水と清潔 風呂・トイレ・水道の比較文化史 (朝日選書1043)

  • 朝日新聞出版 (2024年8月9日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (280ページ) / ISBN・EAN: 9784022631343

作品紹介・あらすじ

入浴する、トイレで用を足す、蛇口から清潔な水を汲んで飲む──水で清潔を保つ現在の日本の日常は世界の諸相、日本の歴史の上で普遍的なものなのか。温暖化で水資源への注目が高まる今、日本の歴史、世界の文化から、水と人との関係を照らしだす。

みんなの感想まとめ

水と清潔の関係を深く探求する本書は、文明の発展とともに変遷してきた水の役割を多角的に描いています。インドのヒンドゥー教徒やイスラム教徒の儀式、十字軍時代のキリスト教徒の習慣など、世界各地の文化における...

感想・レビュー・書評

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  • インド・ヒンドゥー教徒たちは汚穢あふれる聖なるガンジス川で沐浴し、イスラム教徒たちは水で浄めた身でなければモスクへ入ることを許されない。十字軍時代のキリスト教聖職者たちは、ローマ風呂での乱れた風俗を嫌い、イスラム教への対抗のため、身体を洗わず、糞尿の上に平然と座すことで聖者とあがめられた者もいた。江戸っ子の風呂好きは有名だが、最初に風呂の入浴を始めたのは京の公家たちだった。幕末明治の江戸東京では公衆浴場が大流行したが、陸軍医として清潔を旨としていた〓外は、自宅に風呂があるものの、金盥にためた湯を使い手拭で身体を拭うのみだった。日本の歴史、世界の文化から、水と人、清潔の概念の諸相を照らし、その関係の変遷をたどる。(e-hon)

  • めっちゃ勉強になった。
    特に宗教との関わりが面白かった。

  • 女子栄養大学図書館OPAC▼https://opac.eiyo.ac.jp/detail?bbid=2000073845

  • 498-F
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  • SNSタイムラインで見かけて、読んでみたら面白かった本。文明と水、水と清潔。科学的だ。清潔と宗教、、、、

  • 水と清潔
    風呂・トイレ・水道の比較文化史

    著者:福田眞人
    発行:2024年8月25日
    朝日選書1043
    (2024.10.4読了)

    著者は名古屋大学名誉教授。京大工学部の後、東大大学院で比較文学比較文化を修めている。この本は、あくまで比較文化史がテーマである。

    もっとも興味がわいたのは、中世ヨーロッパではみんな風呂に入らなかったという点だった。それはキリスト教の考え方によるもので、イスラム教やユダヤ教とは正反対だった
    ・ギリシャ・ローマでは浴場の遺跡があるように風呂の文化があった
    ・5世紀にギリシャ・ローマが終わり、フランク王国(フランスの前身)の公式宗教がカトリックに。教会は共同浴場や入浴時の裸体に疑義を呈した
    ・宗教的儀式として重要な洗礼により、身体は浄められ、永遠の祝福を受けることで、もはや汚れは生じない。神聖な水を振りかけたので、それを拭わず、生涯身体に取り置いていくことが真の信仰。浴場はむしろ淫らな場
    ☆英国エリザベス1世(1533-1603)も、入浴は月に1度ぐらいだった
    ☆コロンブス西方航海を援助したスペインのイザベラ女王(1451-1501)は、入った風呂が生涯でたった2回
    ・17-18世紀のフランスでは、蒸気風呂(湯気を必要な部分にだけあてる方法)が床屋に隣接して建てられて流行
    ・イギリスは遅れ、1801年にはロンドンの医師が、多くの人は何年も身体を洗うのを忘れていると嘆き、1837年にヴィクトリア女王が即位したときには、バッキンガム宮殿に風呂場がなかった
    ・イギリスも、産業革命による都市への人口集中で労働者階級が同じ服で仕事、家庭、食事、就寝。その臭気に中流以上が辟易し、衛生改善のために手段として公共浴場を設ける試みが行われ、英国版銭湯が誕生

    こんな流れのようだが、ところが、入浴を忌避したキリスト教徒による十字軍(11~13世紀)が、聖地エルサレムを目指して行進した結果、清潔・風呂好きのアラブ人(イスラム教徒)との交戦で接点ができ、皮肉なことにそこで風呂を味わった騎士たち兵士たちが、その習慣をヨーロッパに持ち帰った、ということも書かれている。この本、ちょっと矛盾しているというか、年代が合致しない。

