- Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
- / ISBN・EAN: 9784040822846
作品紹介・あらすじ
(目次)
第1章 「ヤングケアラー」とは
1.「ケア」とヤングケアラーという言葉が持つ多様さ
2.ヤングケアラーの定義
第2章 見えてきた日本のヤングケアラー
1.大阪府立高校における高校生調査
ケアをしている高校生はやはりいた/ケアが1日8時間/小学生の時からケア/抱え込む子どもたち
2.高校教員による認識との比較
教員も把握しているヤングケアラー/奇跡の調査
第3章 私が出会ったヤングケアラーたち
1.高齢化社会を反映する祖父母のケア
ひとりきりであることの不安、重責/ケア一色/孤独だった。さみしかった。/「息抜き」がわからない/学校では気絶するように寝てしまう/介護が終わっても罪悪感を背負う
2.精神疾患の親のケア
負担の大きい中学校での「お弁当作り」/愚痴を聞き続けたり、激しく叱責されたり/
3.障がいを有するきょうだいのケア
第4章 ヤングケアラーの語りを通してわかること
1.ヤングケアラーの担うケア
本人も周囲も気づきにくい/手伝いとはこれほどまでに違う
2.ヤングケアラーの価値と2つの理不尽さ
第4章 ヤングケアラーの生まれる社会的背景
1.少子高齢化を俯瞰する
激増する「ケアを要する人」/障害を有する人や精神疾患の人も増加
2.社会福祉における家族主義
ケアは家族がするもの? できるもの?/在宅福祉も家族が前提/増加する虐待/生活の困難さが世代間で連鎖する
終章 ヤングケアラー支援にむけて
1.支援のためにできること
地域で整えたい5つの支援/孤立の解消/学習支援と食事支援/小休止サービス/伴走者が必要だ
2.学校での理解や配慮、そして支援
3.福祉の専門職による支援
ヤングケアラーは資源ではない/「気づく」「つなげる」という役割
感想・レビュー・書評
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「子どものしんどさの背後には親のしんどさがある」
親世代が福祉の利用を知らないのか窓口で拒否されてるのか。
この辺りは詳しいコーディネーターが必要なんやと思います。
「他に選択肢を示せるか」は行政の役割やと思います。
「ケアを要する家族がいる場合のケアはしている行為そのものが特別なものでなくても「責任の重さ」が普通の手伝いとは異なる」
それはケアをしなかったら生活が回らない重さがあるということです。
こうさせてしまってる責任は行政にあると思います。
出来るだけ早くの対応が求められます。
「ひとり親家庭の生活の不安定さ
社会保障社会福祉制度の脆弱さ」
が指摘されてます。
ただ制度はあるんです。
利用するための情報が不足してるんやと思います。
少なくとも僕がホームページを調べても時系列に並んでないし見通しを立てるのは至難の業やとわかります。
「ケアによる生活困難の世代間連鎖」
子供の貧困で連鎖が生まれてます。
対応策として本書では
①孤立の解消
②学習支援
③生活支援
④レスパイト
⑤伴走者の必要性
を上げられてます。
特に使いにくい生活支援を重視する必要があります。
ひとり親家庭の日常生活支援事業でも一時的な利用しか認められません。
生活支援の担い手不足はひとり親家庭なら自明やと思います。
僕はあくまでも養育費を受け取って足りない部分を福祉が支援すべきと思います。
しかし
父親が養育費を払わない
母親が父親に子供を合わせたくないので没交渉にする
こんな親の無責任な状況が増えてる中で子供にだけ皺寄せを被らせるのは間違ってると思います。
やっぱり現実に合わせて福祉施策は進めざるを得ないんやと思います。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
昨年初めて「ヤングケアラー」という言葉を知った。
娘に兄弟の世話や家事を頼んでいる
うちの状況も含まれるのか?
家族役割・お手伝いとのちがいは?
