選書930 日本発掘 (朝日選書)

  • 朝日新聞出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (328ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784022630308

作品紹介・あらすじ

【歴史地理/日本歴史】「発掘された日本列島」展20周年記念講演録。捏造事件後の旧石器研究、縄文の環状遺構とは何か、弥生開始年代論の今日、古墳発生はどこまでさかのぼるのか、東アジア情勢の中での国家誕生、中世都市の諸相、考古学と不可分の科学技術など。

感想・レビュー・書評

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  • 「発掘された日本列島」展20周年記念の連続講演会の記録である。さすがに文化庁主催なので、講師は豪華だ。

    私の関心はご承知のように弥生後期から古墳前期までなのであるが、その前提としての石器時代、縄文時代、そして古墳時代の終わり方も興味がない訳ではない。

    よって、旧石器時代偽造事件の処理顛末として、国際連帯が高まったことを知り、あの事件がまったく無駄な10年間ではなかったことがわかり嬉しかった。

    また、縄文時代の重鎮小林達雄氏の健啖振りを聞けて良かった。縄文土器の1番古いのは、青森県大平山元遺跡の1.5万年前のモノであり、それに次ぐのが中近東の9000年前の土器というのだから、ダンチです。しかし、氏は「土器はあくまでも標識で、縄文革命とは定住的な生活が始まったことが革命だ」と述べる。縄文時代の定住するムラの発展は、ハード面だけでなく、祖父母から孫世代への知識の伝達というソフト面の発展があったことが重要だと云う。その通りだと思う。縄文世界の特徴は何か。火焔土器はよくわかるが、沖縄の伊波式土器にも突起がある。何故これが共通するのか。それは「言葉」である。東北から対馬、沖縄まで言葉は共通で、少し離れただけの朝鮮半島とは違っていた。この視点は弥生を考えるときも重要だと思う。

    重鎮たちの話は自説の解説になっていたが、弥生を担当した石川日出志氏は、講師陣の中で1番若い。よって、このパートのみが「ここまでわかった日本の歴史」を体現していた。私はしっかりとメモをとった。

    古墳時代の大塚初恵氏は、反対に講師陣の中では1番の高齢で、今年89歳。その割には講師陣の中では、石川氏ほどの精緻な紹介はしていないものの、全体的な学説の到達点を述べていたのは流石だと思う。

    さて、以下は石川氏の説をメモしたものです。私用ですので、無視してください。
    ●弥生時代早期論争
    (1)菜畑遺跡の夜臼式土器。縄文終わり→弥生「早期」として学会で合意。
    (2)歴博チームの説。始まり5世紀→10世紀。弥生前期B.C3→B.C8。中期B.C2→B.C4。
    (3)現在。歴博チーム説。従来説。中間説(開始を6ー7世紀にとる)の三つに分かれている。
    ●稲作の始まりはいつか。
    (1)縄文時代の始まりから?→否定。しかし、豆類は栽培していた。弥生早期ではアワ・キビの栽培も始まっていた。生業・食糧調達方法はこの20年間で一変した。
    ●弥生のムラの姿
    (1) 環濠集落は、弥生前期では全国的に小さく、中期では九州と近畿で規模が爆発的に拡大する。中・南部九州、東北、茨城・栃木県域、瀬戸内北岸と長野・山梨あたりは環濠集落がないか、きわめて少ない。
    (2)大阪八尾南遺跡の洪水埋納竪穴住居群は注目。
    (3)静岡平野は登呂遺跡のあるのにも関わらず、後期の大きなムラはまったくない。(←もしかして津波の影響⁉)
    (4)北陸に高地性集落。後期初めに福井県地域で始まり、後半に北陸地一帯に広がり、またすぐになくなる。この時期の激動を物語る。
    (5)福岡市比恵・那珂遺跡群、南北一キロ以上もある広大な集落。弥生早期に那珂に環濠集落として出現、紀元後2世紀ごろにムラをいっせいに再編したことがわかった。ここは春日市須玖遺跡群と共に奴国の中心地。
    (6)纒向遺跡も後期末に唐古・鍵遺跡を再編して出現⁉2013年国史跡に指定。
    ⇒(4)〜(6)より、つまり弥生時代後期後半(紀元0から2世紀?)に九州から中国、近畿にかけて時代の波に揉まれる大変動があった⁉
    ●青銅器の鋳造と副葬・埋納
    (1)青銅器の発見例がない熊本市八ノ坪遺跡・白藤遺跡から、銅剣・銅戈・小銅鐸などのいろんな青銅器の鋳型が出土した。
    (2)弥生時代前期末〜中期初め、BC3世紀の鋳型が福井、和歌山からも出土。全国から青銅器鋳造は始まった。青銅器鋳造始めは九州か機内か、邪馬台国論争と絡めて論議して来たが、これで幕を閉じた。
    (3)中期後半、BC1世紀になると、福岡市須玖と比恵・那珂、茨木市東奈良遺跡、東大阪市鬼虎川遺跡、奈良の唐古・鍵遺跡など特定の集落で青銅器を作って周りに配布するようになる。
    (4)北部九州の社会の階層化の様子がわかってきた。中期前半、BC3〜2世紀はまだ中心はない。中期後半、BC1世紀になると、ようやく奴国と伊都国地域が社会的に突出した位置を占めてゆく。吉野ヶ里よりもワンランク上。ふたつの国が突出したのは弥生時代前期からではなかった。
    (5)青銅器埋納の具体例が各地で明確になった。発掘途中での発見例が続いた。長野県中野市柳沢遺跡で、西日本だけでなくここからも多量埋納。銅戈と銅鐸。一点だけ九州産、あとは畿内産。銅鐸を鳴らし、銅戈・銅矛・銅剣で春秋の農耕祭で宗教的なパフォーマンスをしていた西日本の祭は東日本でもあったということになる。福岡県小郡市寺福童遺跡でも同じ埋納。すべて埋納の仕方が同じということは、儀礼行為が全国的に定式化していた。和辻哲郎の銅矛銅剣文化圏と銅鐸文化圏の対立という図式は確実に否定して良いと思います。
    ●地域的個性への注目
    (1)京都府与謝野町大風呂南遺跡(後期の方形台状墓)。丹後地域の豪華な副葬品。武器や宝石。こういう副葬品は北部九州以外ではここのみ。日本海での交易の成果か。京丹後市赤坂今井遺跡(弥生晩期、方形台状墓、一辺約40m)中心部は未発掘。出雲と吉備に匹敵する人物だった?(←そうかもしれないが、私はかなり好戦的な人物だったと想定しており、好きではない)
    (2)長野県木島平村根塚遺跡(後期後半、木棺墓)。渦巻き装飾の握りのある鉄剣。これは明らかに金海地方伽耶地域のもの。しかし、握りの部分の軸が剣身とズレ。西日本や大陸にはなく、東日本特有。東日本が大陸に特別注文をして手に入れたのでは。それぐらいの大陸とのネットワークを持っていた証拠。
    (3)仙台市沓形遺跡(弥生中期)では、津波のあと(当時は海岸線から2キロ内陸)。このあと水田の放棄。
    仙台平野ではこのあと、中期後半から後期の遺跡はすべて仙台平野の西側のやや高い地域のみに分布するようになる。869年の貞観大地震で、多賀城にも被害があったことが確かめられている。約1000年おきの大地震と津波。
    寒川旭氏による地震考古学の提唱。
    ●考古学と倭国・邪馬台国論争
    (1)「九州と近畿、どちらが有力かとか、九州と近畿が直接手を結ぶ状況はすぐにはわからないわけです。ところが出雲や吉備を中心にみると、まず最初に両地域を核として遠隔地の有力者どうしが手を結ぶ状況が出来上がります。新しい政治的連携をともなう古墳時代開幕直前の社会の組み替えは、じつは近畿地方でも九州でもなく、中国地方あたりから胎動し、次第により広域な、九州から近畿、一部東日本まで含めた広域にわたる政治的な連携が実現していくわけです。」(135p)
    2015年4月1日読了

