慟哭の海峡

著者 :
  • KADOKAWA/角川書店
3.76
  • (9)
  • (14)
  • (13)
  • (1)
  • (1)
本棚登録 : 134
感想 : 20
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (332ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784041021538

作品紹介・あらすじ

太平洋戦争時、20万人とも言われる犠牲者を生んだ台湾~フィリピン間のバシー海峡。生き延びたある人は私財を投げ打ち毎年の慰霊を続け、亡くなった人の中には「アンパンマン」作者やなせたかしの弟もいた――。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 第二次大戦に翻弄された大正生まれの二人の物語り。
    アンパンマンの生みの親、やなせたかしの弟である千尋。
    アンパンマンは、復員兵だったのかも。

  • 綿密な取材に裏打ちされたと思われる重厚なストーリーは毎回さすがと思わされる。とともに、生身の若者に焦点を当てることで、戦争が前途洋々たる若者の命を無残に奪ってきたのかを深く考えさせられた。戦後の裁判の辺りは本当に胸が熱くなるシーンだった。

  • アンパンマンのモデルはかつて日本を守ってくれた若者たちだという説を、何処かで見たことがあって、単行本の帯、「アンパンマンとは、いったい誰なのですか」というキャッチに惹かれ購入した。

    1980年生まれの私が幼稚園のとき、アニメはまだ放送していなかったが、絵本のアンパンマンは確かに園児に人気があった。37歳の今も、アンパンマンをそらで描ける。私の世代以降で、知らない子どもはいないだろう。
    みずからの顔を与える、自己犠牲のヒーロー。
    戦争体験が、知らず知らずにそんなキャラクターを生み出した。
    私たち自身は戦争を知らなくても、こうして傷ついた人たちの心が生み出した優しさの影響を、成長の過程で受けているのだと思った。

    バシー海峡を中心に、戦後を生きたふたりの物語が交差する、非常に読み応えのある構成だった。
    バシー海峡だけではない、あの戦争で死んだたくさんの若者たちが生きたかった未来に私たちは生きている。
    名前も残らず、骨ひとつ還らず、朽ちていった、誰かの子どもで、兄で、弟で、父親で、夫で、恋人だった人たち。
    ちゃんと生きなければならないなあと思う。




    …カバーをかけたまま積ん読してしまい、発売から三年も経って読了…もう文庫化してました…。

  • この本は先の大戦の犠牲者であった柳瀬千尋さん(アンパンマン作者・やなせたかしさんの実弟)とアンパンマンの誕生秘話に迫ったノンフィクション作品です。(実際の著書では台湾とフィリピンの間のバシー海峡の犠牲者の追悼に命を懸けた方の逸話が半分を占める)

    昭和五十年日本テレビのプロデューサーの武井英彦さんは、長男の参観日に訪れた幼稚園の一冊の本に目を奪われた。その本は幼稚園児のお気に入りとうことで、ひと際手あかがついていたのである。

    しかし、正義の味方であるアンパンマンが、おなかの空いた人に自分の頭を食べさせるという話は当時では斬新過ぎた。

    しかし、それを読んだ幼稚園児は夢中になり子供たちの間で圧倒的な人気を誇るようになったのだった。

    日テレでアニメ担当だった武井さんは翌日、神田小川町のフレーベル館に行って“映像化権をとりあえずください”という話を持ち出したそうだ。

    その後、彼はやなせ先生に企画を持ち込んでも“どうせダメでしょう”とつれない反応。何故なら以前そのような話があったがボツになっていたからだ。

    日本テレビの上層部も「何だ、これ?」「気持ち話悪いじゃないか」「頭をかじるなんて。。。」
    「こんなの子供に受けるわけないだろう」と日本テレビの上層部は武井さんの案を拒否した。

    そこで、武井さんは必死に訴えた。「そんなことはないんです。アンパンマンは自己犠牲の新型の正義の味方です。現に子供の間で人気があります」と言ったのだ。

    代理店の方でも一本一千万円という製作費が回収できないと抵抗を受けた。そこで日本テレビの関係会社のいろいろなグループ会社に“みんなでお金を出し合わない?”と持ち掛け、やっと実現化した。「これは、いける」というセンスを持った人は武井さんの他にも多数いたのである。

    最初、関東ローカルで始めたアンパンマンを放送すると、意外な現象が起こったのだ。「5%でもとれればいい」という予測に反し、放送を開始した十月には11、12%と行き、スペシャルバージョンを作ったクリスマスの時は17%という数字をとったのだ。その時間帯では初めての事だったらしい。それからアンパンマンは全国区になっていき、劇場版も制作できたのであった。