など、多くの?があり、読んでみた。
研究がまだまだ進んでないことを明記した上で、
ヤングケアラーの定義と課題を示している内容だった。
質的量的双方の研究内容が書かれているが、
読みやすい。
また筆者の優しさも垣間見える文章だった。
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私がヤングケアラーという言葉を知ったのは2年くらい前のことだ。単に家族の介護やケアで自由時間がとれない、学校に通えないというだけでなく、人格形成にまで深刻な障害を生ずるということまでは考えなかった。孤立して様々なことを諦め、同年の友人と同じ体験がないということで、自己肯定感や充実感、自尊心が低くなりがちになり、家族のために働くのは当然のことだと思考が固定されてしまう。他人の家庭の事情に踏み込むのは簡単ではないから厄介だが、それにしても学校に来ないのに教師は生徒の苦境に気づかないものかなぁ?孤独は何より辛い
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ヤングケアラーの半数が誰にも話さずにいるという現状、そして友人には話していても、教員や専門職といった頼れる大人には話していない者が多いという事実は、今後の課題として認識する必要がある。
このような話をすると、私が親しくしている元ヤングケアラーに必ず注意を受ける。
「話をできたらいい、というものではないんです。話したときの相手の反応によっては、かえって傷ついたり、嫌な思いをすることがあるんです」
また、このように言った元ヤングケアラーもいた。
「戦略的に『話さない』という選択をとることがある。話さない方が自分のためになることがあるから」
すなわち、勉強や進路、部活、恋愛等に関する話をしていても、抱えている背景、勘案しなければならない事項が、他のクラスメイトたちとは少々異なってくる。そこには社会から白い目で見られるかもしれない、どんな反応が返ってくるかわからない、そんな底知れない不安を伴うような事柄も含まれている。実際に話したことで自分にとって不利に働いた、人が離れていったという経験を持つヤングケアラーたちもいる。
友也さんは、この高校3年生以降が一番つらかったと言っているが、それはケア負担だけが理由ではない。それよりもむしろ「ひとりきり」だったからだと言う。
ケア一色の生活とは、ひとりきりの生活の始まりであった。それまでは祖母がいて、母がいた。それぞれケアが必要だったが、それでも少しずつ助け合いながら、相談しながら生きてきた。
しかし、もはや自分だけでケアを担わなければならない。誰一人として相談できる相手はいない。頼れるきょうだいでもいればいいが、それもない。何かあってもその都度ひとりで判断しなければならない。「ひとりきり」の状況による負担がおおきかった。
「毎日……不安でいっぱいで……本当に、つらかったです」
さらにこのときの状況をこのようにも語った。
「世話が必要じゃない人が……自分しか、いなかった」
何とも言えない表現である。自分がケアをするしかない。頼れる人がいない、というケア役割の話だけではないだろう。
友也さんにとって家族は「ケアの対象」ではない。さまざまな苦難にも一緒に向き合い、時には楽しく笑い、固い絆で結ばれた、愛する家族である。その家族が少しずつ元気を失い、自分を残して変わっていく。深い悲しみ、喪失感、恐れが、そのセリフの根底にあるように私は感じた。それを分かち合える人もいない。この「ひとりきり」の感覚を、高校生の友也さんは「ひとりきり」で背負っていたのである。
ケアを担っていること、ケアを要する家族がいることは、決して可哀想なことではない。ただ、周囲の理解も社会的支援もなく、ひとりで負担と不利だけを背負わなければならない状況は、どう考えても「可哀想」である。たしかに、よくわかっていない他者に可哀想と言われることは心外である。
しかし、自分で自分の状況を客観視し、「可哀想だなぁ」と思うこと、自分を労わること、それが自分のせいでは決してないと理解することは必要なプロセスであると思う。その事実を受け入れることで、自分の価値を新たに発見、認識し、自分が抱える困難はさまざまな人と共有すべき社会の問題であるということに気付き、同じような状況にある子ども、若者たちのための社会的支援を考えられるようになるのではないだろうか。もちろん個人差はあると思うが。 -
確かに私自身もヤングケアラーという存在はしらなかったので興味をもって読んでみたけどこれは、ヤングに焦点を絞るべきか?と疑問に思う。
どちらかというと介護全般の問題であり、それのしわ寄せがヤング世代に押し寄せている。
成人男性でも介護で生活が崩壊している家庭はわんさかある。確かにヤング世代にしわ寄せがいくのはよろしくないがそれはどちらかというと虐待方面で助けるべきなのでは・・・と思わなくもない。
介護で学校の勉強ができないならもうそれは虐待になるのではと読んでいて思った。
ただまぁ、問題を問題と認識しないと話が進まないってのは確かに納得できる。
著者プロフィール
濱島淑惠の作品
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