人生論や女性論を発表し、東洋大学の学長も務めたが、学生気質や大学当局を批判して任期半ばで辞任した人らしい。この文章は78歳から79歳にかけて、昭和55年6月から約1年間、48回が朝日新聞に掲載されたという事である。
     文庫のあとがきにあたる「書き残したこと」で筆者は10年前に奥さんを亡くして以来、味気ない気持ちで一人暮らしを続けてきたと書いている。
     金銭的な苦労は少なかったようだが、どこか満たされない思いをかかえて毎日を過ごしていたようだ。
     筆者は社会的な名声もあり、おそらく蓄えもあり、著書の執筆を通じて若い世代の編集者や作家との交流もあっただろうが、それでもこうである。
     妻を亡くして子供は去り、世間との交際が絶たれて 気心の知れた友も無く 毎日目減りする蓄えと増える出費におびえて暮らす 多くの老人に比べれば恵まれてはいるが、これからはもっともっと恵まれない老人が増え、自分もその一員になるのかと思うとやれやれである。 

     当事まだ 老人の生き方 を当事者である老人が わかりやすく書いた文章というものが少ない時代、1980年(昭和55年)の高齢化率はまだ9.1%であり
    有吉佐和子が「恍惚の人」を書いたのが1972年、国鉄が初のシルバーシートを設置したのが1973年であったが現代に比べればまだまだ一人暮らしの老人というものに対する社会の意識が低い時代。
     そういう時代の当の老人からの発言という事で当時はかなりの反響があったらしい。
    以下※は私の感想である。

    ・ステッキをついて

     筆者はステッキをついて電車によく乗るが、これまでシルバーシートで席を譲られた事はたった一度、それも外国の人からで、特に日本人の子供連れの中年の女性には恥をしのんで座らせて欲しいと頼んだところ逆に睨み付けられた経験がある。
     シルバーシートなんて無意味な文句であり設備だ。だが老人を銀にたとえたのは気が利いている。

    ※この時代、「シルバーシート」も「介護」も辞書には載っていなかった言葉だそうだ。試しに私が子供の頃から使っている広辞林で引いたら確かに載ってなかった。

    ・永すぎた秋

     「永すぎた春」といえば三島由紀夫の小説。筆者は全く内容を覚えていないが、婚約期間がながすぎた女性が主役であった。さしずめ今日の年寄りたちは「永すぎた秋」を日々持ちあぐんでいる、頃合の死期を逃した老残の身と言える。
     老人の日々は、北国の秋の旅路に似ている。さわやかな午後の翌日は冷たい雨が降る。78歳の私は「日ごとに、天気とともに気が変わる」。人生の老年の秋はながすぎ、だからといって、死にたくはない。
     同情やあわれみや慰めを求めはしない。まわりの人たちのちょっとしたいたわりと 行為がほしい。労りを英語では何と言うのだろうか。

    ※いたわりを「労り」と書くのをこれまで意識した事は無かった。電子辞書で調べると consideration(思いやり) 又は kindness(親切心) とあった。
     日本語では「思いやり」と「いたわり」には似て非なる差があると思うが、英単語のニュアンスはどうなんだろうか。
     今ニュアンスというのも(カタカナ語に批判的な)筆者はひっかかりそうだと思い調べてみたが、語源がフランス語であるのを初めて知った。これは広辞林にも載ってた。

    ・ナマ野菜

     「老いては子に従え」というのは昔の話、今の子供は若いうちから親に従わず、親は若かろうが年老いていようが子供の言いなりだ。
     若い夫婦と同居する年老いた親は、三度三度の食事のために我慢を強いられる。外国人と日本人の同居なのだ。
     若夫婦はサラダを食卓に出す。老人はゴマヨゴシやヌタが食べたいと思う。
     若夫婦はなんでも油で炒める。老人は煮物が欲しいと思う。
     若夫婦の朝はパンと生野菜、目玉焼き。老人はご飯と味噌汁を・・・
     自分の手足が動くかぎり、自分の好きなものを作って食べたいと思う。

    ※上野千鶴子の「おひとりさまの老後」に 同居は悪魔のささやき とあったけど こういう事なんだな。
     そうした同居は子供や孫が一緒であっても、決して幸福ではないだろう。

