- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784041046265
作品紹介・あらすじ
報復の連鎖の時代における、かすかな希望は確かにある。
人は傷つけ合う、その先を見つめた、柔らかな哲学エッセイ。
米国・バージニア工科大学で起こった銃乱射事件。
32人の学生、教員が殺され、犯人の学生は自殺した。
キャンパスには犠牲者を悼む32個の石が置かれたが、人知れず石を加えた学生がいた。
33個めの石。それは自殺した犯人の追悼である。
石は誰かによって持ち去られた。学生はふたたび石を置いた。それもまた、持ち去られた。
すると、別の誰かが新しい石を置いた。
「犯人の家族も、他の家族とまったく同じくらい苦しんでいるのです」。
犯人も現代社会の被害者であるという追悼を、われわれは出来るだろうか。
敵と味方の対立を無効化し、「やられたらやり返してやる」という報復の連鎖を超越していく物語を紡げるだろうか。
単行本刊行後、東日本大震災を経て発表された5編と書き下ろしを加えた文庫特別版。
社会は変わりようがない、人々が傷ついたとしても仕方がないというのっぺりとした社会意識を、食い破ることのできる希望。
それはまだ小さな流れではあるけれども、世界のあちこちで少しずつ開こうとしている柔らかなつぼみなのだ。
感想・レビュー・書評
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人は規律正しく生きていくことができるのか。否、時折私たちは間違いを犯す。自省し謝り改心していこうと努める。そして周囲はその過ちを許すことが大切であると筆者森岡正博は述べる。そこに宗教は介在しなくてもよい、怒りや苛立ち、憎しみがもたらす排除や復讐には平穏は訪れない、負の感情がエスカレートして分断や衝突といった人びとの摩擦による疲弊が繰り返される惨状でしかない。本当に人を慈しむ行為は他者から偽善と罵られても一向に構わず、その偽善をとどのつまり自身の為に行動しよう。情けは人の為ならず。
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【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/783314 -
哲学とありますが、エッセイのような文章がテーマごとにまとめられてあり、読みやすかったです。
題名の33個目の石の話は知りませんでした。アメリカの銃乱射事件(被害者32人)の犯人(自殺)の分も追悼の石を置こうとする人、それは認められないとして排除する公的機関。何だか考えさせられました。許すとはどういうことだろうか。。。
森岡先生はすごく誠実で素直な方なんだろうなぁ。自分より年上の男性でこういう思考をしている方はほとんどいない気がします。
最後の方の章で書かれてましたが、先生が哲学的思考をするとき、それは言葉で練り上げるというより色や形などのイメージを組み上げるらしいです。予想外でした。哲学とアートにてるんですね。 -
君が代のところの記述を読み返したい。
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「正当防衛ならば、人殺しの興奮と快楽を味わってもよい」という自由なのではないだろうか。 殺戮と流血を密かに欲しているからだろうということになるだろう。 教団の拡大に明け暮れる宗教は貧しい。地上に跋扈する、これら貧しい宗教たちを私は軽蔑する。 彼等は、無痛化の道を突っ走る現代物質文明と、裏側でこっそり手を結ぶ。そのことによって、彼等の宗教から、現代社会批判の力が削ぎ落とされていく。宗教の持つ最も大きな可能性が、こうやって失われていくのである。 自分達に対しては、これ以上ないほどの快楽と心地良さを。自分達に刃向かう者に対しては、耐え難い程の痛みと苦しみを。そして降伏してきた兵士には、苦しみからの解放と安息を保障する。これが「無痛文明時代の戦争」の原理である。 かくして、野生の鯨はホエールウォッチングで楽しみ、家畜の鯨は鯨肉として味わうといった使い分けができるようになる。だがこれは、我々にとって朗報なのだろうか。人間側の都合によって、この生命は観賞用、この生命は食用というふうに選別していく思想こそが、ひいては優生学のような人間の生命の選別のテクノロジーを生み出したのではないかという思いを私は拭い去ることができないのだ。 想田和弘の映画『選挙』 その滑稽なヒロイズムに対して向けられている つまり、お洒落というのは、「お洒落じゃない人」には決してできないような格好をすることによって、「お洒落じゃない人」から距離を取って離れようとするゲームなのではないかと思うのである。「お洒落な人」になろうとするよりも、「お洒落じゃない人」にならないようにするのだ。 「今日は避妊なしのセックスから生じる責任を、二人で分かち合います」という契約書を交わさない限り、曖昧さ常に付き纏う。 この瞬間、原爆投下によって多数の市民の生命を奪ったという過去は消え失せ、そのかわりに、苦しむ異国の人々に温かい援助の手を差し伸べる米国人というアイデンティティが視聴者の前に美しく舞い降りたのである。 しょこう曙光 私がニーチェから考える勇気を受け取ったように、ニーチェもまた過去の哲学者達から同様の勇気を得ていたに違いない。哲学とは孤独な営みであるが、それは、時と場所を異にしたもうひとつの別の孤独へと、直接的に繋がっていけるような孤独である。ここにこそ、哲学の真の希望が集約されているのではないだろうか。