街道をゆく 32 阿波紀行、紀ノ川流域 (朝日文庫 し 1-88)

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  • Amazon.co.jp ・本 (274ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784022644862

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  • 以下引用~
    新政府がその裁きとして、稲田の家臣団を北海道に移したことはすでにのべた。(徳島の稲田騒動。阿波蜂須賀氏との対立)

    この脇町を脱出した小野五平にとって、目的は政治ではなく、将棋だった。
    当時、将棋界には弊風がつもっていたが、かれは実力と努力でこれを改革しようとした。
    柔術を改革して柔道をつくりあげた嘉納治五郎は阿波の対岸の大阪湾岸の人だったし、また俳句短歌を改革したのは、阿波のとなりの伊予の人正岡子規だった。かれらがいなければ、将棋、柔道、俳句といったものは、こんにち衰弱していたかもしれない。

    豊臣政権というのは、名子制を廃止したという点で、革命政権だった。当時、それに反対する地侍(名子の親方)による一揆が各地でおこった。豊臣政権はいちいちそれらを攻めつぶし、地侍を城下によんで大名の家臣にするか、あるいは在地のまま農民身分におとすか、どちらかにした。名子については土地をあたえ、自作農にした。豊臣政権は、ひとことでいえば、自作農設定政権、だったといっていい。徳川政権が、それをひきついだ。

    根来寺は、全国に情報網をもっていた。たとえば、1543年、薩摩の南にうかぶ種子島に鉄砲が伝来したときくや、すぐ人を出すという機敏さは、容易なことではない。
    鉄砲伝来譚には、かならず根来寺が出てくる。
    その後、根来衆は、戦国大名にさきがけて鉄砲をもって武装し、後年、豊臣秀頼によって堂塔・行人ともにほろぼされるまで、抜きん出た鉄砲集団として四方からおそれられていた。

    どうも、日本の大寺は、当時のヨーロッパ風にいえば、大学にあたるらしい。二和寺は真言学の単科であり、興福寺も東大寺も、仏教古典学の大学であった。

    信長は、中世的な不合理なもの、説明しようのない怪態が、政治や経済、あるいは軍事を握っていることを、身震いするほどきらった。このため比叡山延暦寺を焼きはらった。

    根来塗の赤は、似たようなものがないといえるほどに美しい。本来、赤というのははげしく主張する色である。が、根来塗の赤は、主張や執着というどぎつさを去ってしまったもので、こういう色はまれに天然のなかに見る。たとえば残照の雲間にふとあらわれてつぎの瞬間に消えるかもしれない赤である。

著者プロフィール

司馬遼太郎(1923-1996)小説家。作家。評論家。大阪市生れ。大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960(昭和35)年、『梟の城』で直木賞受賞。以後、歴史小説を次々に発表。1966年に『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞受賞。ほかの受賞作も多数。1993(平成5)年に文化勲章受章。“司馬史観”とよばれ独自の歴史の見方が大きな影響を及ぼした。『街道をゆく』の連載半ばで急逝。享年72。『司馬遼太郎全集』(全68巻)がある。

「2020年 『シベリア記 遙かなる旅の原点』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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