街道をゆく 17 島原・天草の諸道 (朝日文庫 し 1-73)

著者 :
  • 朝日新聞出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784022644633

作品紹介・あらすじ

島原の乱(1637年)が大きなテーマになっている。島原半島を歩き、戦場の原城跡で思索を重ねる。親子二代で暴政を敷いた島原領主、松倉重政・勝家親子については「ごろつき」と容赦がない。一揆に強い同情を持ちつつ、無理やり参加させられた人々のことも忘れない。天草・本渡では延慶寺の樹齢500年の梅に魅せられる。夜の闇にうかぶ梅の花の描写が幻想的だ。

感想・レビュー・書評

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  • 天草島原の乱は切支丹による乱というよりも困窮した農民の一揆だったそうだが、島原の農民たちから搾りに搾ったという松倉氏には実に腹が立った。
    本書の前半で島原、後半で天草が主に扱われており、暗くて内向きな島原と、明るくて外向きな天草という対比が面白い。
    ある女戦士の最期に関係のある梅の樹について、そんな逸話は「メンコの絵柄めいている」と一蹴した筆者に対し、須田画伯はその梅に非常な執着を見せる。その対照も良かった。

  • ・忠誠心という、この甘美な精神は、中世のひとびとの多くに、原液として湛えられていたかと思える。ただ農民の場合、その対象がなく、武士の場合も、地上のなまの主人もさることながら、天国の支配者であるキリストに仕えることのほうに強烈な昇華を見出したのではないかと思える。
    こういう点でも、インドや中国の社会よりは、当時の日本の社会のほうが、切支丹受容にむいていたであろう。
    ザビエルが、「東インド地方で発見された国々のなかで、日本の国民だけがキリスト教を伝えるのに適している」と報告したのも、むりもないことかもしれない。

    ・ところが、ローマ法王庁は、当時も、そしてこんにちにいたるまで、かれらを殉教者としては認めていないのである。その理由の一つは、神父が存在しない場所で事をおこしたということがあるのであろう。

    ・近世日本が、同時代の中国や朝鮮の社会と異なっていたのは、商業上の文書類が圧倒的に多いこと、武士や庄屋階級という、儒教体制における「官」からいえばはるかにひくい層において、自分の体験や見聞を私家用に書く者が圧倒的に多かったことである。

    ・天草が幕府直轄領になると、むしろ禅宗が前面に押し出された。
    禅宗は、自分一己の解脱のみを説く。他宗のように、神仏に頼み、祖先の霊にたすけをもとめたりする他力の心があればそれだけで解脱への勇猛心が弱まるとする。
    禅家の積極的無神論にかかっては、切支丹の神などは迷信になってしまうのである。

    ・「明治のとき、なぜ長崎県に組み入れてもらえなかったのか」
    たしかに人情ということからいっても、肥後(熊本県)の気風がもっている重厚さや理屈っぽさよりも、肥前がもっている軽快さのほうが、天草の風に似つかわしい。

  • 松倉重政を忌むべき人物と書き起こすくだりが印象的で、苛政と虐殺の舞台となった島原探訪のトーンの一端がここで迫ってくる。虐げられた島民への強い同情を示しつつ、一揆勢に参加せざるを得なかった(非切支丹などの)者への眼差しや、島原の乱と後年の西南戦争との共通点など、聞き飽きない話が続く。乱の要因は米所ではない土地柄に赴任したならず者大名親子の所業、土地に残っていた戦国牢人と火器などが絡んでおり、切支丹信仰は無関係だった(乱後は求心力として大いに活用された)が、他所者や他宗教という要素が虐げを容易にしたとすれば、今に通じる普遍的な意味合いを持っている。18世紀後半の眉山崩壊の描写も凄まじく、ほんの数百年前の惨禍と今日穏やかな島原とのコントラストが強烈。旅行記だけに、島原・天草の風光にも触れられ、現在も著者が散策した頃と劇的に変わらない(だろう)から、ガイド本としても充分耐え得そう。