    歴史的に大きな流れとして分析されているのは上記の部分だけで(とはいえ矛盾した内容)、あとは水に関する雑学的なことが羅列してあり、流れがなくて趣味で集めた情報集のような本だった。

    僕は川の番組を長年してきたので、知っている話もけっこうあった。例えば、riverの語源はrivalの語源と通じていて、水は仲良く一緒に使うものだが、一歩間違うと争いごとになる、という話は、何度もいろんな人から聞かされてきた。

    それでも、アメリカには軟水が多くてコーヒーのうま味をうまく引き出せるためアメリカのコーヒーはヨーロッパより薄くなった、という話などは初めて聞いた話だし、おもしろかった(ただし、その明確な根拠が示されていなかった)。

    糖尿病の発見は、中世の医師が多かれ少なかれ「水占い」ができ、尿をとってチェックする中で、飲んだ医師がいて、甘い味がしたことからなされた、という話も、ちょっと出来すぎだが面白く読めた。

    *******

    水に関してどうしても説明できない不思議な現象。
    ・仏、ルルドの水:村の少女が聖女に洞窟の水を指さされてルルドの奇跡が起きる、1858年
    ・墨、トラコテの水:1990年代初め、トラコテの街の井戸からわき出る水が万病に効く
    ・独、ノルデナウの水:ホテル・トメス敷地内廃鉱のわき水、廃鉱でなぜかワインが急速に熟成する、わき水が原因で効能もあり。1990年代初頭
    ・日本、九州日田の天領水:江戸幕府直轄地である日田中ノ島で養殖用に掘られた井戸の中でウナギが大きく育つ→飲料水用としても人気

    地球上の水
    海水等97.4%、淡水2.53、地下水0.76、河川や湖沼等0.01、氷河など1.76、大気中0.001

    rivalの語源は小川を意味するラテン語rivusから派生したrivalis。「川を共同で使う者」「川を競い争っている者」という意味。

    中国の自国優先。アジア6国を通過するメコン川では、上流の中国が8ダムを建設して下流での魚類収穫量が減っている。水路の航行困難と水位低下による満潮時の南シナ海からの海水逆流、プノンペンにまで達している。
    コロラド川(米・墨)、セネバ川(エクアドル・ペルー)、バラナ川(アルゼンチン・ブラジル・パラグアイ)、豆満江(ロシア・中国・北朝鮮・韓国)、ナイル川(ケニア・タンザニア・エチオピア・スーダン・エジプト)も同様。

    「水メジャー」「水男爵」ビッグ・スリー
    1.スエズ・リオネーズ水社:フランス、1858~
    2.ヴェオリア水社:フランス、1853~
    3.テームズ水社:英国、1973~
    *日本では「水ing」(2011~)荏原製作所、日揮、三菱商事が出資

    南アフリカでは、1998年に地方政府が高騰する水道維持事業を民営化後、かかった費用を全部水道料金に上乗せする方式「フルコスト・リカバリー」を採用、払えない貧困層を中心に約1千万人の水道が止められ、その結果、2002年には市民が川や池、湖の水を使いコレラ発生、死者も。

    平成16年版(2004年)「日本の水資源」(国土交通省)によると
    世界で飲用可能な水道水は僅か13カ国
    欧州:フィンランド、ドイツ、アイスランド、アイルランド、オーストリア、スロベニア、クロアチア
    アジア・オセアニア:日本、UAE、ニュージーランド
    アフリカ:南アフリカ、レソト、モザンビーク
    一応、飲用に適しているとされる水道水
    英国、仏、ベルギー、スイス、イタリア、スペイン、スウェーデン、デンマーク、アメリカ、シンガポール、オランダ、オーストラリア、カナダ、アルゼンチン
    *(上記と関係なく)本当に日常的に飲用して大丈夫な国は、日本とスイスだけとする意見もある

    世界の各都市の給水人口と漏水率
    ロンドン:700万人、26.5%
    トリノ:120万人、25%
    イスタンブール:1150万人、25.2%
    メキシコシティ:860万人、35%
    香港:675万人、26%
    東京:1213万人、3.6%

    日本の都市の漏水率ワースト
    富士市:29.47%
    岐阜市:26.58%
    四日市市:20.38%
    津市:18.12%・・・・・

    海水と水を薄膜で隔てて接するだけで、水がどんどん海水の方向に吸収されるように移動していく。この状態で海水側に圧力をかけると、逆に水が増大する。この卓越した逆浸透膜方式という海水淡水化技術は日本が持っている。あとは、透過後の雑菌などをどう効果的に除去するのか。

