一億三千万人のための『歎異抄』 (朝日新書935)

  • 朝日新聞出版 (2023年11月13日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (224ページ) / ISBN・EAN: 9784022952394

作品紹介・あらすじ

今まで誰も読んだことがない みずみずしい「ぼくたちのことば」になった『歎異抄』 それは親鸞の『君たちはどう生きるか』だった*戦乱と飢餓と天災の中世に生まれ、何百年も人びとを魅了しつづけてきた、日本でいちばん有名な宗教の本『歎異抄』が、再び巡って来た混沌の時代に、まったく新しい、一億三千万人のための「今のことば」になって蘇る。「他力本願」「悪人正機」「地獄こそ我がすみか」ってなんだ!*釈徹宗先生推薦! 浄土真宗本願寺派・如来寺住職、相愛大学学長『歎異抄』ワールドに、新しい風が吹いた。これまで『歎異抄』を何度読んでもピンと来なかった人は、とくに本書を手に取ってほしい。*「目次」からその二 ジゴクこそわたしにふさわしい場所その三 悪人だからこそゴクラクに行けるんだその九 ぼくは告白したその十三 「人を千人殺してみろ」と「あの方」はいったその十四 みんなを救う、ひとりも捨てないその十五 アミダの「ホンガン」という「船」に乗り、ぼくらの     「苦海」を渡り、いつかジョウドの岸辺にたどり着く*宗教ってなんだ(『歎異抄』(タンニショウ)を「翻訳」しながら考えたこと)ネンブツと文学/ただひとりのために/正しそうなものには気をつけろ

みんなの感想まとめ

深い哲学と人間の本質に迫る内容が特徴の一冊で、親鸞の思想を現代の言葉でわかりやすく解説しています。著者は、老若男女を問わず誰でも理解できるように工夫し、阿弥陀の慈悲や他力本願の重要性を強調。読者は「悪...

感想・レビュー・書評

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  • 老若男女を問わず歎異抄を一通り理解できる。その著者の目的は達成できていると思う。親鸞の言葉が異なって受け取られていることに歎く言葉。
    阿弥陀の大きな慈悲を信じること。それに尽きるのでは。

  • 阿弥陀とは待つ人なのかも知れないね。自然、他力、念仏。全ての人を救うと誓い、ただただ待つ人。いつでもそこにいてくれる人。
    我々や他の誰かではなく、私のため。誰にとっても私のため。それに違いなどないし嫉妬したり僻んだりするのもおかしな話。でもそう思ってしまうのもほんと。
    「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
    我々は、常に既に、ひとりかも知れない。でもだからこそ、他人がいることの有難さが在る。
    読んでいたら、あとがきでドストエフスキーと文学、ことばについて。
    最近考えていた、仏教学、仏教教育とは何か、ということ。
    救われるとかそういうことを知ることではない。
    人生は苦しい、というそのことだけかも知れない。
    加えて太宰治が!
    「ひとへに親鸞一人がためなりけり」
    ある言葉に出会って「これは自分にしか分からない」と思うこと。
    個人として考えことばをつむぎことばを届ける。

  • 『歎異抄』(たんにしょう)は、鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書である。作者は、親鸞に師事した河和田の唯円とされる。書名は、親鸞滅後に浄土真宗の教団内に湧き上がった親鸞の真信に違う異義・異端を嘆いたものである。(Wikipedia)

    日本人は無宗教だとよく言われますが、私もその例にもれず、特定の宗教を信仰したりはしていないのですけども、それでも神社仏閣めぐりは大好きだし、何か人間の力を超越した存在があることはどこかで信じていて、ただそれは一神教の唯一絶対神ではなくもっと森羅万象にやどる汎神論だったり八百万の神がいてもいいっていう多神教的なものなんですけど、でも父が亡くなったときのお葬式は仏教式でやりました。一応、それを信仰というかは別として、我が家は浄土真宗(西本願寺派)です。

    では私自身、浄土真宗の教えを知っているかといわれると全く知らない。ただただなんとなく「南無阿弥陀仏」を唱えるだけ。宗祖である親鸞聖人についても全然知らない。天台宗の最澄、真言宗の空海についてはおかざき真里さんの漫画『阿・吽』で知ることができて、なるほどそこを知っていると、寺社めぐりをしていても解像度が変わる。じゃあやっぱ親鸞についても勉強したほうがいいかな、五木寛之でも読むかなと思っていたところ、高橋源一郎のこの本を思い出し、まずこちらを読むことに。

    …というわけで、こちらは高橋源一郎による『歎異抄』の超現代語訳。平易な文章でかみくだかれていてとても読みやすい。けど内容自体は理解できた、飲み込めたかといわれるとそう簡単にはいかず、巻末の高橋源一郎の解説込みで、うっすらわかったようなわからないような、という感じ。

