- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022630223
作品紹介・あらすじ
【社会科学/政治】生還から40年、著者の自死の前年に刊行された本書。善悪と単純に二分できない「灰色の領域」、生還した者が抱える「恥辱」、記憶の風化への恐れを論じた「ステレオタイプ」……。改めて問い直される、アウシュヴィッツとは何だったのか。
感想・レビュー・書評
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プリーモ・レーヴィは本書を書き上げた一年後に、再発した鬱病の影響であったのか、自宅である集合住宅の階段の手すりを乗り越えて飛び降りて、自らの命を絶った。
アウシュビッツの生存者であった彼が、アウシュビッツについて正面から論じたのは、解放されて1年半後に出版した『これが人間か』以来で、そのときよりすでに四十年が経っていた。改めて強い強度で過去の経験に向き合ったことは、彼の精神にも重荷であったのかもしれない。いや、そのように彼の心の中をまず軽々に伺うような態度自体、この本を読むにあたって彼がまず拒否する態度であるかもしれない。
いずれにしても本書を通じて感じることは、レーヴィが自らの収容所の体験について、その後の人生を通してずっと考え続けてきたということである。そして、その思索の内容を、読者に何とか伝えようと言葉を重ねているということだ。それを最もよく感じることができるのは、【灰色の領域】と【恥辱】の章で書かれた考察であろう。
【灰色の領域】と題された章は「私たち生き残りは自分の経験を理解し、他人に理解させることができたのだろうか」という言葉から始まる。ラーゲル(絶滅収容所)の中の関係は、人びとが端的に「理解したがる」ような、抑圧者と囚人という単純なものではなかった。レーヴィは、その場所を複雑に絡み合い階層化された小宇宙と呼び、そこには「灰色の領域」があったという。実際に、様々な形で収容所当局に協力するユダヤ人の数は相当数に上ったという。それら灰色の領域は、悪魔のようなやり方で収容所のシステムの中に組み込まれていたのだ。それは聞く人によっては意外なことではあったが、収容されたものはすぐに慣れていき、そしてあるものは協力者として振る舞うようになった。
「何らかの形で、おそらく善意で、強制収容所当局に協力した囚人たちの問題は瑣末なものではなく、歴史家、心理学者、社会学者にとって根本的な重要性を持つ現象なのである。そのことを記憶していない囚人はいないし、当時の自分の驚きを覚えていない囚人はいない。初めておどしつけ、侮辱し、殴りつけてきたのはSSではなく、他の囚人たち、つまり「同僚たち」だった」
収容所に辿り着いたユダヤ人をガス室まで誘導し、その死体を焼却したのもまた特別部隊と呼ばれるユダヤ人だったのだ。彼らは食事や居住の面で他の囚人よりもよい待遇を得られた代わりに、証拠の隠滅という観点から数カ月後には確実にSSによって処分される運命にあったという。レーヴィは、「特別部隊を考え出し、組織したことは、国家社会主義の最も悪魔的な犯罪であった」と語る。
しかし、レーヴィは灰色の領域に踏み込んだ人びとを道徳的に断罪するべきではないという。ラーゲルの過酷な状況は、人びとに妥協を強いる。そういった状況であるからこそ、より多くのものが権力というものに従順に従うことになった。その権力関係の分析と認識を、われわれは怠るべきではない。
「この悪意の深淵の深さを探ることは簡単ではないし、愉快でもない。しかしそれはなされるべきだと思う。なぜなら過去に犯されることが可能であった犯罪は、未来にもまた試みられ、私たちや私たちの子孫を巻き込むかもしれないからである」
もうひとつ、初めてそれを耳にするときには意外であるが、収容所を経験した者にとってはほとんどのものが当然だと受け容れているものとして、収容者が解放のときに至っても、またその後もずっと、「恥辱」を感じていたというものだ。このことについてレーヴィは【恥辱】と題する章を設けて、言葉を重ねる。それが収容所の経験を理解するためにはとても重要なことであるからだ。
「多くの者が(私自身も)監禁中に、そしてその後に「恥辱感」を、つまり罪の意識を感じたということが、数多くの証言によって確かめられ、確認されている。それはばかげていると思えるかもしれないが、事実である」
「闇から抜け出すと、自分は傷つけられたという、再び獲得された自意識に苦しんだ」ー そして、収容中はその考えにすら至らなかったにも関わらず、解放後数多くのものがいったんは救われたはずのその命を自ら絶ったのだ。
救われたものが例外的な少数者であるがゆえ、また救えなかったものたちの犠牲の上に生きながらえているという感覚を持つことを強いられたがゆえに、収容所にいたときに起こした例えば食事をめぐるささいな背信の行為までも強く正当化せざるをえないようになる。救われたものであることを自覚するレーヴィ自身も、その念に強く捉われていることを告白する。本書の中でもタイトルにも採用されたことからもわかる通り、「溺れたもの」への哀悼と悔恨の念はひとつの太い幹として貫かれている。「最良のものは戻って来なかった」という言葉にその思いはあふれている。「溺れたものたちは、もし紙とペンを持っていたとしても、何も書かなかっただろう。なぜなら彼らの死は、肉体的な死よりも前に始まっていたからだ」...「だから私たちが彼らの代わりに、代理として話すのだ」
