新書594 丘の上のバカ (朝日新書)

著者 :
  • 朝日新聞出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784022736949

感想・レビュー・書評

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  • 大切です。こういう時代だからこそ。読みやすい。

  • ただひとりの人間としての意見を考え続けられる人間でありたい。
    それが民主主義にとっては重要なことであるから。
    それ以前に、そういう人の言葉は人に届くから。

  • 2017年?冊目(途中から数えていない)「丘の上のバカ ぼくらの民主主義なんだぜ2」読了。

    著者の高橋源一郎さんは、以前読んだ内田樹さんの書籍にとても面白い文章を掲載されていた方だったので、気になって読んでみた。本書もそのとき読んだ内容と同様、とても面白かった。他の方の引用も多く、興味が持てる。中でも政治批判がとても痛快だった。読み終わって感じるのは、著者は常に自分の中にある違和感と向き合っているということ。人間なかなかそういうものに深く剣に向き合うことはできないなと。

    (以下抜粋)
    「政治って私たちが参加できるものなの?」という問いに、木村は「まず考えることが政治にかかわるということ」と答え、「18歳からの選挙権、何をすればいいの?」という問いには、「自分をしっかり確立し、意見の異なる他者と共存する準備」をするよう呼びかける。その木村の誘いへの、女の子たちの応答の柔らかさが素敵だった。

    大人たちがやっきになって、なにか教えこもうとしても、子どもたちは聞く耳を持たない。なぜなら、この世の中には、もっと楽しいことがあって、それは「授業が終わった後」、「学校の外」に存在していることを、彼らはよく知っているからである。この、大人によって教えることのできない、子どもたちの性質を、鶴見俊輔さんは「教育をはじきかえす野生の力」と呼んだのである。

    アーシュラ・クローバー・ル=グインは、少数派のことを「左きき」と言いかえてみた。確かに、わたしたちの世界は「右きき」の人たちに適するようにできていて、同時に、それが当然のことになっていて、わたしたちは、「左きき」の人たちが、どんな風に不自由を感じているか知らないのである。だから、少数派は、いつも不安だ。けれども、少数派は、多数派の知らないことを知っている。諷刺漫画家は、いつも世界を歪めて描く。でも、彼らは、わざと歪めて描くのではない。世界はもともと歪んでいることを(少数派にとって、多数派が作る世界は歪んで見えるのだ)知っていて、それをそのまま描いているのだけなのだ。

  • レビュー省略

  • 公開謝罪、自主規制、空気と暗黙のルール。。。民主主義(デモクラシー、民衆による支配)には、本質的に愚かしさがある。民衆の気持ちは移ろいやすく、事柄の成否を本当には判断できない。本来、政治とは公の議論である。紀元前、ギリシアのプニュクスの丘の上では数千のアテナイ市民が論じ合った。

  • 昨年発売された「ぼくらの民主主義なんだぜ」の続編、朝日新聞の論壇時評で書かれたものとその他雑誌などで発表された文章に加筆・修正されたものがまとめられています。

    前作に続けて、たくさんのメッセージが読者に投げかけられていました。
    中でも僕が印象に残ったのは、「オバマさんのことば」。昨年、5月ヒロシマを訪れた際のオバマ演説を聞いてひっかりを感じた高橋さんが、演説の中で使われた「私」という言葉の回数を数えた(私たち…75個、私…4個)ところから内容に関する分析をおこなったところ(「私(オバマ氏)は思う」と触れられたのはたった1か所だけ)。政治で使われる「私たち」は、抽象的な囁きで「私」を見失わせていくという指摘はとても考えさせられました。「私たち」といった瞬間にそこに入らないと感じる人たちをつくり、また無意識の内に作り分けてしまう面があることは、社会運動においてもきちんと考えておかないといけないですね。

    障害者運動は、権利条約の策定過程で使われた「Nothing About Us Without Us」(私たちぬきに私たちのことを決めないで)ということをこの間の運動のスローガンにしてきましたが、そのことの意味を深く考えたいと思いました。

