街道をゆく 18 越前の諸道 (朝日文庫 し 1-74)

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  • 朝日新聞出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (300ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784022644640

作品紹介・あらすじ

駆け出しの新聞記者として福井地震の惨状を取材した著者にとって、越前は強烈な記憶の場所だった。九頭竜川の育てた肥沃な平野を往来しつつ、永平寺の隆盛と道元の思想を思い、「僧兵八千」を誇りながら越前門徒の一揆にもろくも敗れた平泉寺の盛衰を考える。平泉寺の菩提林で、十余年前に訪れたときと同じ老人に偶然再会する不思議な場面は、そのまま一編の小説になっている。

感想・レビュー・書評

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  • 曹洞宗開祖道元から始まり〜白山信仰〜荘園制と結びつく宗教勢力〜守護大名朝倉氏という地域の歴史、常滑から伝わったとされる古越前と呼ばれる陶磁器から、中国と日本の陶磁器に対する美意識の違いを思案。あまり知らなかった越前の歴史文化的成り立ちについて知る事ができた。

  • 以下抜粋~
    ・道元は卓越した論理能力をもち、しかも論理の尖端は剣のようにするどく、さらには、物事に負けることの気楽さとか、巻き込まれて自然に生きる楽しみなどという日本的諦観を、性格としても毛ほど持たなかった。こういう青年である以上、南無阿弥陀仏をとなえるだけで極楽往生ができると説く当時流行の念仏門など、体質としてうけ入れられなかったにちがいない。

    ・僧たちがあらそって妻帯するようになったのは、大正期だと私は思っている。さらにはこの現実が大正デモクラシーと決して無縁ではなく、むしろ大正デモクラシーの諸現象のなかに、この現象も加えてもらいたいとも思っている。

    ・鎌倉期に親鸞があらわれて念仏を説いたのは、農民に対してであった。むしろ農民のみに説いた。

    ・蓮如(浄土真宗の僧)は北陸に巡教し、とくに加賀において大いに広めることができた。北陸においては、越後はこの農民教が力を得るにはその層の経済的成長が遅れており、越前は先進的すぎて、古代以来、開発されぬいており、このため奈良の東大寺や叡山の荘園が多く、かえって中世的でありすぎている。
    加賀がもっともいい条件をもっていた。

    ・「加賀は百姓の持たる国」といわれる一種の共和制が、織田信長の北陸遠征まで百年つづいた。信じがたいほどの現象である。それが、遅れて越前に及ぶ。

    ・徳川家康は、関ヶ原の一戦で天下をとると、一向宗ー本願寺ーの勢力を殺ぐために、西本願寺と東本願寺に分裂させ、新設の東本願寺を保護した。
    曹洞宗に対しては、むしろ逆に、組織を強くする方向で介入した。

    ・将棋のおこりは古代インドであったといわれる。西へ行ったのがチェスになり、東に行ったのが中国の像戯(将棋)になった。日本には奈良期に入ったかと思われる。

    ・戦国の諸雄のなかで、化物になってしまっている中世をこわして近世をまねきよせたいという思想もしくは思想性をもっていたのは信長しかなかった。
    信長は、近世的合理主義のために中世の化物どもを退治することに、異常な情熱をかたむけた。

    ・江戸中期以降、初等教科書を安価たらしめたのは、紙のやすさによる。江戸期の社会という、識字率のおそろしく高い社会を成立させた要素のひとつは、紙の奇跡的なほどの普及である。

    ・北前船の息の根を決定的に止めてしまったのは、蒸気船よりもむしろ鉄道の北陸線の開通であった。(明治30年)

  • 越前和紙や焼き物の古越前といった話から、朝倉氏、柴田勝家から越前松平氏のことまでも、徒然に語っていく一冊。福井の旅の友に最良の本。

  • 街道をゆく、今回は越前ですが、街道をゆくというより道元をゆくですな、と言いたくなるレベルで永平寺の話が出てきます。永平寺入ったことが無いのですが、読んでも行きたいとは思わないあたり、この本はは紀行文ではなく思索集だよなぁと。あと一乗谷は今でこそ合理的な城塞都市で反映もしていたと判ってますが、この頃は発見されたばかりで奥まったところに引っ込んだ穴熊都市と思われてたようですね、というのが見えました。

  • なぜこれを次に手にとったか。1) 故郷隣接県なのに知らないことだらけ。2) 最近職場に石川県出身者が加わり時折話題にでるようになった…というぐらい他愛のないものだったのだが、改めて説明されてみると越前に石川県は含まれていなかった…。

