- 本 ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784041019566
作品紹介・あらすじ
早く大人になりたい。一人ぼっちでも平気な大人になって、自由を手に入れる。そして新しい家族をつくる。勝手な大人に翻弄されたりせずに。若い母を姉と思って育った手毬の、60年にわたる家族と愛を描く。
感想・レビュー・書評
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隣家に暮らす七歳の少女。『欲しがる物は全て買い与え』られ、『食べたいといった時に食べたいだけ与えられ』ていたと甘やかされて育つそんな少女を見て、『世界の中心には自分がいると思い込んでいるに違いない』と思っていた少年。そんな少年は、ある時少女の母親が倒れているのを目撃します。今まで幸せの中に暮らしていた少女。そして、ほどなくして亡くなった母親の葬儀のあと、そんな少女は次のような言葉を少年に語りました。
『お母さんね、お母さんじゃなかったんだって。お父さんやお姉ちゃんが言うの。本当はお姉ちゃんがお母さんだったんだって』。
それぞれの家庭には外からは見えない内情を何かしら抱えているものです。外から幸せそうに見えていても実際の内情がどうであるかはわかりません。孫は可愛いと言います。躾という側面を意識する両親と違って、そんな意識が希薄になる分、愛情が形になって、ものになって届けられる、そういったことがあるのだと思います。両親が実は祖父母であり、姉こそが実母だったという場合、外からその子供が甘やかされすぎと映ってきたのは逆に自然なことなのかもしれません。しかし、姉が母親だったという衝撃的な事実を知らされて、七歳という少女が果たして理解できるものでしょうか?母親が急逝したと知るも、それが実は祖母であり、家を出て行った姉こそが実母だったという衝撃的な事実。しかし、その時こそ混乱の極みだったであろう少女も年齢を重ねるにつけ、その事実を理解して生きていきます。姉を母親として生きていくそれからの人生が始まります。
さて、ではそんな衝撃的な出来事を経た少女は果たしてその先どんな人生を送っていくのでしょうか?それは、家族でもなければ知ることはありません。また、その先に続く長いその後の人生を見るにはそれを見る自身の人生との兼ね合いも出てきます。そう、人の人生を他人が第三者的に見るということはなかなかに難しいものです。知りたいと興味を持っても容易に追いかけられるわけではありません。しかし、そんな難しい願いを叶えてくれる作品がここにあります。「落花流水」というこの作品。それは、姉だと思っていた人が実母だったと知らされ泣きわめく一人の少女の物語。そんな少女がその先に続く波瀾万丈の60年の人生をどんな風に生きたかを見ることのできる物語です。
『マリはスポイルされた子供だ』と、『僕の隣でスナックを頰張りながらテレビの画面に見入っている』少女を見るのはこの短編の視点の主であるマーティル。マリがお菓子をこぼしたのを注意したことのある『僕のママが用事でロスに帰ってから』、『学校が終わるとまっすぐ僕の家に来て』、『テレビの前に陣取る』ことが毎日の日課となったマリ。そんなマリのことを『可愛い』と思うマーティルに『ジョンはコーラ好き?』と訊くマリは、マーティルという発音が出来ずに、言いやすい犬の名前をマーティルに当てはめて呼びます。『今日のご飯、うな丼だから。じゃあ、あとでね』と帰ってしまったマリ。『僕が起きる前に会社に出掛け、眠った後に帰って来る』というパパとの二人暮らしのため、『毎晩夕食をマリの家で食べさせて』もらう日々を送っていたマーティル。『僕のようなブロンドで青い目の外国人にも、とても親切にしてくれる』、とマリの家に行くことを嫌がらないマーティルは、『まるで家族の一員のように』接してくれる彼らに感謝していました。『日本は悪くない。ずっといてもいい』と思うマーティルは、『両親のおかげで特に苦労することなく二カ国語が話せる』こともあって両親にも感謝しています。しかし、そんな両親は『だんだんと喧嘩ばかりするように』なり、ママはロスに帰ってしまったきりの今。