    ”アミダが救うのは「おれ」ひとり”という章の親鸞の言葉について、太宰を読んだ現代の読者が自分のために書かれている!みたいに思うのと同じ、という話や、キリスト教の幼児洗礼問題=本人の信仰が芽生える前に洗礼を受けされるのはいかがなものか→洗礼は神側からの一方的な愛、という論争などが例えとしてわかりやすく、南無阿弥陀仏は、阿弥陀様側からの無償の愛、そしてそれとむきあうときは一対一なのだという部分はしっくりきました。

    いわゆる「他力本願」という言葉、現代日本では「他人の力をあてにして自分で頑張らないダメなやつ」というネガティブなニュアンスで使われることが多いと思うんですが、本来は「自力でなんとかしようなんておこがましい、他力=阿弥陀様が救ってくれるんだからおまかせするべき」みたいなニュアンスで、浄土真宗においては「そうあるべき良いこと」として設定されていたのが意外でした。


    <目次>
    その一 アミダのお誓い
    その二 ジゴクこそわたしにふさわしい場所
    その三 悪人だからこそゴクラクに行けるんだ
    その四 ジヒってなんだ
    その五 いくらネンブツをとなえても誰も救えない
    その六 ネンブツはアミダからの贈りものだ
    その七 ネンブツは自由だ
    その八 ネンブツは、「修行」でも「善行」でもない
    その九 ぼくは告白した
    その十 もしくは、ぼく自身のための序文
    その十一 アミダのお誓いの不思議な力
    その十二 信じてもいいし信じなくてもかまわない
    その十三 「人を千人殺してみろ」と「あの方」はいった
    その十四 みんなを救う、ひとりも捨てない
    その十五 アミダの「ホンガン」という「船」に乗り、ぼくらの「苦海」を渡り、いつかジョウドの岸辺にたどり着く
    その十六 ほんとうの「回心(エシン)」は生涯にただいちど
    その十七 ジョウドのかたすみに転生(テンショウ)したって大丈夫
    その十八 寄進やお布施なんか必要ない
    あとがき アミダが救うのは「おれ」ひとり
    あとがきのあとがき
    後に蓮如(レンニョ)によって書き加えられた注意書き

    宗教ってなんだ(『歎異抄(タンニショウ)』を「翻訳」しながら考えたこと)

  • 親鸞。
    学生時代に吉川英治の小説で読んで知った。
    のちには五木寛之の小説で読んだ。
    でも、親鸞の言葉を記した歎異抄を読むのは、初めてだ。

    「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」。
    他力本願。
    念仏。

    これらの言葉はもちろん小説を通して知っていた。
    でも、意味が分かっていたか、と言われれば、怪しいものだ。
    今回の高橋源一郎さんの訳を通して、改めて考えた。

    この新書にも、いや、歎異抄自身にもあるが、
    「意味もわからず念仏を唱えるだけで浄土に行けるなんて、おかしい!怠けてる」
    そう考える。多くの人はそう考える。
    努力もしないでいい思いができるわけがない、と。

    親鸞は違う。
    もっと深い。
    今回そこを考えた。
    努力したから、勉強したから、これだけやったからその引き換えに浄土に行けるだと?
    阿弥陀様はそんなもんじゃない。
    何を勘違いしてるんだ。
    お前がやったことはそんな偉いことじゃない。
    人間は無力だ。
    学があるやつが浄土に行けて、字も読めない者は行けないというのか。
    阿弥陀様は、浄土はそんなものではない。
    無心で念仏を唱えさえすれば、浄土に行きたい、と思いさえすれば、だれでも行ける。

    善行悪行も同じ。善行をしたから浄土に行けるのではない。
    善行も悪行も自分の意志だけではどうにもならないもの。
    阿弥陀様はそんなものは見ていない。

    唱えること、浄土に行きたいと思うことがすべてなのだ。

    人間は無力だからこそ他力本願で、念仏を唱える。
    無心だろうが、苦痛だと思おうが(親鸞自身そういってる)構わない。
    とにかく現世の苦しさ辛さから逃れたい、浄土に行きたい、と思うことが大事。
    その思う手段として念仏を唱えるのだ、と。

    ・・・高橋さんの訳を読みながら私なりに解釈したのは上記。

    そう、思えばいいんだったら念仏も唱えなくてもよさそうだけど、
    人間おろかだから、何かしないと違うことを考えちゃう。
    だから唱えて、祈るのだ。

    ・・・今の私にピンとこないのは、
    そうまでして浄土に行かなくてはいけないのか、ということ。
    これはわからない。
    今がそれだけつらい、苦しい、ということか。
    宗教なんてそういうものなのかもしれない。