    「オバマさんのことば」と対比する形で、本では「美智子妃のことば」が取り上げられています。ほとんど触れたことのなかった僕としては、その内容もとても印象的でした。

    ぜひたくさんの人に読んでほしい一冊です。

  • 朝日新聞の論壇時評として定期的に掲載された文章を載せた『ぼくらの民主主義なんだぜ』の続編になる。第一部は、同じく論壇時評を収めたものになっている。第二部と第三部も、雑誌などで既出したものを集めているが、読んだ感覚からもそうだとわかるように大幅に書き直されたものであるという。

    朝日新聞に掲載された論壇時評をほぼそのまま載せた第一部は、正直に言うと高橋さんのものとしては少し期待外れではあった。新聞向けに書かれた文章というものは、そこに置かれてこそフィットするものであり、単行本に収められたときには、どこか収まりが悪いように感じられた。内容には、高橋さん自身が震災のために卒業式が中止になった卒業生に贈ったことば、大岡昇平の『野火』、パリのテロに対する「憎しみはあげない」のメッセージ、ノーベル賞を受賞したスベトラーナ・アレクシェイビッチ、SMAPの謝罪会見、森達也監督のドキュメンタリ『FAKE』などが取り上げられていて興味はそそる。ただ、字数の制限もあるのか、高橋さんのいつもの深みが感じ取れないようにも思えた。おそらく、高橋さんに対する期待が高いからだということもあるのだろう。

    そのことを考えると、第二部と第三部は、朝日新聞に書いた論壇時評の長い補足でもあったように思う。その並びも丁寧に考えられたもののように感じた。そして、論壇時評を書くことで高橋さん自身が影響を受けたことを示すものでもあったのだと思う。特に第三部は、高橋さん自身の告白であり、これまで高橋さんが書くことがなかったようなことばが書かれていると感じた。

    第二部は、「彼と彼女と彼らのことば」と題され、安倍さん(とお友だち)のことば、オバマさんのことば、美智子妃のことば、が並べられる。安倍さんとそのお友だちの百田さんのことばについては、断定的な彼らのことばに複雑さの排除とそれがゆえの浅さを見る。他者のことばに対して耳をふさぐことの危うさをユーモアを交えて指摘する。
    一方、オバマさんについては、広島訪問時のスピーチを引用して、そこに「私たち」の多用、すなわち「私」の不在のことば、を見つける。わたしは、単にそれを歴史と現状を踏まえたとても素晴らしいスピーチだと感じたのだが、それはわたしの「ことば」に対する感度の低下と「考えること」が欠けていたのではないかと思った。「私たち」は、「私」に比べて抽象的である。「私たち」を使うことで、ほんとうはだれのことを指しているかわからないことばになる。また、「私たち」という言葉の中には、そこに属さない「やつら」を無意識に置いてしまうことで「やつら」の排除を含意することもある。高橋さんはオバマさんの「私たち」に政治的なにおいを感じ、このスピーチ以外でも「私たち」が使われることに違和感を覚えるのだ。
    そして、両者のことばと対比するように意外にも美智子妃のことばを取り上げる。美智子妃の文章には明確な「私」がいる。政治的な立場でことばの自由を縛られた立場の中で発したことばの中において「複雑」な世界の「複雑さ」を表現している様について感嘆する。そこに辿り着いた道のりを高橋さんは知りたいという。高橋さんは「文学」を「複雑なものを複雑なまま理解しようとする試み」であり、「最初から最後まで、その対象と共感しようとする試み」であるという。なぜなら人間とは複雑なものだからだ。高橋さんは「文学」を通してずっと「複雑さ」の表現を求めてきた。高橋さんにとってはそれは守られなければならない価値でもあったし、「文学」にこだわる高橋さんの姿勢でもあった。民主主義をテーマに掲げる本で、その仕組みの中で選ばれた安倍さんやオバマさんのことばに「複雑さ」を壊すことば見て、自らの意志によらず置かれた政治的な立場の中で語る美智子妃のことばに高橋さんが大切にする「複雑さ」の表現が同じように大切にされる様を見る。そのことについても考えることが大切なことなのかもしれない。