そんなマーティルは『道端で拾った犬』を飼うようになりました。パパに訊くと『ザッシュ』と冷たく言われ『僕もジョンと同じザッシュだ』と思うマーティル。そんなある日いつものようにやってきたマリは『お姉ちゃんが一緒に暮らそうかって言うの』と言い出しました。みんなに一緒に暮らすのはダメと言われたというマリは一旦家に帰りましたが再び『ジョン、ジョン!お母さんが』としゃくりあげながらやってきました。そして、『日本の葬式を僕は初めて見た』と、マリのお母さんが急逝します。葬式が終わった家に行くと『ジョン、あたし分かんないの』と、しゃくりあげるマリは、『お母さんね、お母さんじゃなかったんだって』『本当はお姉ちゃんがお母さんだったんだって』と続けます。『それ、どういうこと?』と訊くも『だから分かんないって言ってるじゃないっ、ジョンのバカ!』と大声を出すマリを見て、『黙って帰るしかなかった』マーティル。一方で『ママとパパは離婚することになったの』というロスからの国際電話を受けたマーティルは悩みます。しかし『書類上、パパとママは結婚していない』ため、『僕もパパの息子ではない』と思うマーティルは、『僕が十二歳でなくて、もしマリが七歳でなければ、僕はマリを連れて、知っている人が誰もいない場所に自由に行けるのに』とも思います。現実を見据えたマーティルは、『犬はロスに連れて行けるだろうか』とジョンのことを思い、マリに貰ってもらおうと考え、マリの家へと赴きます。しかし、『手毬はもういないよ』と兄に言われ『実は僕、アメリカに帰ることになりました』と説明するマーティル。『手毬の母親は、僕の妹で君がお姉さんと呼んでた人だ。すごく若い時に間違って手毬を産んでしまって、僕の母親の籍に入れたんだ』と真実と住所を教えられたマーティルは手毬の元へと向かいます。そして、再開した二人。『僕、アメリカに帰るんだ。ジョンを貰ってくれない?』と訊くマーティルに、代わりに『ランドセルに付けてあった鈴と手鞠のキーホルダー』を贈るマリ。そして離れ離れになった二人の人生。当時七歳だった手毬のその後の60年が描かれる物語が始まりました。
「落花流水」とは、”落ちた花が水に従って流れる”ことを意味し、”物事の衰えゆくことのたとえ”でも使われる言葉だそうです。そんな言葉が示唆する通り、この作品では作品全体を通して主人公となる飯塚手毬の人生が描かれていきます。七つの短編が連作短編の形式を取るこの作品では、そんな手毬の他に四人の人物視点に短編ごとに切り替わりながら進んでいきます。そして、60年という長い時間に渡って描かれていくこの作品のスタート年として山本さんが選んだのは1967年。そこから、10年おきに視点と舞台が短編ごとに切り替わっていきます。ということは、最後の短編はなんと2027年!という未来世界。この作品は1999年に発表されています。つまり、未来は2027年だけでなく2017年、2007年という各時代さえ、山本さんが執筆された当時は未来世界であった、つまりこの作品はある意味でSF小説でもある!という予想外な一面を持つ作品でもあります。こういった長い年月の経過を描く物語では、その時代その時代を如何にリアルに表現できるかも一つのポイントです。そんな各時代の表現を見てみましょう。
・1967年: 『ママがいなければカラーテレビが見放題、アメリカ製の珍しいスナックも食べ放題』
・1977年: 『私以外のバイトの女の子は時給四百円をもらっているらしいが、私は高校生なので三百五十円だ』
・1987年: 『彼とは、伝言ダイヤルというので知り合った』『キミちゃんとこ。ファミコンするんだ』
・1997年: 『今時の子供は小学校に上がるともうコンピュータゲームができる』『バブルの崩壊後、父が会社の存続に命を賭けている』
(1999年「落花流水」刊行)
・2007年: 『ここ十年で円はじりじりと値を下げて、以前に比べて海外からの旅行者がずいぶん増えたらしい』
・2017年: 『今年はまた年賀葉書の売り上げが過去最高だった』『最新型のカーナビゲーション… スパイ映画みたいなもの… おじいちゃんがいつも身につけているお守りの中に、こっそり小さな発信機を入れた』