    でも、私は私自身で生き方を考える。
    読書がその支えだ。





    1(アミダのお誓い;ジゴクこそわたしにふさわしい場所;悪人だからこそゴクラクに行けるんだ;ジヒってなんだ;いくらネンブツをとなえても誰も救えない;ネンブツはアミダからの贈りものだ;ネンブツは自由だ;ネンブツは、「修行」でも「善行」でもない;ぼくは告白した)
    2(もしくは、ぼく自身のための序文;アミダのお誓いの不思議な力;信じてもいいし信じなくてもかまわない;「人を千人殺してみろ」と「あの方」はいった;みんなを救う、ひとりも捨てない;アミダの「ホンガン」という「船」に乗り、ぼくらの「苦海」を渡り、いつかジョウドの岸辺にたどり着く;ほんとうの「回心(エシン)」は生涯にただいちど
    ジョウドのかたすみに転生(テンショウ)したって大丈夫
    寄進やお布施なんか必要ない)

    その二 ジゴクこそわたしにふさわしい場所その三 悪人だからこそゴクラクに行けるんだその九 ぼくは告白したその十三 「人を千人殺してみろ」と「あの方」はいったその十四 みんなを救う、ひとりも捨てないその十五 アミダの「ホンガン」という「船」に乗り、ぼくらの     「苦海」を渡り、いつかジョウドの岸辺にたどり着く*宗教ってなんだ(『歎異抄』(タンニショウ)を「翻訳」しながら考えたこと)ネンブツと文学/ただひとりのために/正しそうなものには気をつけろ

    宗教ってなんだ(『歎異抄(タンニショウ)』を「翻訳」しながら考えたこと)

  • 凄く深くて、簡単に感想なんか書けないな…
    でも、無人島に持って行くならこの一冊とされる歎異抄、原文で読むことはまず無理だろうなと思うから、この高橋さんの意訳でまずは読めて、良かったなと思う。

  • 法然展がきっかけで「法然の編集力」を読み、次は親鸞の歎異抄へ。高橋源一郎さんによる現代語訳(きわめて平易な言葉で)。もともとが貧困や飢饉にあえぐ庶民に向けた歎異抄だから、こういう語り口調は合うと思う。とにもかくにも、歎異抄全体に触れることはできた。

  •  藤井さん。将棋界の藤井聡太さんではない。法然と親鸞の罪人名は藤井善信と藤井元彦。なぜ藤井姓なのかは謎である。そんな元彦さん(親鸞)の教えを唯円が書き残した「歎異抄」をわかりやすく解説した高橋源一郎さんの『一億三千万人のための「歎異抄」』。「南無阿弥陀仏…」と唱えるだけで何人も浄土に往生できるという安易さに個人的に疑問を抱いていたところ、著者は「ことばとこころの関係ではいつでもことばが先行する」と述べ、納得。確かに思いもしないことが口に出たりする。ことばが先行、まずは唱えよう!

  • たまたま書店でみつけ、高橋源一郎さんの本と知り中を確認することもせずに買ったがいまいちだった。

    メモ:
    1)その12 信じてもいいし信じなくてもかまわない
    「その人はアミダのおしえとは縁がなかったのだ。」
    仏縁なきと投げ出すような訳はいままで読んだことが無かった。ここは経典やその注釈書を読んでもその教えの意味が分からんひとは・・・という前段があるのだが・・・うん、どうなんだろう。

    2)宗教ってなんだ(P158くらい)の岡田利規の段は必要だろうか?ここの意味がよくわからない。モノカキの賢しい部分が表出してしまった?

    3)宗教ってなんだ(P162くらい)の菩提心を語る段において、普通のひとが経典にたやすく触れることがでない、そしてそれらを深く理解し生活していない現実を述べる。普通のひとはただ日常の生活の苦しみから逃れるために、ジョウドへの憧憬を抱くのみでその心に菩提心などなく、よってその念仏は菩提心から発せられるものではない。ただ「つらい」があるだけ、菩提心や慈悲心すら贅沢品だとものべる文章は学びになった。日々のことで精一杯の現代人にとって、宗教はますます意味を成すものになるのではないか?と思えるものだった。

    しりあがり寿氏の絵はやはり味がある。すばらしい。

  • 高橋源一郎氏による歎異抄の現代語訳とその解説。
    とても分かりやすい口語で翻訳していたため、歎異抄の内容がよく理解できました。
    この本を読むまでは、歴史の授業などで登場する『歎異抄』という書物の名前と「他力本願」、「悪人正機」という用語を何となく知ってるだけでした。
    何となくの理解から何となく抜け出したいと思い、この本を手にしました。
    無宗教な私ですが、今よりも生きることがはるかに厳しい時代に、人地を超えた何かに救済を求めた当時の人たちの想いの一端を感じ取ることができました。