    ・病気とたわむれる

    老人はほとんどすべて、なにかの病人だ。ある医学者は年寄りだということは すでにそれだけで病人であることだ、と書いている。
     胸がひどく痛むので診てもらったら 肋間神経痛らしいと診断されて安心した。安心したのは 病気が軽かったからではなく、医者からはっきり病人と認められたことについての安心だ。
     激痛や死の恐怖を伴わぬかぎり、老人はー私も含めてー病気を楽しんでいるように見える。
     老人が病気の話に熱心なのは、遠からぬ死と馴染み、自分でも気付かぬうちにやがて必ずくる死のための備えをしているのかもしれない。

    ※私自身も30年前に比べれば健康ではなくなった。会社の健康診断で引っかかった時に、まるでそれを自慢するかのような会話をよくする先輩がいたが、私もいつの間にかそうなった。

    ・怠けるがいい

     筆者は60歳で退職し、人生で初めて完全に自由な毎日を得た。逆に言えば、60年間 全く自由な身でなかったのだ。いまや余暇なんかじゃない。全暇なのだ。
     その余暇、いや全暇をどう過ごすか。筆者は言う。
    「ウトウトと眠れ。美味いものをつまめ。好きな本を開け。怠けることにいそしめ」

    ※全く同感である。問題はその全暇が私に訪れてくれるのかどうかだが。

    ・味気ない話
     昔は良かったと老人は言う。筆者も言う。昔をたたえるのは自分が老人になったせいか、世の中が悪くなったのか。少なくとも食べ物の味がすっかり変わったのは事実だと筆者は主張する。
     筆者は毎日美味いものを食べたいと切に思う。山海の珍味を食べたいのではない。自分の舌と喉が納得するものを食べたいと言う。
     筆者は何もかもうまくもまずくもなくなったと言い、代表的なものは野菜だと言う。
     明治生まれの筆者は、昔食べたほんものの野菜を食べたいと言う。

    ※私の父も同じような事を言っていた。昔みたいに青臭いトマトが食べたいとよく言っていた。
     私は子供の頃、トマトやピーマンは苦手だった。今の子供は好きだという。昔よりも品種改良で青臭さが抜け、甘みが増しているらしい。
     トマトジュースも子供の頃はドロリと青臭くて飲めなかったが、大人になったら一時期よく飲むようになった。
     スーパーに行くとつい見切り品ばかり買ってしまう私だが、たまには旬のものも買うようにしよう。

    ・忍びよる老い
     「男は自分でそう感じたとき、老人であり、女は他人からそう見られたとき、年よりである」

    ※自分が年をとって感じるのは、心の枠組みというか、
    善悪や好悪の判断基準は10代の頃と全く変わらないこと、時間の経つのが早いこと、時間があっても気力が無くて何も出来ない時間があること、かな。
     そう感じるということは私も既に老境にあるということか。

    ・カンにさわる
     筆者は年とともに怒りっぽくなった。「烈火のごとく」怒るのではなく、けちくさいことがいちいち「カンにさわる」という。
     若い女性の服装、NHKニュースの掛け合い漫才風な進行、野球解説のやかましさ、和服でホテルの食堂に行ったら、邪魔者扱いされたことなど。

    ※今ならさしずめ電車の中で化粧をする女性、空き缶などの放置やポイ捨て、満員電車内のベビーカーやキャリーバックなどか。
     私自身は若い頃より怒らなくなったと思うが、そのような事にいちいち腹を立てていると疲れるばかりなので、疲れないための自衛作用かもしれない。
     和服であろうとなかろうと、ホテルの食堂に行くような機会は無い。

    ・老いの日
     筆者は老眼鏡と近眼鏡の2つのメガネを何度もかけかえて生活している。
     老人の生活観にも、このメガネのかけかえに似た二つの見方がある。
     今を思うか未来を思うか。
     過去を回想するか、わずかな未来に思いをめぐらすか。
     人生の終わり近くになって、自分は何のために生きているかを問わずにいられないのは、悲しい。

    ※筆者の心境が感じられ、どこか寂しい。
     私は今 毎日楽しみがあって幸いだが いずれは筆者のような心境に至るのだろうか。

    ・老人向きの紙芝居
     筆者はテレビ時代劇を好んで見る。いわゆる捕物帳だ。これはまことに老人向きの紙芝居。老人というのは、もはや本気になって怒ったり喜んだり出来ない。
    子供のように夢中になることはない。バカにしながら、それでもまた見たくなる。
     それでもテレビはありがたい。いっとき、老人たちを別の世界に連れ込んでくれる。