・2027年: 『最新のモバイル型の液晶電話には、若くはないがそう歳もいっていなそうな女性が映っていた』『その町と都心を結ぶリニアモーターカーの路線が建設中』
といった感じです。為替レート、電子機器、そして交通機関となかなか将来の有り様を言い当てることは難しいですが、執筆時点から30年後を大胆にも描こうとされた山本さんの取り組み自体はとても面白く、刊行当時リアルで読んだ方が再読で答え合わせをされるのも面白いのではないか、そんな風にも思いました。
そんな風に時代の移り変わりを見る楽しみのある一方で、そこに登場する人物は、残念ながら最初から最後まで視点が誰に移ろうが、”お近づきにはなりたくない”、そんな印象の人物ばかりです。一編目の登場時こそ、七歳という年相応の姿を見せた手毬、『可愛いな』という印象を十二歳だったマーティルが記憶に焼き付けてロスの母親の元へと帰っていく場面から始まる物語からは、その後の手毬の歩む人生をうかがうことは全くできません。最後の7編目で67歳と年老いた手毬の姿を見ると人生というものが短いようでいかに長いかも感じさせます。そんな物語は、
・1967年: マーティル
・1977年: 手毬
・1987年: 律子(手毬の実母)
・1997年: 手毬
・2007年: 正弘(手毬の義弟)
・2017年: 手毬
・2027年: 姫乃(手毬の実娘)
と視点が切り替わっていきます。『強く主張しなければ何も買ってもらえなかった。おなかが空いたと泣き叫ばなければ、母は私が空腹であることにすら気がつかなかった』という子供時代を過ごした手毬は、実母である律子が『私は浮気をすることにかけらも罪悪感がない』と、次から次へと男を乗り換えていく様を見ながら育ち、『損得以外のことで、何を根拠に他人を信用していいのか私はまったく知らなかった』という辛い時代を必死で生き抜きます。そんな手毬のある意味健気な生き方を見ると普通には手毬に感情移入したくなります。しかし、そんな手毬はまるで母親が乗り移ったかのような一面をどんどん垣間見せていきます。高校の担任に金を無心し『もちろん返す気なんかなかった』と考えるのは生活苦に喘ぐ状況からやむを得ないものと納得したとしても、そんな母親と同じように子供より男を志向していく手毬の人生を描く物語は、手毬に向いていた感情が一気に引いてしまうのを感じざるを得ません。しかし、手毬だけでなく、母親の律子は元より、十二歳の青い目をした好少年を感じさせたマーティル、そし手毬の実子である姫乃さえも”お近づきになりたくない”側面ばかり見せ、読者の感情移入を阻みます。そんな寄る術のない読書ほど、読者を不安に、もしくは不快にさせるものはありません。この物語は一体どこに着地するのだろう、となんとも不安定な気持ちの中での読書となりました。
そんな物語は、次第に手毬に起こり始める異変を断片的に描きながら進んでいきます。年齢が高くなり、また身近な人の中から先に逝く人が増えていく、年齢を重ねるということはそのことを日々実感することでもあると思います。そんな中で『私もいずれ死ぬ。そのあまりにも当たり前な事実を、父の死で私はやっと受け入れられるようになった』という手毬。その一方で、上記した異変が手毬の中で進行していく中で、物語は穏やかな側面を見せていきます。『昨日のことも明日のことも考えずに、自分が病気であるという自覚もなく、おだやかに日々を過ごせたらそれはむしろ幸せなことなんじゃないでしょうか』という手毬の晩年。まさに波瀾万丈とも言える手毬の人生だからこそ、それは余計に穏やかさを感じさせるものだったのかもしれません。
『根拠など何もないのに、いつかはいい仕事にありついて、いい人と結婚して幸せな家庭をもって、望んだ通りの生涯を送れるものと何故思っているのだろう』。
