- 本 ・本 (328ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022618986
感想・レビュー・書評
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フランクルの『夜と霧』は霜山徳爾訳、池田香代子訳を読んだのだが、もう少し理解を深めたく読んでみた。丹念に取材してあり、基本的な背景や知識が無かった私にはありがたい本となった。参考資料一覧も助かる。改めて『夜と霧』を読み直したいと思った。
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われわれが人生の意味を問うのではなく、人生がわれわれにその意味を問うている。
ーー私が『夜と霧』を読んだ時、有名なこの言葉の意味があまりわからなかった。
人生色々あるけどなんだかんだ毎日充実してる!楽しい!という気持ちで生きてきたからだろう。
多分、行き詰まっていないとこの言葉は響かない。
今回本書を読み、この言葉の意味を改めて考えてみた。
私は今とても仕事が楽しくなく、何をやってもうまくいかないと感じていて、自分の存在意義がわからないと思っている。
この社会でなんらかのプレゼンスを発揮したい、誰かの役に立ちたい、ささやかなことでもいいから何か一つをやり遂げたい、そういう思いがどうにも報われないような気がして悶々としている。
とてもありがちでしょうもない悩みかもしれないけど、その思いは深く自分を巣喰い、心に翳りを与えている。と思う。
でも、フランクルの言葉に照らして考えれば、この状況に意味があるのか問うべきではなくて、この状況からどんな意味が見出せるか、私自身が問われている。この現状を自分がどのような態度で引き受け、ここからどんな意味が見出せるかは私次第。
ということなのだろうか。
というわけで、この現状にどんな意味が見出せるのか、考えてみることにしよう。
確かにそうすれば、少しは前向きに生きられる気がする。
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ブックサンタには渋い本かもしれませんが、私が高校の頃に読んでいたら人生が変わっていたかもしれないと思い登録しました。
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冒頭「「けさ、茨城県取手市で刃物を持った男性がバスの乗客に切りつけた、というニュースが流れてきました。」」
末尾「それをいつ、どのような形で迎えるとしても。」
フランクルの『夜と霧』について、フランクル自身について、辿っていった記録。また、現地へ赴き、関係者に直接会って話し、著者の思考の足跡を辿る記録でもある。とても丁寧な取材で、著者の誠実さがうかがえる。
『夜と霧』を読んでから何年たっただろうか。読んだ当時も「いい本に出合えた」と感動したけど、ここ最近プライベートでも仕事でも変化が大きく、悩みも増えた。このタイミングでまた読むと気づきや感動が違うんだろうな。救いになるかもしれない。どの本もなかなか再読できていないけど、『夜と霧』は特に再読したいと思える。
「それでも人生にイエスという」という思想。「それでも」の思想。落ち込んだときなどに思いだしたい。 -
『フランクル「夜と霧」への旅』(著:河原理子)
付箋部分を抜粋します
・どんな運命に見舞われたとしても、人は運命に翻弄されるだけの存在ではなくて、不条理を引き受け、運命に対してどんな態度を
とるか決める精神の自由があるのだとフランクルは説いた(p4)
・人間はあらゆることにもかかわらず 困窮と死にもかかわらず、身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず、また強制収容所の
運命の下にあったとしても 人生にイエスと言うことができるのです(p24)
・患者の回復が思うように進まないと話すと「どんな人にも生きる意味はある。ただ気づいていないだけ。治療者の役割は
一緒にそれに気づくことだ」と言われたという(p79)
・あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに期待することをやめない(p81)
・変えられない運命に対して、どのような態度をとるか、その事実をいかに引き受けるのかという心構えと態度によって
人はなお意味を見出すことができるのだ(p84)
・人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが
問題なのである(p88)
・「人は生まれた瞬間の高みから、死に向かって毎日降りていく。人は死ぬのだというわきまえを持っていると
思いやりが生まれる」(p98)
・人生にはさまざまな困難があるけれども「にもかかわらず」生きようとする生き方なんですね(p99)
・人間は人生から問われている存在である。人間は、生きる意味を求めて問いを発するのではなく、人生からの問いに