    ※私はテレビを地上波デジタル化をきっかけに止めてしまったが、今ならさしずめネットだろう。時代劇はもう地上波では珍しい存在になってしまったが、ネットではその気になればいつでも見れる。おそらくもう一生かかっても見ることの出来ないボリュームの自分が見たいものが、ネット上に存在する。暇つぶしというより、見なければ、と追いかけられているように感じるのは幸せな事なのか。

    ・生と死の谷間
     老人は生と死の間のせまい谷間をウロウロしている。老人とはやがて墓地に引っ越さなければならぬ人間だ。私たちは死を知っている。私たちは葬式に行く。けれども、私たちがしっているのは他人の死であって、自分の死ではない。

    ※筆者は死について繰り返し書いている。筆者の年齢であれば、もう遠くない未来に必ず訪れる現実だろう。でも本当は私にも、もっと若い人にもいつ訪れるかわからない。そういうことが実感できるようになるのは、家族や親しい人を実際に失って初めてわかるのだろうか。

    ・老後の悔い
     この年齢になるまで、精魂をかたむけて何かをしたことがあったか。人々は老後をいかに生きるかと問う。だが、すでに老年になってからは、この問いは手遅れなのだ。

    ※筆者はそれなりに社会的名声も蓄えもある人だと思うが、それでも福沢諭吉などに比べれば多くの悔いを持っているようだ。増してそのどちらもない私は・・・
    「笑止千万」という言葉に「気の毒」という意味があるのは初めて知った。

    ・時代おくれ
     老人は時代おくれの存在だ。やむを得ない。それは恥でも名誉でもない。
     と筆者は思っているが、日常どうしてもスムーズに行かないのが「数」だという。
     魚を注文しようと電話をする。100gいくら、何センチくらいなら1匹いくら、と言われるが、1匹が何グラムにあたるのか感覚がつかめない。
     ミリバール、ppm、ホーン、不快指数・・・
     数字を聞いても、実体として感覚をつかめない「数」が巷に溢れている。
     いずれは愛情も、食べ物のおいしさも、罪の大きさも、数に換算されるようになるのだろうか。
     昔は数的にあいまいだったが、どこか納得できた。今は数的には正確かもしれないが、どこかあいまいだ。
     時代おくれの老人はいよいよ生き辛くなる。

    ※今だと シーベルト とか ベクレル とか、毎日のように新聞に出ているが全く実感がない。
     子供の頃 10万馬力とか 100万ワットの輝きだ とか歌っていたが、それがどの位の数値か全然わかってない。

    ・老いの表情
     なぜ老人は背中が円くなるのか。
     筆者は森繁久弥の「屋根の上のヴァイオリン弾き」を二度見て感動している。劇中背中をまるめていた森繁演じる主人公デビエが、ラストでは背を伸ばし、胸を張って荷車を引く姿に感銘を受けたそうだ。
     奮発して車海老の塩焼きを食べたとの事。

    ※「屋根の上のヴァイオリン弾き」って、よく新聞夕刊の番組欄下半分に広告が載ってたのを記憶している。
     結局一度も見に行かなかった。どんな話かということも今初めて知った。森光子の「放浪記」とか「欲望という名の電車」とか「焼けたトタン屋根の上の猫」とか「ゴドーを待ちながら」とか、タイトルだけ知っているが中身は全く知らない演劇ってたくさんあるな。

    ・銀盃で乾杯
     老人は始末の悪い存在だ。まして独り暮らし、寝たきりとなれば。日本人は始末の悪い老人をどう扱ってきたか。家族制度のもと「孝」の教えがあった時代は、ゆがんだ形ながら老人問題は解決していたかもしれない。
     だが人権思想のもと、民法のもと、忠孝は滅び  老人問題を解決する万能の力は失われた。

    ・この微々たるもの
     死を思うと老いは苦い。私は死にたくない。
     と筆者は言う。モンティーニュの言葉を引きながら。
     死を克服しようとしたり、慰めようとする種々の言葉を引きながら、自分と言う個人が 無、芥、チリとなってしまう「死」に筆者は納得しない。
     巨大な宇宙を思い、その広大さを様々な角度から考察する時、筆者は自分の生き死には宇宙にとってたいした出来事ではない、とかりそめの納得をする。