    そんな心優しいやなせさんは、地元高知に多大なる貢献をしている。故郷である高知の香北町に「やませたかし記念館(アンパンマンミュージアム)」を作るという話が持ち上がったが、快諾している。

    その後、土佐くろしお鉄道のごめん・なはり線のキャラクターを一つ作ってくださいと言われて、「今、一つキャラクターを作っても宣伝にはならないよ、駅に全部つけようよ」と言い、全ての駅にひとつづつキャラクターを作られたそうだ。

    そんなやなせさんも、90歳を超えてから膀胱癌が発覚したのだが仕事への意欲は衰えなかったそうだ。例えば東日本大震災の時も、避難所でアンパンマンの歌が歌われて被災者の方が喜んでいると聞けば、ポスターにアンパンマンを描いたり、いろいろな事をやって下さったという。やなせ先生は発病後も仕事中心で、ちょっと疲れたらベッドに横になったり、いろいろ環境を整えて、仕事されたという。

    やなせ先生のアンパンマンは誰かに似ているのかと言えば、先の大戦で亡くなった弟・千尋さんだというのである。京都帝大から海軍に学徒出陣して亡くなった弟・千尋さんに自己犠牲である、アンパンマンを投影していたと思われるのだ。

    そんなやなせさんは亡くなる直前、無意識で「神様、仏さま、ありがとう。お父さん、お母さん、ありがとう、ありがとう、おぶちゃん(夫人の愛称)、ちひろ、ありがとう、ありがとう、ありがとう」といって息を引き取った。

    こんなやなささんだが、こう述懐している。「アンパンマンをかきはじめたとき、なにか不思議ななつかしさをおぼえた どこか僕の弟に似ている」「アンパンマンについて話すことは あるいは自分史と重なるかもしれない お恥ずかしがしかたない」

    郷土の大先輩、やなせたかし先生に合掌。

  • やなせたかしの弟 千尋 台湾とフィリピンの間のバシー海峡で戦死

    中嶋秀治 輸送艦が潜水艦の攻撃で沈没 奇跡的に生き残る

    海峡をのぞむおかに潮音寺作る 鎮魂

  • フィリピンと台湾の間のバシー海峡。ここには30万人といわれる日本の兵士たちが眠っている。その中にアンパンマンのやなせたかしの弟がいる。また戦後70年でほとんどの日本人が忘れているのにもかかわらず、この地になんとか鎮魂の寺を作りたいと私財を投げ打って潮音寺を作った中嶋秀次さんもここで13日の壮絶な漂流をした人だ。自分たちがなぜ生きているのか?を考えさせられる素晴らしいドキュメント。

    〈人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり〉
    柳瀬千尋がバシー海峡で戦死して七十年。いまだに、その「死」で涙を流してくれる人が、たしかにいたのである。
    すでにやなせは五十四歳を迎えてい
    ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そして、そのためにかならず自分も深く傷つくものです。そしてそういう捨身、献身の心なくしては正義は行なえませ
    結局、二億ぐらい使ったかもしれません、と中嶋が
    「神さま、仏さま、ありがとう。ありがとう……お父さん、お母さん、ありがとう、ありがとう、ありがとう……」  突然、やなせはそう言ったのである。
    弟がやりたいことはいったいなんだったのか? それは、ちょっと(代わりに)俺がやってやんなくちゃいけない、という気持ちは今もあるんです。何なんでしょう
    先生は〝グローバル化というのは、海外に合わせることじゃない。日本のいいものをちゃんと世界に示すことが、グローバル化
    アンパンマンを通じて、自己犠牲という日本独特の価値観であり、生き方が、世界に広まっていくことを願わずにはいられない。
    歴史の礎となって、死んでいった日本の若者たち。太平洋戦争で大正生まれの男子千三百四十八万人の内、実に「七人に一人」にあたる約二百万人が戦死している。  生きることを拒絶され、若くして世を去らなければならなかった若者たちの無念はいかばかりだっただろうか。  焦土と化した日本を復興させ、そして〝二十世紀の奇跡〟と呼ばれた高度経済成長を成し遂げたのも、彼ら大正生まれの人々である。戦争中は突撃、突撃を繰り返し、戦後は黙々と働きつづけた大正生まれの人々は、いわば「他人のために生きた人たち」である。

  • 大正生まれの青年が戦争で20万人犠牲になった。
    アンパンマンの産みの親 やなせたかしの弟は京都大学生の優秀な青年であったが、25歳でバシー海峡に散った。

