- Amazon.co.jp ・本 (314ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022640956
作品紹介・あらすじ
明治期の「美人罪悪論」から、昨今では「すべての女性は美しい」と転回する、美人・不美人をめぐるレトリック。この背景にある倫理の変容を徹底調査。あえて容姿についてことあげする。「ブス」はタブーなのか。面喰いをおろかと蔑む正義の正体とは。賛否の大論争を巻き起こした、問題の書。
感想・レビュー・書評
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とってもシンプルな文章なんだけど、どうにも作者の本音が見えてこない。Aと書いてあるけど、Bを主張しようとしているのかな。それとも読者がBと判断するかもしれないけど、実はやっぱりAなんだぜ。と、疑心暗鬼になってしまう。基本、時代の推移とともに美人がどう論じられてきたか、またそれは何故なのかを説いているのだろうけど落とし所が分かりにくい。ま、それが狙いなんだろうし、美人が何かは分からないってことなんだろうね。
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新書文庫
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引用が多く慎重なスタイルでわかりやすいが、たまに引用に対して論理が飛躍している。書いた者の本意でない引用がされている気がする。こいつは行間を読めないのか?読み途中なのでまだわからないが、自分の考えに寄せたいがためなのだろうか。まだわからない。
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井上章一さんの本はどれもそうだが、とにかく文献に当たりまくっている。
「それどっから調べたんですか?」と驚きを禁じえない資料収集能力を見習いたい。
また、当時のまま正確に引用するので、時代背景などもよくわかる。
本の作り方としても、非常に勉強になる。
内容は、もちろん群を抜いて面白い。
このような根本的な問いを立て、調べ尽くす姿勢が素晴らし過ぎる。 -
面白かった。
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はたして美人とは何か?時代によってもちろん美人の定義は変わる。しかし、美人に憧れをもつのは男女ともに今も昔も変わらない(少し大げさだが)。
面食いは悪なのか?なぜ、面食いはいけないという認識が生まれたのか、またなぜ性格を重視していく傾向が社会的に発生したのか、その謎がこの本には書かれている。井上氏がかなりの書物を読み研究にいそしんだからこそここまで完成度が高い本になったのだろう。この本には真実のみが赤裸々に書かれている。
井上氏を世に広めるきっかけとなった一冊。 -
美人罪悪論から美人の社会進出、美人の社会的地位の変容までを分かりやすく、明治以降。
論文のために読んだのだけど読み物として面白かったし、やはり自分のとても興味とコンプレックスのある分野だったため良かった。
美人が美しい以外にも価値を持っていい時代である現代は良いものだけど才色兼備にどうやっても敵わなくなっちゃうのだよねって思った。
自分は美人史をテーマに論文を書こうとしたんだけど、テーマはやはりとても興味深いし面白いから今後自分の言葉で何か語れるようになりたいなと思った切欠の一冊です。 -
井上章一について、小谷野敦は『評論家入門』のなかでこのように言っている。井上の存在は「現代日本で、マスコミ学者でありながら著書においてはやっつけ仕事をほとんどしない、希有な学者である。ちゃんとした方法論もある。一般には「学説史」と呼ばれる方法だが、学説史というものが、対象をうまく選べばこれほど面白くなるということを示した点でも意義は大きい」。辛辣な小谷野においては数少ない、好意的な意見が寄せられている。その一方で、井上の著作中いちばん有名な本書『美人論』にかんしては、「「美人罪悪論」が近代に生まれた、と言いつつ前近代について調べていない」点にしっかりと苦言を呈していたりするが。
内容を敷衍する必要はないだろう。よく知られている通り、美醜についての近代以降の価値観のあれやこれやが述べられている。個人的に気になるところは井上の文体と展開である。
井上の文体はとても独特である。一段落が短い。段落を構成する一文も短い。さらにその一文は大量の読点によって細切れにされる。ぱっと開いたページの文章を例に出すとこんな感じ。155ページ。
さし絵の画家に、木村荘八というひとがいる。文筆家としても有名だ。とくに、江戸・東京の風俗史については、一家言をもっている。
その木村が、一九四七(昭和二二)年に「美人変遷史」というエッセイを書いている。時代のちがいにより、美人観はどれだけかわったかといったことをのべた文章だ。
このなかに、「衛生美人」についてふれたところがある。そして、木村は、この言葉について、とんでもない誤解をしているのである。
木村によれば、江戸時代の女は猫背か猪首が多く、ぜんたいに姿勢が悪かった。そして、その悪い姿勢こそが美しいんだと、いいくるめるような傾向があったという。
だが、明治になると、姿勢のいい女が、西洋の影響でクローズアップされてくる。昔の基準から考えれば、とうてい美しいとはいえない女が、美人として浮上する。
(以下略)
はじめて読んだときは、読みにくくてしょうがなかった。堅いと思った。「硬質な〜」といった、わりと肯定的な印象のものではなく、ただ、「ぎこちない」と思ったのである。このような抑揚の欠けた一本調子の語り口で、最初から最後まで書かれている。別にこのような文体をネガティブに捉えているわけではないのだけれど、どの著作を読んでも、この文体は徹底されているから、井上にとって、何かしらの強い意味が担わされている文体なのだと推測できる。はて、それは、なんだろうか。そこで一度、井上の論旨の展開について考えてみる。
「ぎこちない」文体の一方で、展開は「流麗」と呼ぶに相応しいような、変化に富むものである。数多くの引用がひかれるものの全く退屈させない。引用をもとに全体を構想するのではなく、まったく逆で、全体の構想をはじめに練ったあとに引用を挿入していった末の文章、という印象を受ける。リズムがあり、ドラマがある。ユーモアもある。基本的に容姿の美醜の問題はこれまで、大部分は女性にかんして語られており、当然、井上もそれに沿う。日本の女性の美醜に対する価値観は、文明開化やデモクラシーなどの影響を受けて変化してる。資本主義との関連はどうだろう。ここで井上は男性の美醜問題と中国女性の美醜問題を持ち出し、ポンポンとその関連性をあぶり出す。よくよく考えてみれば男性や他国の美醜は重要な参照対象なのだが、「・・・まだ不十分なのだ。それは、男の問題である」などと言って、唐突に展開するのである。この展開の妙は、文体の「ぎこちなさ」とはあまりにかけ離れている。
推測するならば、つまり井上は、あつかう題材とそのために集めたネタだけで、文体のドラマに頼らなくても、十分に読者を飽きさせないドラマを生み出すことができるのだと自任しているのではないか。実際、あの「ぎこちない」文体は「流麗」な展開の中ではごく自然なものとして感じるようになるし、一つ一つの文は短いがゆえに、大胆な展開を見失うことを最小限に抑える効果を発揮しているように思う。はじめに引用した小谷野が言うところの井上の「天才」は、この点にもあるのではないだろうか。
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途中まで読んだ。おもしろかった。