    新たな開きが目白押し。まずは道元、曹洞宗、永平寺。その開祖が曹洞宗と呼ばれることを忌み、大伽藍をもつ寺などを毛嫌いしていたのにも関わらず、時代は彼の意図しなかった方向へどんどんと流れていく。その中で彼に師事するため遠く海を渡ってまで追いかけてきた僧寂円の話は心に響く。先日チベット料理屋で「お前は日本人か。」と聞かれそうだと答えると「日本の仏教は素晴らしい。」と返され、それ以上余計な言葉を継げなかったことを考えると、今は少し自分の中に思うところもあるわけで、それはそれ、ささやかな成長として喜ばしく受け止めよう。

    後半の陶芸に関する下りは司馬氏の著作「故郷忘じがたく候」を楽しんでいたが故に司馬氏のいつにない美術工芸に対する高ぶりの源がどこなのか、その秘密を押さえてしまっているような優越感を軽く抱きながら、これまた楽しく読ませてもらうことができた。

    滑ってしりもちをついても痛くないような、そんな苔に覆われた山中を時には歩いてみたいものだ。

  • 越前の旅、中世から近世への旅

  • この本はよかったわー。越の国いきたいわー。
    出雲、天橋立などあるように日本海は大陸との関係
    や雪による豊潤な大地、文化の形成は素晴らしいわー。
    いきてー。

    永平寺、宝慶寺、越前大野城、丸岡城、白山神社
    古越前、継体天皇など本当に文化豊か!!

  • 司馬遼太郎の訪れた宝慶寺、僕は本をたよりに行き着くことができた。 
    夏なのに杉の木に覆われた参道がところどころ濡れていた。
    もちろん僕以外に訪れている者はいなかった。 
    今DVD「街道をゆく」を見てなつかしく思い出した

  • 福井県(越前)は東京から遠く、関東人にとってはイメージが湧きにくい県の一つである。けれども、本書を読んでみて、その京都(畿内)からの微妙な距離感のために、歴史的に興味深い土地であることに気付かされた。越前は、古代、「越」(こし、元来は蝦夷の一種族を指す言葉であったらしい)と呼ばれた地域の中で他を圧して先進的であったという。

    福井といえば永平寺が有名だが、司馬さんはそんなところには目もくれない。というか、「永平寺に近づくと、客を吐き出したバスが多くうずくまっていて、さらにゆくと、団体客で路上も林間も鳴るようであり、おそれをなして門前から退却してしま」うのである。代わりに司馬さんが訪れるのは、大野の山中にある宝慶寺だ。道元の弟子である中国僧、寂円は、永平寺の俗化に反対し、ひたすら道元の風を慕ってこの宝慶寺を建てたという。

    司馬さんはまた、白山神社・平泉寺を訪ねる。古来より、越の人々は白山に対する信仰があった。その土着の神は、仏教という先進的な思想と混じり合って、「白山権現」となった。「本地垂迹」(ほんじすいじゃく)である。中世、ここは悪党の巣窟だったというが、その時代の歴史に疎いのでどうもイメージが湧かない。白山に登りに行くときに、訪れてみたいものである。

    福井市は盆地にあり、丹生(にゅう)山地という600メートル級の山々によって日本海から隔てられている。「丹生」とは砂鉄を含んだ赤い土のことで、朝鮮半島からやって来た製鉄集団がここに住み着いた。彼らはまた、窯を使う須恵器を持ち込み、それが弥生式土器に取って代わることになる。秀吉の朝鮮侵略の際、多くの朝鮮陶工を連れ帰ったことにより日本陶芸が成立することになるが、ここ丹生山地だけはそのような技術革新の波から取り残され、「古越前」として後世に受け継がれたという。

    意味不明な雲の表紙がなくなって、以前のような写真の表紙が復活したのは喜ばしい。しかし、巻頭の地図がごちゃごちゃして見にくいのは致命的である。須田画伯の手による、味のある地図に戻して欲しいものだ。

  • 20110805読了

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著者プロフィール

司馬遼太郎(1923-1996)小説家。作家。評論家。大阪市生れ。大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960(昭和35)年、『梟の城』で直木賞受賞。以後、歴史小説を次々に発表。1966年に『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞受賞。ほかの受賞作も多数。1993(平成5)年に文化勲章受章。“司馬史観”とよばれ独自の歴史の見方が大きな影響を及ぼした。『街道をゆく』の連載半ばで急逝。享年72。『司馬遼太郎全集』(全68巻)がある。

「2020年 『シベリア記 遙かなる旅の原点』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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