    糖尿病の発見
    中世のヨーロッパの絵画で医師が尿をかざしているが、多かれ少なかれ中世の医師はこの尿診断法の権威者だった。「水占い人」とも呼ばれた。色と量、浮遊物、匂い、音、肌触り、味わいが試された。量を量り、見て確かめ、匂いを嗅ぎ、フラスコを振って音を確かめ、指でかき混ぜて粘度を測り、あろうことか尿の一部を飲んでみせた。この勇気ある行為によって甘い尿の病気である糖尿病が発見された。

    清潔な環境で生活する近代西欧的価値観は、必ずしも歴史的に古いものではない。キリスト教徒が必ずしも清潔ではなかった(一方、イスラム教徒は清潔が求められた)。宗教的儀式として重要な洗礼により、身体は浄められ、永遠の祝福を受けることで、もはや汚れは生じないと見なした。神聖な水を振りかけたので、それを拭わず、生涯身体に取り置いていくことが真の信仰だと考えた。浴場はむしろ淫らな場として忌避、敬遠された。身体の汚れが、むしろ敬虔なキリスト教徒の清らかさを示すとも考えられた。

    5世紀にギリシャ・ローマ世界が終焉、カトリックがフランク王国(フランス)の公式宗教に。教会は共同浴場や入浴時の裸体に疑義を呈し、鍛えられた肉体ではなく禁欲的で抑制された肉体が歓迎される時代に。キリスト教は入浴中の裸体、ユダヤ人やキリスト教を破門された人との入浴を禁じる。

    身体は神の宿る神殿となり、清潔な身体と服は、不潔な魂のあらわれと考えられるようにさえなった。洗っていないことが宗教的苦行として称賛された。なお、信者自ら洗う行為は厳しく禁じながら、奉仕として病者の洗浄に携わることは良き行為とした。キリスト自身が使徒たちの足を洗ったことなどから。

    入浴を嫌う風潮は、イスラム教徒が中東で勢力拡大し、ヨーロッパ文化圏に突入するようになることで顕在化した。イスラム教徒は、礼拝時と外部から都市に入る際に沐浴を要求された。モスクに入る時は最低限、手足を濯ぐ。

    中世ヨーロッパでは入浴が忌避され、嫌われたが、イスラム教徒の清潔さに対する反発がもたらせたという宗教的意味がそこにあった。しかし、十字軍(11~13世紀)が、聖地エルサレムを目指して行進した結果、清潔・風呂好きのアラブ人との交戦で接点ができ、皮肉なことにそこで風呂を味わった騎士たち兵士たちは、その習慣をヨーロッパに持ち帰った。

    最も初期の水洗便所を経験した英国エリザベス1世(1533-1603)も、入浴は月に1度ぐらい。アラゴン王フェルナンドと結婚してスペイン女王となり、コロンブス西方航海を援助したイザベラ女王(1451-1501)は、生涯でたった2回しか風呂を使ったことがないのを誇りにしていた。

    ユダヤ教徒は清潔に関して敏感だった。入浴や沐浴、手洗いを奨励し、生後8日目の男児に割礼を施した。

    17-18世紀のフランスでは、蒸気風呂(湯気を必要な部分にだけあてる方法)が床屋に隣接して建てられて流行。床屋が外科医を兼ねていた当時の事情を反映。彼らは瀉血を一手に引き受けていたのに加え、水治療も施していた。例えば、冷水浴。かつてローマ時代に利用効果をうたった入浴場が復活し始めた。

    それでも、1801年にはロンドンの医師が、多くの人は何年も身体を洗うのを忘れていると嘆き、1837年にヴィクトリア女王が即位したときにバッキンガム宮殿に風呂場がなかった(移動式風呂桶持ち込み)。

    イギリスでは、産業革命による都市への人口集中により労働者階級のおぞましいほどの衛生状態が明らかになった。同じ服で仕事、家庭、食事、就寝。その臭気に中流以上が辟易。衛生改善のために手段として公共浴場を設ける試み。英国版銭湯。

    1854年、クリミア戦争(1853-56)において、おそらく英国本土におけるコレラの最も激しい蔓延は、ロンドンのゴールデン広場のブロード街で起こったもので、8月31日から9月10日のわずか10日間で、500人もの犠牲者を出した。

