- Amazon.co.jp ・本 (247ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022642707
感想・レビュー・書評
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巷間に溢れる色々な物語に対しての豊かな感受性に憧れます。感動するのは、『ぼくらの民主主義』にも通底する、細かい部分にまで及ぶ鋭敏なアンテナ。かといって揚げ足取りという訳では決してなく、あくまで純粋な好奇心に由来するものであろうことが素敵。実篤や淳一の評論もとても面白くてサイコー。
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なんだろこれ。
ジャンルで言えば「エッセイ」なんだろうか?
「評論」なんだろうか?
高橋源一郎って人は本当に「文学」、「小説」が大好きなんだなって。
そして常に「文学」、「小説」の可能性を思考している。
そして僕はこの本を読んで、いや、僕「も」、文学の可能性について考えるようになった。
ちょっと古いけど、渡辺淳一の『失楽園』ってこんなクソみたいな文章だったんだって気付かされました。
まぁそこには狙いがあるって読みをタカハシさんはしているみたいですが。
その部分だけでも面白いんで是非。
と思ったら、AVについてまじめに語り始めるタカハシさん。
『ゴダールは、「ポルノ映画は保守的だ」と言った。』
この意味がわかりますか?
そして非常に印象的だったのが、最後の2章である「文学の向う側?・?」。
ちょっと長いけど以下引用。
それぞれの言葉は、それぞれの言葉を作りだした人間の世界の中で丁寧に吟味され、矛盾のないよう選ばれる。だから、それぞれの言葉を使うものはどちらも自分の正しさを疑わない。そしていつかそれが「言葉が作りだした空間の中での正しさ」ではなく、単なる「正しさ」であるように思いこむ。
それは言葉の持つ本質的な政治性である。
ではその「政治」性とは何なのだろう。
タカハシさんの好きなある作家は「政治」の本質は次の一行で言い表せると書いた。
「やつは敵だ。殺せ!」と。
それは言い換えるなら、「わたしは正しい。やつは間違っている」ということだ。そして「戦争」とは「政治」のとる最後の形態なのである。
そう、「戦争」は言葉の中にその根拠を持つのである。
=略=
「政治」の本質が「わたしは正しい、やつは間違っている」なら、「わたしは正しい」と訴える「文学」はすでに「政治」に冒されているのである。
そして「わたしは正しい」と主張する「文学」は「政治」であるが故に、ついにこの世界の「基底」にはなりえないのだ。
では、世界の「基底」に成り得る、世界を成り立たせることのできる「文学」とは何なのか。
ここまで来て、ようやくわたしたちは最後の問いにたどり着くのである。
引用終り
タカハシさんの思考はまだまだ終らないのです。