  • 今回の司馬さんは島原と天草。この場所だとどうしても島原の乱に触れないわけには行かない、というか島原の乱が主軸となっています。島原と天草は地形も違うし国も違うのになぜ一つになるのだろうと思っていましたが、天草は熊本藩から切り離された土地で支配体制に島原と似たところがあったというのは気づいてませんでした。にしてもこの辺りは一度しか行ってないので、島原の乱を巡りに再訪してみないとです。

  • 彼はわずか5日間しか島原&天草に取材旅行に来ていないそうだ。
     なのになぜ18年も島原に住んでいたワシより島原半島+天草に詳しいのだ!!
     島原半島出身者+天草出身者は読むと懐かしい地名が次々とでてきて驚くことしきりだろう。なんと私の母校島原高校まで実名で載っていた。
     取材旅行は1980年らしく普賢岳噴火(平成3年)には触れられていない。
     島原半島に限っても、島原城・武家屋敷・沖田畷・眉山・南目・白土湖・深江・有家・堂崎・北有馬・原城・神代(国見)・加津佐、そして口之津から鬼池港のある天草に渡って、天草のこともふんだんに取り上げられている。
     同じ風景を18年も眺めていた私よりも、わずか5日(しかも海を渡った天草含めての5日だもんね)しか視ていずとも、膨大な博識さえあれば景色を歴史を堪能できるということだな。
     司馬遼太郎は全国の街道をめぐっていたようなので、自分の故郷や今住んでいる近所の街道を司馬遼太郎が幸いにも巡っている人は、当該地域の<街道をゆく>を読んで、思いをはせてみることをぜひお勧めする。

  • 島原・天草の乱の歴史がよくわかる。
    口之津の話が個人的に好き。

  • 歴史は立地条件と為政者で変わるのだろう

  • 九州の西方、有明海を西から囲っているのが島原半島。そのすぐ下の群島が天草地方。ともに稲作に適さず、古来から貧しかった。島原の乱を筆頭に一揆の多発地帯。キリスト教にすがるも江戸幕府により禁教に。歴史的になにかとツラい地域です。

  •  久しぶりにこのシリーズを読みました。やっぱり街道をゆく、面白いなぁ。一気に読めました。
     島原と天草の細かい位置関係が分からないので、グーグルマップを参照しながら、読むとよくわかりました。天草って、よく見ると二つに分かれてたのね。知りませんでした。また、昔は本渡市って聞いたことあったんですが、今は市町村合併で天草市になってました。
     秀吉も、家康もじつは、キリスト教の布教がスペイン、ポルトガルの侵略の先兵である、とはこれっぽちも思ってなかった、という件が興味深かったです。
     秀吉は、来るなら来てみろ。返り討ちにしてルソンまで攻め返す、勢い。
     家康は、冷静に考えてスペインが多数の兵員を日本まで渡海させるのは不可能で、もし仮に来たとしても九州の2,3の大名で十分対処できる、との考え。そのため、九州には重量級の大名を配置している、と。
     なるほど、よくわかりました。

  • 島原、天草といえば島原の乱が真っ先に思い浮かぶのは、さして突飛な発想ではないと思う。この旅ではその中核となる場所を静かに巡っていく。反面、司馬遼太郎の思索の旅は、乱の周辺をなめるようにゆくのみで、けっして中核への道をたどらない。読み手としては何かしらもどかしさを感じる旅である。

    司馬遼太郎は、選り好みはするが、好き嫌いといった昂につながる感情はあまり表に出さない作家だが、島原の乱や背景にいたっては珍しく嫌悪の情を隠そうとしない。

    逆にその姿勢が自分の、島原の乱に対する興味を深くさせるのだから、司馬遼太郎は恐ろしい。

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著者プロフィール

司馬遼太郎(1923-1996)小説家。作家。評論家。大阪市生れ。大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960(昭和35)年、『梟の城』で直木賞受賞。以後、歴史小説を次々に発表。1966年に『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞受賞。ほかの受賞作も多数。1993(平成5)年に文化勲章受章。“司馬史観”とよばれ独自の歴史の見方が大きな影響を及ぼした。『街道をゆく』の連載半ばで急逝。享年72。『司馬遼太郎全集』(全68巻)がある。

「2020年 『シベリア記 遙かなる旅の原点』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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