  • これはかなり、「小説家高橋源一郎の歎異抄」だ。ここで「シンラン」の一人称は「オレ」だ。そして、「ユイエン」にすごく共感して読めるようになっている。
    だからこそ大変面白い。

  • 言葉は理解できた。でも気持ちはまだ追いついていない。また読もうと思う。

  • ずっと気になっていた歎異抄
    読めてよかった。
    親鸞さんの教え、なるほどなって思いました。

  • ふむ

  • 解釈しようと読んだものの、あまり入ってこなかった。しばらくおいてから再読予定。

  • 善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや
    で知られる歎異抄。この言葉の意味、わかるようでやっぱりよくわからない。
    ただ、この本のおかげで少しはわかった気がするし、そもそもわからなくてもよい気がする。この本に出てくる親鸞は、穏やかに、そういうことではないんだよと言ってくれそうです。

    ー「シンラン」にはわかったのだ。「ふつうの人」のこころの中にはそんなものはないのだということが。「念ずるこころ」も「菩提心」も「慈悲心」も、「ふつうの人」にとっては贅沢品なのだということが。そんなものよりもっと単純で、もっと根本的なものが、そこにはあるのだ。ただ「つらい」があるだけだ。「死んだら楽になれるのかなあ」という淡い思いがあるだけだ。

    上記の解説から、浄土真宗が民衆に広まった理由がよくわかる。やさしくやさしく書かれていて、宗教って本当はとびきり人間に優しいものなのかもと思えるような内容だった。

  • 『歎異抄』本文訳は簡潔な文章で、小学生にも読めそう。
    だが、その分だけ大人には難しくなってしまっているかもしれない。
    後書きが面白かった。

  • 歎異抄は読んだことがあるがこれは平易な、しかも切実な言葉で訳されていて肚に落ちる。いろんな分野に博識な筆者だが親鸞の理解力に脱帽。

  • 結局人間は一人で生きて死んでいくしかないのだ。

  • 文化人×仏教ものは回避がちなのだけど周囲の評判がよかったので読んでみた。
    これはすごくいい。高橋氏が『歎異抄』を自分のことばで現代語訳をしている。これは高橋氏の読み方、受け取りなのだ。それを自分が読みながら、自分の読み方、受け取り方を確認していくような、ここは一緒だな、似ているな、違うなと対話していくような読書経験ができる。
    「あとがきのあとがき」、「名前を呼ぶこと」がこの本の意図をしっかり語ってくれている。高橋氏ならではの文学、演劇からのことばのうけとめはとてもよかった。
    これを教科書的に正しい一つとして読むと言うのではない。あくまでも『歎異抄』を読んだひとりの人間の受け取りを聞くのだ。
    ”できうるなら、みなさんも自ら「翻訳」することで、『歎異抄』ではなく、みなさんひとりだけの『タンニショウ』に出会えるといいと思う。あらゆる本は、いや人間が作る者はすべて、そのように「一対一」の関係の中で出会うべきものなのだから。”
    『歎異抄』を知らない方が初見で良さを分かるよさはことばの魅力中心かもしれない。そして高橋氏の出会った「フジイクン」を感じるのだろう。高橋氏もあくまで自分は宗教的な見方でこれを書いているのではないとされている。
    親鸞聖人の教え、真宗になじみのある方は一層感じるところが深くあるだろうと思う。おすすめ。

  • 親鸞が現代にいたらこう話すのだろうと思うくらいわかりやすく書かれている。
    ただ平易な言葉だからこそやっぱり解釈が人によって変わってしまうのは当時も今も同じかと思う。
    作者があとがきで解説したくなってしまう気持ちがすごく理解できる。

    悪人正機の私の理解。
    世の中には良いことを言う人、良いことをする人がいてみんなから尊敬されている。
    そして多くの人がそうなりたいと願い、そうしようと努力する。
    それではダメだ、むしろ害になると喝破したのが親鸞。

    良い事悪いことなんて人間にわかるわけがないし、仮にわかったとしてもみんなに対して良いことなんてできるはずがない。人間なんて弱い存在=悪人だと認める事こそが唯一の救われる方法なのだと。、

    この立場に立つと人を非難する事も憎む事も少なくなり、
    そして自分が被害者、相手が加害者という視点もなくなる。
    ウクライナやイスラエルの現状を見ていても親鸞の思想があればと思ってしまう。

    ただ唯円が嘆いたことが現実になり、日本の浄土真宗は親鸞の教えとは異なる教団になってしまっていて人を救う力はなくなっているのかもしれない。

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著者プロフィール

作家・元明治学院大学教授

「2020年 『弱さの研究ー弱さで読み解くコロナの時代』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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