    第三部は、この本のタイトルと同じ「丘の上のバカ」と題されている。「もっと「速さ」を」「死者と生きる未来」「丘の上のバカ」と並ぶこの第三部では「正しさ」について書かれている。「正しさ」のもつ暴力性について、そして「正しさ」を避けて、誤ることを恐れるあまりに政治とずいぶんと長い間距離を取ってきた高橋さん自身について。
    「もっと「速さ」を」の章は、「反知性主義」について書いてほしいといわれて書けなくなったということから始まる。高橋さんは、レッテルを貼って批判するということについて抵抗する。反知性主義に対する批判には、こちらは「知性」であなたは「反知性」というレッテルを貼ることになるのだけれども、それが自分に向かってブーメランのように飛んでくる。そして「知性」について考えることになる。一方「だれかがなにかを書いていて、ああ素敵だ、と思えるときがある。...そこに「知性」(の働き)があるからではないか、と思えることが多い」と書く。鶴見俊輔さんが小学生の息子に「自殺をしてもいいのか」と聞かれたときのことば、アメリカ人風刺漫画家ロバート・クラムの「シャルリー・エブド」がイスラム原理主義のテロにあったときのことば(というか漫画)、スーザン・ソンタグの9.11直後に書かれたことば、を挙げる。そこでは「知性」が「深さ」だけではなく「速さ」もときに必要であることを示している。そこに、「知性」を責任をもって引き受ける人の姿勢を見る。知性的であることは、ときに少数派の立場に立つことだともいう。
    「死者と生きる未来」では、高橋さんの告白が行われる。20代の終わりの頃に女衒のようなことをやっていて、高橋さんが客に送り届けた高校生の女の子が売春後の車中、目の前で剃刀で手首を切ったのを見た。それを見て、迷惑だとは思ったけれども、その女の子に同情していなかった。「自分とは関係のないことだ」というのが正直な気持ちだった。どちらかというと彼女を憎んでもいたという。父や母の死も高橋さんの心を動かさなかった。世界の悲惨や日本が戦時に犯した罪についても何とも思わなかったという。しかし、子どもと一緒に鏡に映る自分の姿に父の姿を見たことをきっけかにして、彼ら/彼女らのことを思い出した。彼らから見られていると感じたという。「慰霊とは、彼らの視線を感じること」だといい、過去から見られていると感じることに対して逆に自分も未来を見つめたいと思ったという。
    最後に置かれた「丘の上のバカ」でも、高橋さん自身の経験が書かれている。「丘の上のバカ」とは高橋さん自身のことでもある。高橋さんはよく知られているとおりベトナム反戦運動を含む学生運動にのめり込んだ。そのときに周りから受けたことばの中に「正しさ」とともにある「侮蔑」「軽蔑」「嘲り」「悪意」を感じていたという。「正しさ」に対してその通りだとも思うとともに、その「正しさ」はどこから来るものなのかといぶかった。そして、その「正しさ」が何も生み出さない類のものではないのかと思い落胆した。同時に連合赤軍が世間から「バカ」とののしられるのを見て、彼らを「バカ」だと断言できる自信がない自分を見つけた。そして、次のように思うに至った。

    「政治や社会について論じるとき、考えるとき、中立ではいられない。わたしたちは、みんな、なんらかの立場から考え、論じる。そのことが、わたしには耐えられなかったからかもしれない。
    そのとき、わたしが立つであろう立場、それがどんな立場であろうと、それを「正しい」と考えることが、わたしにはひどく難しかった」