    科学著作家・貝類学者のカトロー(1806-89)の書いた『水の滴』に示されている水の夾雑物は、実に美しい。(130P)

    便所が大昔からあったわけでなく、元々は野外で行われていたものが屋内へと移った。便の大小に関係なく、どこでもいつでも自由に気軽に用を足せることが必要になった。小用にはポットが必要だった。それは「部屋の小瓶」ともいわれていた。トイレのための小瓶。
    「部屋の小瓶」はフランス語でpo=pot de chambre,bourdaloueだが、bourdaloueの語源は、ルイ14世の宮廷礼拝堂で、説教王の異名をもつアベ・ルイ・ブルダルー(Louis Bourdaloue,1932-1704)が、延々と説教を続けたことに由来する。2時間以上に及ぶこともしばしばで、礼拝堂の上流社会の女性達のためにポットが使われた。座って、あるいは立ったまま、下腹部に差し込んだ。

    英国では1846年には、浴場や洗濯場を建設することを許可する法令が出され、多くの町でそうした設備が公費で建設された。1850年代からは、比較的裕福な階級で自宅に風呂。1860年代からは貧困層に清浄な飲料水を供給するための水飲み場が設置されるようになったが、労働者階級の自宅に水道水が水道管によって供給されるようになるのは、ずっとのちのこと。それから百年後の1960年代になっても、英国全体の家の4分の1には、なお風呂もシャワーもなかった。


    三大名水の一つ、伏見の地名は、元々「伏水」と書いていたらしい、意味は伏流水。

    欧州や中国の大部分では硬水が多く、蒸し料理や油炒め、長時間煮込む料理が発達。日本やアメリカは軟水が多く、日本では「うまみ」を引き出した料理や緑茶が発達。一方、アメリカではアラビアから欧州経由で入ったコーヒーが、抽出する水質がよいために本来の味をうまく引き出せ、薄くなったと言われる。

    大都市江戸。上水は長雨になると、濁るため配水が中止されて水質を一定に保った。日照りでは水道配給量が減った。しかし、江戸の人たちはさして気にしなかった。その理由は・・・
    ・小判(お金)を乱用するより、水の乱用・乱費をするほうが悪だとする庶民の考え
    ・井戸が大切な供給源だったが、墨田川以東の埋め立て地は他の上水(神田と玉川)の余り水を水屋により運んでもらって買っていたためあまり不足しなかった
    ・飲料水は上水で取り、洗濯・炊事・風呂は井戸水でするという使い分けをし、水を大切にする生活習慣があった
    ・幕府が川や堀にあらゆるごみを捨てることを厳しく禁じていた

    東京の上下水道の創始者は、英国出身のウィリアム・バートン。日本では、バルトンやW・K・バルトンとも呼ばれる。帝大教授として招聘された。東京のほか、函館から長崎まで、主要都市の衛生調査、上下水道計画にあたる。凌雲閣(浅草十二階)を設計したことでも知られる。

    17世紀以降、ヨーロッパでは生活のレベルが向上するにつれて、人々は自分の体を意識するようになり、美しさを求め、垢や臭いを気にするように。食事と入浴が大切な生活の指標となった。フランスのパリでは、蒸気風呂や共同浴場が流行し、人々が押しかけた。ベストの流行に際して、病毒(細という概念は19世紀)は蒸気風呂がばらまくと考えられ、注意喚起された。それどころか、空気中に精液が漂うという滑稽な考え方まで生み、妊娠を恐れた女性たちが風呂やから消える事態も。

    欧州では、16世紀にシャワーが使われ始め、17-18世紀にはフランスで蒸気風呂が床屋に隣接して建てられて水治療が行われた。水を内服し外用する水治療と、水をもっぱら外用する水治療法に分類される。19世紀~20世紀のアメリカでは、水治療法が流行し、ニューヨーク州のサラトガ温泉には全米から裕福な患者が殺到した。
    そんな中、ケロッグ博士(1852-1943)は、ミシガン州バトルクリーク・サナトリウムで菜食主義を唱導するとともに、禁酒禁煙、運動奨励、性生活の抑制を唱え、数リットルの水浣腸とヨーグルトの摂取を勧めて、当時の健康ブームの火付け役となった。あの、ケロッグ・コーンフレークを創案したケロッグ博士である。タフト大統領(第27代)、南極探検家アムンセン、英国劇作家バーナード・ショー、自動車王ヘンリー・フォードなども参加。