私たちは生きていく中で少しでも良い未来を見たいと思いながら生きています。また、根拠がなくとも幸せな未来を生きていると信じることは生きることの支えでもあります。しかし、そんな一種パターン化された人生を全員が送れるわけではありません。それぞれの家庭が置かれた環境は異なります。それぞれの人間が育つ環境も異なります。そして、それぞれの人生は当然に一様ではありません。この作品では『幸せを感じたり不幸だと嘆いたり、いろいろな感情にしたがって生きて』きた手毬の60年の波瀾万丈な人生を見ることができました。
” 物事の衰えゆくことのたとえ”を表す「落花流水」という書名を冠したこの作品。読み終えて、幸せな人生とはなんなのだろうか、とふと感じた、そんな作品でした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
あらすじや表紙絵から、逆境を乗り越えて成長していくヒロインの生涯、のような朝ドラ的さわやかものを想像していたら全然違った。
いや、主人公・手毬の60年を描くと言う意味では合っているのだけど、そこはさすが山本文緒さんの小説。複雑にもつれ変わり続ける家族関係は、朝ドラよりも昼ドラに近くて、でもただドロドロしているだけじゃなくて、私はここに「人生」を感じた。
手毬とそのまわりの人物たちが互いに翻弄され影響し合う、愛というややこしいものの因縁や、血は争えないという事実の途方もなさに、時に泣き、時に笑いながら、壮大な気持ちで読み終えた。
最近は親ガチャなんてワードがあるけれど、どこでどう生まれ育ったとして、運命がどうだとして、でも人生は自分のものなんだ。
私たちはとにかくこの人生で最後まで生きていくのだから。
山本文緒さんの小説に出会えたことは、私にとってなによりの僥倖です。
らっか-りゅうすい【落花流水】
落ちた花が水に従って流れる意で、ゆく春の景色。転じて、物事の衰えゆくことのたとえ。時がむなしく過ぎ去るたとえ。別離のたとえ。また、男女の気持ちが互いに通じ合い、相思相愛の状態にあること。散る花は流水に乗って流れ去りたいと思い、流れ去る水は落花を乗せて流れたいと思う心情を、それぞれ男と女に移し変えて生まれた語。 -
手毬の7歳から67歳までのお話。
10年過ぎる毎に状況が一転していて、激動の人生。
子供の頃から苦労はしてきたが、世渡り上手なのか愛され上手なのか、男性をうまいこと利用して生き延びていく手毬。
三世代の女性全員、生命力が強そう。 -
山本文緒作品なので一筋縄ではいかないだろうなと思いながら読み進めると案の定。幸せな家庭を手に入れたはずの手毬は、嫌悪する母親と同じ運命を辿ってしまっている自分をどう感じていたのだろうか。幼少期のマーティルはヒーローのようでとてもカッコ良かったのに、大人になった彼とのギャップが妙にリアル過ぎてそら恐ろしかった。平凡だが安定した生活に満足できず自ら投げ出してしまうという呪われた血筋。晴れやかで清々しく終わらない所が正に山本文緒ワールドな作品だった。
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血は濃い
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多分3回目
子供の頃と、20代と、30代の今読んで、読む度に違う感想になる。
誰にも、どの章にも感情移入はできなくて、読書でしか味わえない経験。
昔読んだときはマーティルがすごくかっこよく見えてたけど、今読んだら全然そんなことなかったし、
律子はあまりにも強いし、
本能的な行動力の手毬はなんだか可哀想。
とにかく奔放に生きる女たちがたくさん出てくる。
忘れることの方が幸せかもしれない -
読みやすくてすぐに読み終えたけど…
出てくる人みんな好きになれず、共感するとこ特になく、結局何を伝えたかったのか私にはよくわからず…。 -
10年ずつ経過しながら進む
ひとりの女性を取り巻く人たちのお話
語り手が変わるから
人物像が立体的に見えてきて飽きさせない
なんとなく寂しさを感じるんだけど
それが山本文緒さんっぽくて
個人的には好き
過去からはじまって
10年ずつ進むから最後には現在を超えて
未来の日本の描写があるのも面白かった
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山本文緒の作品