    そして高橋さんは「文学」の世界に行くことになった。「文学」の世界には「正しい」文学など存在しないからだ。ただ、そのことについて、高橋さんは間違うことを恐れていたからなのかもしれないと告白する。「文学の世界に閉じこもっているなら、間違える心配はなかった。その世界で価値をもつ「自由」という名前の小さな「正しさ」にひきこもっていることさえできるなら」。それは、別の形で、当時の高橋さんが嫌悪した「正しさ」を大切にしていた人たちと同じではないかと思ったという。朝日新聞の論壇時評を担当することがどれほど影響したのかはわからないが、政治や社会について論じることは、高橋さんの考え方にも影響を与えることになった。誤りが生まれることを恐れてはなにも語ることができないからだ。

    高橋さんは語られる内容もさることながら、語られる姿勢がいちばん大切なものだと感じることになった。スーザン・ソンタグの語る姿勢が、語る内容にもまして高橋さんは好ましいと感じる。「知性」に「速さ」がときに重要になると語ったパートをこの第三部においたのはそれが理由だと思う。

    最後に、ギリシアでの民主主義の誕生について語った後、安保関連法案が参議院で採択された夜の国会議事堂前のデモを少し離れて見ていた高橋さんは、そのときの様子を思い出しながら、こう書く。
    「考えること。考え続けること。その大切さを深く自分自身に刻みつけた上で、ときに、考えることが、行動することの妨げになるなら、考えることを中断してなにかをすることを恐れないこと…いや、そんな難しいことが、わたしにできるだろうか」

    高橋さんはあとがきで「このような本が書かれることは、もうないかもしれない」と書く。Twitterでも高橋さんは次のようにつぶやいた。「新しい本が出ました。「丘の上のバカ」というタイトルです。「ぼくらの民主主義なんだぜ」の続編ということになります。そこでは書けなかったことも踏み込んで書くことができました。満足しています。「民主主義」をテーマにする本は、これが最後になると思います」
    https://twitter.com/takagengen/status/797761691563896838
    このように書くのは、「死者と生きる未来」と「丘の上のバカ」の章を書くことができたからなのかもしれない。


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    『ぼくらの民主主義なんだぜ』のレビュー
    http://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4022736143
    本書の中でもあらためて触れられた叔父が亡くなったルソン島。論壇時評のスピンオフ小説として、戦争小説を一本書いてみようと思っているとこちらでは書いている。準備はどうなっているんだろう。早く読みたい。

  • 政治に「専門家」なんて必要あるのか?
    ホントは政治家は「丘の上のバカ」でなくてはいけないのではないか?
    なぜ政治の専門家の親分が右向け右と言ったら、全員が右を向くような政治になってしまったのか? 私たちにも責任があるんだろうな、こんな政治を行なっているのに内閣支持率は高止まり。
    我々も政治的無関心の「専門家」になってしまっている。

  • 前作が素晴らしかったから、当然のごとく入手した続編。今回は、前回よりも引用が減っていて、その分、筆者の言葉が強く響いてくる。といっても、大声でただ主張している訳ではなく、どちらかというと控え目に、でも徹底的に思慮深く紡がれる言葉の数々は、いちいちが瞠目に値する。タイトルも、最初は”何のこっちゃ?”って思ったけど、民主主義の本質を表すものだったんですね。って、そういう一面的な理解を、恐らく筆者は望まないのでしょうけど。

  • 『ぼくらの民主主義なんだぜ』の続編。
    前作は新聞の論壇で書かれたものを集めたものなので正直字数制限から踏み込んだ議論ができていないように感じたが、今回はその連載の残りのぶんに加えて様々な媒体に書いた長めの論考も収められており、読み応えがある。
    相変わらずの引用の手つきといい、最近ちょっとついていけないなあと感じていたけれど、この人はやっぱり「自分の言葉」をしっかり持ってる人なのだなあと痛感。

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著者プロフィール

作家・元明治学院大学教授

「2020年 『弱さの研究ー弱さで読み解くコロナの時代』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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