    民俗学者の宮本常一(1907-81)が日本全国を回って入浴回数を調べたところ、東日本では3~5日に1回、西日本では時に月に1~2回というところもあった。
    *残念ながら調査がいつ頃かが書かれていない、あまり意味のない数字

    風呂の語源は、蒸し風呂の「室(むろ)」からという説と、茶の湯で湯を沸かすための「風炉(ふろ)」からとの説がある。

    湯を張って浴槽につかる形式の風呂は室町後期から江戸時代の初期に現れるが、「湯屋」「お湯殿」といって「風呂」と区別されていた。

    貝原益軒の『養生訓』(1712)第5巻で入浴と水、洗浴を取り扱っている。
    湯浴(ゆあび)は、しばしばすべからず。・・・・・湯あさければ温(あたたか)過ずして気をへらさず。・・・・・身熱し、気上り、汗出(いで)、気へる。甚害あり。又、甚温なる湯を、肩背に多く注ぐべからず。熱湯(あつゆ)に浴(ゆあみ)するは害あり。冷熱はみづから試みて沐浴すべし、快(こころよき)にまかせて、熱湯に浴すべからず。気上がりてへる。殊に目をうれふる人、こごえたる人、熱湯に浴すべからず。

    鎌倉時代、寛喜3(1231)年には、関白藤原(九条)道家・頼経親子が、別荘に有馬の湯を毎日牛車で200桶運ばせて入浴した。
    鎌倉時代には、寺社が一般人に無料で風呂を開放するようになった。しかし、荘園制度の崩壊とともに領主の庇護とお布施を失ったので、入浴料を取るようになった。これが銭湯の始まりである。しかし、まだ銭湯とは名づけられていなかった。

    江戸初期、郊外では風呂の恩恵をこうむる者が少なく、船に湯を張って風呂のサービスを施しに回った。実際に「湯船」が存在し、それが風呂桶の意味に転化した。
    銭湯以外としては、風呂桶を人通りの多い街頭に置いて湯を沸かし、通行人に入浴させた「辻風呂」。入浴希望者の場所まで風呂桶を担いでいき、樹木の影などに置いて湯を沸かして入浴させた「荷(にな)い風呂」などがあった。

    岡本綺堂は『明治時代の銭湯』(1938)という随筆に書いている。
    火事の多い江戸時代、人家稠密の場所では内風呂が禁じられていて、商家の主人でも銭湯へ。明治以後はその禁制も解かれ、かつ地方人が多くなった為に一時は内風呂が頗(すこぶる)流行したが、不経済でもあり、不便でもあるというので、明治の中頃からは次第に廃れて、大抵は銭湯へ行くようになった。大正以後、内風呂がまた流行り出して、この頃は大抵の借家にも風呂場が附いているようになったが、それが又どう変わるか判らない。

    江戸時代の初めには人を招いて風呂を提供し、酒宴を開くこともあった。やがて風呂と酒宴を提供する商売が出現、接待する「湯女」もいた。垢すりや髪すきのためのものだったが、飲食、そして性的奉仕も。明暦3(1657)年、幕府は湯女(ゆな)一掃の禁令を出し、湯女を吉原遊郭に集めて遊女として、集中管理体制をしくことに。

    森鷗外は東大医学部に入ってから肋膜炎のために一時休学。結核に罹患し、自分で結核菌を顕微鏡で確認していたのではないか。海軍中将赤松則良男爵の長女登志子との早すぎる離縁さえも、喀痰を顕微鏡検査して結核菌を認めていたからではなかったのか。登志子は1889年3月6日に18歳で鷗外に嫁ぎ、翌年9月13日に於菟を生み、11月27日に離縁させている。

    正岡子規は甚(はなはだ)不精者であったと見えて、常に垢を蓄へては根岸の里から千駄木へ運んで、其臭気に綺麗好きの私の祖母を辟易させていたらしい。しかも話に興が乗ると胸から腹の辺が痒くなると見えて右手を深く懐に入れてこするのである。(中略)かくして製造せられる垢の団子を拇指の腹にのせて示指の先で弾くのでそれが対座している父の膝に落ちたり、時としては間にある火鉢に入って室中に異臭を漲らせたりする。
    (森於菟「子規緑雨鷗外の垢」)

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著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了
名古屋大学大学院国際言語文化研究科・教授
比較文学比較文化・医学史・明治文化史専攻

「1995年 『結核の文化史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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