答えなくてはならない(p105)
・人生の真の幸福は、幸福を追い求めることでは決して手に入らない。逆にそれを忘れて「人生からの問い」に答えることに
専心した時にはじめて自ずと訪れるものなのだ(p109)
・「ロゴセラピーは、技法ではなく、生き方なのです」(p118)
・「大事なのは、人間の心のあやに気がつくこと。そのためにも、人間的な教養を深め、成熟したゼネラリストになってほしい」(p247)
・不幸や不条理に立ち向かうには、すごく地味なことをコツコツやっていくしかない、という感じがしませんか。あるところに
大きな救いがあって、そこに自分も回収される、というのは絶対うさんくさいし、本物じゃない。小さくて地味で一見、これかよ
みたいなこと(p253)
・問うのではなく、こたえる 引き受ける(p262)
・人間と向き合う仕事をする人たちがそうであるように 自分の全身を使ってするものになった。自分の感情も含めて総動員しなければ
受けとめられない部分が大きくなったのだ(p264)
・自分のしていることに何の意味があるのか、生きる意味とは何なのか・・・。問うても仕方のない問いにがんじがらめになるとき
問うのではなく、刻々と問われることにこたえるのだ、というフランクルの言葉は、不思議なほど救いになった(p265)
・ただひたすら応答する。こたえる。そのことのなかに実感はある(p266)
・フランクルのいう「苦悩」は、自分では変えることのできない運命的なものに対する苦悩を指すのだが、そのような運命に人は
翻弄されるだけの存在ではないのだ。運命に対してある態度をとる自由がある。みずから引き受けて、苦悩を苦悩することによって
自分自身へと成熟し、ものごとを見抜くことができるようになる。
人間の本質は「苦悩する人」なのだ、とフランクルは言った(p268)
・あたかも今が二度目の人生であるかのように、生きなさい。一度目は、今しようとしていることに、まちがって行動してしまった
かのように!(p280)
・人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである
われわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである(p300)
・人生の意味は自身が見出す他にない。多くを失い、奪われ、途方に暮れる。人生にはさまざまな局面が訪れる。「それでも」
「にもかかわらず」「それでもなお」・・・フランクルの思想の、また本書のキーワードであると思う(p301) -
『夜と霧』、『それでも人生にイエスと言う』等の著者であるフランクルを辿り、書かれた本。フランクルを知らない人には、入門書のような感じで、とても参考になると思う。
また、フランクルの著書を何冊か読んでいる人にも、整理ができ、しかも新たな発見もあって、フランクルをより深く知ることができると思う。
この本を読んで、「それでも人生にイエスと言う」とのフランクルの言葉は、彼自身が自分にまず言い聞かせた言葉ではないかと思った。 -
わかりやすく絶望的状況に置かれた人間の陥る心理や行動を知ることができる。
「待っている人がいる」
「実現を待たれている何かがある」
自分がしたい、したくない、という主観の世界ではなく、未来への希望を抱き続ける技術として使える。
上の二つが自分がやらないといけないと強く認識することで、絶望せずに生きれるよ。という内容の本でした。
アウシュビッツでの環境と、現代のリアルの環境が、似ている!と思える人にとっては、切り開くヒントがここにあり勇気つけられます。 -
「夜と霧」「それでも人生にイエスと言う」などを読んで、「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。…人生から投げかけられた問いに、われわれは、正しい行為によって応答しなければならないのである」の意味するところ、自分にとってはどういう行動をすることなのか難しいなと思っていたが、
著者がこの本でフランクルの別の書からの抜粋してくれた部分
「つまり満たされるべき意味、出会うはずのもう1人の自分、自分自身を差し出すべき理由、あるいは愛する人に向かって生きて初めて、人は人間として生きられると言うことである。/人間存在のこの超越性を人が生き抜くその限りにおいて、人は本当の意味で人間になり、本当の自分になる。そして人がそのようになるのは、自分自身を自己の実現に関与させることによってではなく、むしろ逆に自分自身を忘れること、自分自身を与えること、自分自身を見つめないこと、自分自身の外側に心を集中させることによってなのである」(意味への意志) (生きる意味を求めて)
という抜粋や
著者の意見ーただ、つまりはどう生きるかしかないのだ。どう生きるか、人生からの問いかけに日々どう応答するかを考える時、「良心」はカギになる概念だ。フランクルによれば、「良心」は意味を感知する器官だから。このアンテナを働かせることによって、よりよく生きることができるーはずなのだ。