    ※死を考察しようとすると、有限と無限という概念が入ってくる。子供の頃、誰にかもう定かではないが、天国は永遠に楽しいことが続き、地獄は永遠につらい事が続くところだと 教わった覚えがある。
     地獄に行って、無限に嫌な事が続くのはヤダナ、と思った記憶がある。子供が思う無限と、大人が思う無限は、何が違うのか。
     子供の頃の夏の一日は長かったが、今は昼寝するだけで終わってしまう。

    ・「敬老」とは
     筆者は敬老の日を好まない。そらぞらしさを感じるからだという。年をとったのは自分の手柄ではなく、それを尊敬される理由がわからない。「慰老」ならまだわからないでもない。子がいる老人であれば「孝行の日」でもいいのではないか。

    ・小さな趣味
     私は趣味の無い男だ と筆者はいう。私たちの生活は受け身になってしまった、とも筆者は言う。
     趣味を持つことが老人にとって好ましいのは、趣味が老人たちを受け身の生活から能動的な生活に切りかえさせるからだと言う。
     筆者が最近ようやく発見した趣味は、拡大鏡で机の上に置いていたベゴニアの花をながめる事だそうだ。

    ・老人と新聞
     なぜ老人は新聞が好きなのか。
     ①老人はヒマだから
     ②手軽に読めるから
     ③世間から遠ざからないため
     ④老人は世間に対する見物人だから

     筆者は自分無責任な見物人の一人であると自覚しつつ新聞を読むが、どうしても老人の記事に目が行く。
     老人の悲惨で孤独な死に関する記事に。そして
    「新聞は恐ろしい読み物だ」と言う。

     今ならもっと 筆者は恐ろしい思いをして新聞を読むことだろう。


    ・区切りのない老年

     人生にはいくつもの区切りがある。中には男女で意味の違う 親になる ような区切りもある。
     老年とは 区切り のなくなった人生の時期のことだ。
     老年に区切りを求めようとすれば、四国八十八箇所のお遍路のような、来世を迎えるための心の準備が昔はあったが、来世を信じない今はそれもどうか。

    ※今は老年であっても 被災 や 詐欺にあう のような区切りが訪れる人が多いように思う。筆者が今あれば、新聞を読むたびに 残酷な人生の区切りに 恐ろしく思うだろうか。

    ・意地かひがみか

     近頃の進歩的な老人は「年をとっても、子供らの世話にはならぬ」という。
     老人というものは元来ひがみやすい人間だ。
     「たのむ、世話してくれ」とは言わない。これは年寄りの意地っ張りなのだ。
     街を歩いていて若者の行動を不愉快に思うのは、若い頃にそんなことしてはならない、と教えられたことを若者がしている というねたみではないか。
     老人は いつの世にも 「今の若い者は」と憤慨してきたのだ。
     老人と若者、これは異邦人であるが同じ人間だ。ライスカレーとカレーライスのように。 
     

    ・姑という年寄り
     嫁姑問題について。今、嫁は存在しない。だから姑も存在しない。いるのは夫の母だけである。
     現代の法律は夫婦単位だ。今は姑いびりだ。
     若い妻よ。もう少し賢明になれないのか。明日はわが身のことというのに。

    ・悠々自適
     「悠々自適」といえば聞こえがいい。だがそれは「無為徒食」にほかならぬ。目標がなく、闘う相手のいない生活のことだ。年金では夢は持てない。はたで見るほど楽じゃない。
     はっきりと先の見え出した私たちに二つの道がある。
    ひとつは一日一日を出来る範囲でなんとかごまかすこと。
    もうひとつはそのさきにまだなにか続くのではと考えて、教会に行き、宗教の時間でも聴くこと。

    私は第一の道を選びたい。

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著者プロフィール

1902年 石川県金沢市生まれ。日本の評論家。旧制松本高校文科甲類を経て東京帝国大学哲学科卒。1958年東洋大学教授、のち学長。 数多くの人生論、幸福論、女性論を書いて人気があった。1980年に新聞連載した『銀の座席』で老いの問題を論じて反響を呼んだ。 1987年8月没。

「2017年 『幸福論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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