  • 旧石器時代から中世まで、発掘をテーマに記した一冊。講演会の記録だけに読みやすい。
    新たな発見で歴史が書き換えられていくことに改めて驚く。門外漢にも面白く読めた。

  • 高校時代からはるかに数十年、考古学も大きく変わっていて面白かった。自分の知らない分野の最新の話を年にひとつくらい読んでみるようにした方がいいのかも。

  • 文化庁主催の「発掘された日本列島」展20周年を記念し開催された連続講演会「日本発掘!——ここまでわかった日本の歴史」をもとに1冊にまとめられた本です。
    各時代研究の第一人者が講演されました。
    その内容は、
    第1章 旧石器時代 小野 昭
    第2章 縄文時代 小林 達雄
    第3章 弥生時代 石川 日出志
    第4章 古墳時代 大塚 初重
    第5章 古代 松村恵司
    第6章 中世 小野正敏
    第7章 楽しい考古学とその軌跡 水野 正好
    あとがき 水ノ江 和同
    となっいます。
    各時代の専門家が自分の守備範囲の学問的成果を述べられ、また、自分自身が考古学を志した経緯も述べられている。
    そして、旧跡時代から中世まで日本列島の歴史の連続性がとっても良く理解できる内容でした。
    考古学を通じ、日本人とは何ぞやということに興味をますます持てるとってもすばらしい内容でした。

  • 「発掘された日本列島展」20周年を記念して開催された講演会をまとめたもの。弥生時代の内容が豊富だった。

    旧石器時代(小野昭)
    日本人のルートについては、4万〜3万5000年前にシベリアのアムール川の下流域からサハリンを通って北海道に来たデータはなく、ありえない。姶良Tn火山灰が降ったのは、水月湖の年稿から約3万年前までさかのぼることがわかった。

    弥生時代(石川日出志)
    弥生時代の開始年代の議論は、まだ平行線のままで落ち着いていない。縄文土器にプラント・オパールが認められることについては、分析法の問題があり、全面否定された。籾の痕とされたものは、マメのへそであることが判明し、確実な縄文時代の籾痕はゼロになった。
    弥生時代中期初頭から青銅器が出現し、初めは武器として、後には宗教儀礼の道具として使われた。青銅器はあちこちで作られていたが、中期後半のBC1世紀になると、福岡平野の須玖遺跡群と比恵・那珂遺跡群、大阪平野の茨木市東奈良遺跡や東大阪市鬼虎川遺跡、奈良盆地の唐古・鍵遺跡などの特定の集落で集中的に作られるようになる。同じころ、北九州では奴国と伊都国地域が社会的に突出し始めた。
    九州から近畿まで、各地で銅剣、銅矛、銅戈、銅鐸などいろいろな青銅器が埋納されていることが明らかになり、九州の銅矛銅剣文化圏と近畿の銅鐸文化圏が対立していたという学説は否定されるようになった。
    魏志倭人伝には「大率」という職名は魏の「勅史」に相当すると書かれており、地方に置かれる職であることから、邪馬台国は九州以外と断じえる(「魏志倭人伝の謎を解く」渡邉義浩)。須玖遺跡群と比恵・那珂遺跡群は、吉野ケ里遺跡よりはるかに規模が大きい。
    纏向遺跡が出現するころに、唐古・鍵遺跡が急激に縮小する。

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