  • やはり門田隆将のノンフィクション作品は読みごたえがありますね!本作品はアンパンマンの作者である「やなせたかし」と、もう1人の第二次世界大戦を壮絶に生き抜いた元海軍兵士の2人の人物を通した、戦争の悲惨さと2人が戦後どのように戦争と向き合ってきたのか?を描いたドキュメンタリーです。
    本作品を通じて、現在の日本の平和な状況というのは、第二次世界大戦で戦死された尊い多くの犠牲者(先人)の上に形成されているのだということを決して忘れてはいけないということを思い知らされただけでなく、戦争の愚かさというものを風化させてはいけないと強く感じたのでした!
    やはり真実(事実)というのは重い!ですね。

  • 台湾とフィリピンの間に横たわるバシー海峡。
    第二次世界大戦下、南方に展開した日本軍はバシー海峡を越えて、多くの兵士を南方に送り込んだ。
    重要な、兵士、物資輸送路であったバシー海峡は、当時の敵国米軍の重要な攻撃ポイントなった。そして、非常に多くの日本人の命が、バシー海峡で失われることとなった。

    ノンフィクション作家門田隆将が注目したのは、バシー海峡が人生を変えた二人。
    ひとりはアンパンマンの作者、やなせたかし。やなせたかしの実弟、柳瀬千尋氏は海軍少尉として乗艦した駆逐艦とともに、バシー海峡に没する。
    そして、もうひとり、米軍の攻撃を受け、奇跡的に生き延びた中嶋秀次氏は、バシー海峡で失われた多くの命を供養すべく。海峡を望む台湾の地に寺院を建立することに命を懸けた。
    二人は、奇しくも同じ2013年10月、この世に別れを告げた。

    本書は、柳瀬千尋氏の普通に優秀だった学生であった、生活を克明に描いている。
    京都帝国大学の学生であった千尋氏は、真剣に生きて、そして没した。やなせたかし氏は、その弟を愛した。
    自分を失うことを知っていても、避けることなく、運命を受け入れた弟。そこに、自分を傷つけること。失うことを恐れない特異な正義のキャラクター あんぱんまんを重ねる。
    中島氏は、壮絶な体験のうえ生き延びた。しかし、彼の脳裏から没していった多くの戦友、そして、同じバシー海峡に沈んだ多くの命の記憶が消えることはなかった。中島氏は、バシー海峡戦没者の御霊を慰めること、そして記憶に留めることに生涯を捧げた。
    戦争がなければ、普通の生活を送っていた二人、そしてその家族。
    普通の彼らの記憶を残すことが、次の戦争を起こさない、日本人の記憶となっているのだろう。

  • 台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡では、先の大戦で数多くの戦艦が米潜水艦からの魚雷攻撃により沈められた。
    そこで戦死した日本兵の数10万人以上という。
    その中にアンパンマンの著者’やなせたかし’の弟、柳瀬千尋がいる。
    この作品では柳瀬兄弟と、同じくバシー海峡で魚雷攻撃を受けた戦艦から筏に乗り移り12日間の漂流の末、別の船に助けられた中嶋秀次のことが描かれている。
    私の父の長兄もこのバシー海峡で戦死している。
    私は昭和58年岩手県青年に船に参加し、このバシー海峡で行われた「洋上慰霊祭」にも参加した。
    「この広い洋上で船が沈められたらどうなるのだろう・・・?」と当時は想像できなかった。いま「慟哭の海峡」に触れすさまじい魚雷攻撃の様子が理解できた。

全20件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

作家、ジャーナリスト。1958年、高知県生まれ。中央大学法学部卒業後、新潮社入社。『週刊新潮』編集部記者、デスク、次長、副部長を経て2008年独立。『この命、義に捧ぐ─台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(集英社、後に角川文庫)で第19回山本七平賞受賞。主な著書に『死の淵を見た男─吉田昌郎と福島第一原発』(角川文庫)、『日本、遥かなり─エルトゥールルの「奇跡」と邦人救出の「迷走」』(PHP研究所)、『なぜ君は絶望と闘えたのか─本村洋の3300日』(新潮文庫)、『甲子園への遺言』(講談社文庫)、『汝、ふたつの故国に殉ず』(KADOKAWA)、『疫病2020』『新聞という病』(ともに産経新聞出版)、『新・階級闘争論』(ワック)など。

「2022年 『“安倍後”を襲う日本という病 マスコミと警察の劣化、極まれり!』 で使われていた紹介文から引用しています。」

門田隆将の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×