そうしてレーヴィはある種のコミュニケーションの不可能性を感じながらも複雑性とともにその経験について伝えるべく語るのである。しかしながら、その言葉の端々に焦りといらだちが感じられる。特に、あの状況を作りえたドイツ人の無関心と個々人での引き受けの不十分さ、そして戦後四十年を経て直接あの体験をしていない若者の無防備な単純さ、が彼をいらだたせていることがわかる。
そのことが最も直接的に表現されているのが、『これが人間だ』のドイツでの出版とその後の読者とのやりとりについて記録考察した【ドイツ人からの手紙】の章になるだろう。『これが人間だ』のドイツ語での出版が決まったとき、レーヴィは、戦いに勝ったという感慨を覚えたという。レーヴィが戦うつもりでいたのは次のようなドイツ人であった。
「私はその時代、その雰囲気をよく覚えており、偏見や憤りを抱かずに、当時のドイツ人を判断できる確信がある。全員ではなかったが、ほとんどの人が目を閉じ、耳をふさぎ、口をつぐんでいた。凶暴なものたちから成る中核を「身体に障害を持つ」大衆が取り囲んでいた。全員ではなかったが、ほとんどの人が卑劣だった」
そして自著のドイツでの刊行によって、「彼らは抑圧者から、あるいは無関心な観客から、読者になるはずだった」ー しかし、多くのドイツ人はこの本を手に取らなかった。その本を手に取った数少ないものはすでにその事実に向き合おうとしている人であり、レーヴィがもっともその手に届かせたかったものには届かなかった。いくつかの読者との手紙のやりとりが紹介されるが、一部を除いてそれはレーヴィを満足させるものではなく、逆に苛立たせて、不安にさせるものでしかなかった。
そういった落胆の経験を通して、レーヴィは記憶がやすやすと塗り替えられてしまうことに対しての苛立ちを募らせる。問題は、行為ではなく動機の記憶であった。事実に関する記憶、行為に関する記憶を変えてしまうことは難しい。しかし、動機に関する記憶について自らも欺く形で記憶を変えてしまうことはたやすい。
レーヴィは、ナチス・ドイツの高官を含めて抑圧者側に回った人間が語ることの内容について、何が起きたのかについてはさほど興味深いものではない、とした後、こう続ける。
「それよりもはるかに大事なのは動機、正当化の理由である。あなたはなぜそれをしたのか。あなたは犯罪を犯していたことを知っていたのか。この二つの質問への答え、あるいは同様の質問への答えは、非常によく似ている。...わたしは命令されたからそれをした。他の者は(私の上司たちは)私よりもずっとひどい行為をした。」
『エルサレムのアイヒマン』でアイヒマンが言った言動は、多くのドイツ人によって繰り返されたものだったのだ。それ以前も、それ以降も。
「だが、彼らは素養的には私たちと同じような人間だった。彼らは普通の人間で、頭脳的にも、その意地悪さも普通だった。例外を除けば、彼らは怪物ではなく、私たちと同じ顔を持っていた。ただ彼らは悪い教育を受けていた。彼らの大部分は粗野で勤勉な兵卒や職員であった。その何人かはナチの教えを狂信的に信じていたが、多くは無関心か、罰を恐れているか、出世をしたいか、あまりにも従順だった」
彼らは疑いもなく普通の人びとであったのだ。実際にユダヤ人の殺戮に手を染めた人でさえもそうであったことは、ユダヤ人の殺戮に加わった警察予備大隊に属する人びとの行動を記録から分析した『普通の人びと』(クリストファー・ブラウニング)でも描かれた通りなのである。そのことがなぜ起きてしまったのか、動機は何であったのか、そのことを記憶しておかねばならないのではないか、と迫るのである。それが、繰り返されないために。
もしそう言ってよければ、本書を貫くテーマは「記憶」なのである。それが、四十年のときを経てレーヴィにこの本を書かせることとなったのだ。
「記憶は無記憶になりたいと望み、それに成功する。それを何度も否定することによって、排泄物や寄生虫を体外に出すかのようにして、自分自身の中から有害な記憶を輩出する」
やはりその苦しみに対して、知りながら何もせずに、また何もしなかったがゆえにそれを忘れてしまったドイツ人たちに対して積年の思いが薄まらないのである。さらにその何ものも薄めることのできない恨みにも似た思いとともに、正しく記憶することの重要さと、その記憶を次の世代に渡すことの切実さをこの本に込めるのである。
「個人的な経験の枠を越えて、私たちは総体として、ある根本的で、予期できなかった出来事の証人なのである。まさに予期できなかったから、だれも予見できなかったから、根本的なのである。それはいかなる予見にも反して起こった。それはヨーロッパで起こった。信じがたいことに、ワイマル共和国の活発な文化的繁栄を経験したばかりの、文化的な国民全体が、今日では笑いを誘うような道化師に盲従したのである」
本書が書かれたのは冷戦の末期の1987年であったが、レーヴィは、同じことが同じように起きるだろうとは考えてはいない。しかしながら、その形を変えて予期しないことは予期しない形でやってくることをレーヴィは恐れるのである。