では善とは何か。意味の遂行を促進するものが善で、それを阻害するものが悪なのだ、とフランクルは話した。
と著者が書いた部分を読んで、長年の謎が解けたというか、少し理解が進んだように思う。
そして著者は判断に迷った時には
「あたかも今が2度目の人生であるかのように、生きなさい。1度目は、今しようとしていることに、間違って行動してしまったかのように」という言葉に立ち返るそうだ。
これは『それでも人生にイエスと言う』の中で、自分の記憶にも鮮明に残っている言葉だ。
この言葉は、生きている意味を促進するような、良心で判断した行動をとるようにということだったんだなと思った。
以前、『夜と霧』を悲惨な話と思って読んだら、読後感は爽やかだった印象が強く残ってる。
この『夜と霧への旅』では、フランクルが大変冗談が好きな、明るい人だったエピソードが出てくる。(例えば、ポケットに入っていたチョコレートのそう面白くない話を何度も何度も笑って話していたことなど)
また『夜と霧』の中では、収容所生活があまりに辛くなった時に、「今のこの生活は、自分がここから解放されたあと、ホールで大勢の前でまさにこの生活について講演している内容なんだと想像してみることで精神的に耐えられた」という話が出てきたのを思い出した。
これは、フランクルは根から明るい性格だったので、窮地に陥った時に、ものごとを別の次元で捉え直すことできたのではないかと思った。
だから、「人生に期待するのではなく、自分が人生の問いに応答することが重要」…というものごとの捉え直し、発想の転換ができたのではないかと思う。
ものごとを捉え直してみる、というフランクルの明るさが、窮地を希望に変えたのだと思う。…と考えると、フランクルの「明るさ」のおかげで、今のわれわれもフランクルの発想に支えられ、その恩恵に預かっているのかもしれない、とこの本を読んで、ふと思った。
考えてみると、明るいというのは、自分の内に向かうのではなく、外へ向かっていることだなと思う。これもフランクルの言う人間存在の超越性に含まれるのかもしれない。 -
烏兎の庭 第四部 書評 6.1.13
http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto04/bunsho/yorukiri.html -
みすず書房から出版 1956年8月15日 世界で二番目に早かった
強制収容所 テレージエンシュタット(プラハの北) ダッハウ(ミュンヘンの北)
オウム幹部井上が子供時代に書いた詩 ラッシュアワー・時につながれた中年たち・金と欲があるだけ…→自分が高校時代に感じていたことと同じで驚いた
2009年10月 東京の聖イグナチオ教会 霜山徳爾(しもやまとくじ)の葬儀 最初の翻訳者・上智大学の教授
1956年の出版時 センセーショナルな広告、強烈な写真→もし異なれば爆発的な広がり、必読書の扱いにならなかっただろう☆後々読み継がれるものには理由がある・様々な要因で大ヒットする例 ピケティ21世紀の資本…
夜と霧の映画→日本ではアウシュビッツでのユダヤ人殺害の告発映画と思っている人が多い 裸の死体の山をブルドーザーで巨大な穴に埋めるシーン→ドイツ北部ベルゲン・ベルゼン収容所で解放後、英軍が伝染病を防ぐための措置 ☆アンネフランクの収容、死亡地
生きることの意味 フランクルの灯を心の支え 世田谷一家殺人事件の遺族、がん患者、…
1977年フランクル 改訂版の出版 「それでも人生にイエスと言う」 作家のハンス・ヴァイゲルが序文「彼は、両親、兄、妻、すべてを失って地獄から故郷に戻ってきました―それにもかかわらず、復讐、報復のあらゆる衝動から自由でした」
フランクル 37歳で収容 40歳の春に解放 テレージエンシュタット(チェコ)2年1か月→ビルケナウ4日間→ダッハウの支所であるカウフェリング第3→ティルクハイム
チェコ名テレジーン 要塞の街→要塞ごとゲットーにされた・モデル収容所・複雑な星型で教会、広場あり
戦時中に赤十字の視察 偽りの演出 過密を解消するために妻の母はアウシュビッツに送られた。
記録映画撮影→その後、ガス室へ
アウシュビッツ 監視塔のゲートをくぐり抜けて引き込み線に貨車がきしみながら到着するシーン
300のバラックと4つのクレマトリウム 4つで1日4,000体以上を焼却
1945年4月27日バイエルン地方のティルクハイムで解放 40年後の式典で挨拶 アウシュビッツと違い今も残るものはほとんどない
輝ける日々―それが過ぎ去ったからといって泣くのではなく、それがあったことに微笑もう(フランクル・山の経験と意味の経験)
1997年9月2日フランクル死去 日本、ヨーロッパでもダイアナ妃死去のニュースでもちきりの頃
2つの人種だけ―品格ある者とそうでない者たち→どこの国でもホロコーストを起こす可能性あり☆日本でもクレーマーあり・品格ある者に自分は分類されているか?
夜と霧は書いてあることはシンプル。ただフランクルは往々にして世の中の逆を言う。→パッと見て分かるものの対極にある。