「これは一度起きた出来事であるから、また起こる可能性がある。これが私たちの言いたいことの核心である」
本書と彼のその後の自殺の因果関係は明らかではない。しかしながら、彼が自らの命を賭すようにしてこの本を書いたのだということは間違いではないだろう。だからこそ、われわれは、われわれのできる限りの誠実さをもって記憶を引き継がなければならないのである。
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『アウシュヴィッツは終わらない』(プリーモ・レーヴィ)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4022592516
※『これが人間か』という原題に近いタイトルで再刊されている
『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』(ハンナ・アーレント)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4622020092
『増補 普通の人びと: ホロコーストと第101警察予備大隊』(クリストファー・ブラウニング)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4480099204詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
私もまた『灰色の領域』に属する人間であり、常に自分自身を疑うことの大事さを重く考えた。安易に熱狂する大勢に加わらないこと、急かされる時ほどじっくりと考えないといけない。
私達は互いを共感することが難しい。どんなに近しい人のことでも自分事として考える能力が備わっていない(私だけかもしれないが)。過去にいじめを受けていた時、加害側からも私のことを獣のように見ていただろう。被害側の私からもいじめを行っているモノ、傍観するモノ、面倒くさいから関わらないようにしようとしたモノ達を普通に「同じ人間」ではなく「バケモノ」として見ていた。お互い同じ姿をしているのに簡単に互いの事を別モノとして見てしまう。そんな事を思い出した。 -
我々が知らなかったラーゲルの真の恐ろしさが見えてくる。ナチスvs.ユダヤ人という完全対立構造を作らず、ユダヤ人の中にナチスへの協力者をつくることで連帯感を崩壊させる。協力者は同胞の殺戮に関わることで、非人間性を植え付けさせられる。連合軍に解放されても人間という責任ある存在に戻ったことでさらに苦しみにさいなまれる。非人間性と人間性の狭間でもがきながら、史実を伝えようとする著者の慟哭が聞こえてくる。
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辺見庸が引用。
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アウシュビッツのこと、(その時点の)現在への憂い、そのような場にいる人の心理について。
経験だけでも理論だけでもない、体験者の考察。
著者の死の一年前、1986年に出されたもの。
経験談ではなく、部外者の考察でもない。
できる限り冷静に考えようとする姿勢に、体験の重さがかえってずっしりくる。
犠牲者はあくまで犠牲者で、抑圧者はあくまで抑圧者。
だけどきっちり引けるラインなどなくすべてがグレーゾーンに見える。
それでいて、犠牲者と、加害者やその場にいなかった人のあいだには断絶がある。
「私だったらもっとうまくやる」も「私ならとても耐えられない」も安易な想像にかわりはない。
「知らなかった」こと自体が罪。
故意の無知は免罪符にならない。
ナチを支えたのは狂信ではなく、恐怖や怠惰や無関心や出世欲や従順さ。
過去から学び危険を避けるための闘いには果てがなく勝ち目もないが、それでも挑みつづけなければならない。
こんなに明晰な頭で生きて行くのは、苦しかっただろう。
書くことは苦しいけれど、書かなくてもきっと苦しい。
「その後」の人生を40年以上も耐えた偉大さと、それでも生き残れなかった重さが辛い。
ここで語られるのはホロコーストだけど、そこにいる人たちの様子は時代も場所も越えて、わかる。知っている。
ナチ側の弁明は、まるっきりルワンダ虐殺の加害者http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/478030685Xと同じだった。(そういえば「溺れるものと~」の引用がのってた)
「良い仕事をする」という観念が身に付きすぎて、敵のための仕事さえついきっちり責任をもってやろうとしてしまうという部分はブラック企業を連想する。
利害を考える現実主義者が理想主義者より助けになるケースは『密告者ステラ』http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4562045493で見た。
意志の疎通を諦めないことが民主主義を守る唯一の方策なのは『ヒーローを待っても世界は変わらない』http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4022510129でも言っていた。
そんな、いつだって起こる問題を諦めずに語り続けている。