- Amazon.co.jp ・本 (264ページ)
- / ISBN・EAN: 9784041052549
作品紹介・あらすじ
自粛と萎縮【タブー】に抗い続ける!
終わる平成。
しかし、忖度は続いている。
ドキュメンタリーとは、抗いである。
平成という時代が終わる。しかし、報道をはじめ、表現の自粛と萎縮は終わることなく続いている。この三十年で、自粛と萎縮の波は高く、強くなったのか、それとも……。天皇、放送禁止歌、オウム、オカルト、小人プロレスetc。撮影したいテーマはことごとくタブー視され、発表媒体が限られていく中でも、作品の力で“空気”を吹きはらってきたドキュメンタリー監督が、自粛と萎縮の正体を探る!
森監督作品のテーマを軸に、時代の表現者たちと「平成」を斬るルポ&インタビュー。
『放送禁止歌』×ピーター・バラカン(ラジオDJ、ブロードキャスター)
『ミゼットプロレス伝説』×日比野和雅(『バリバラ』初代プロデューサー)
『幻の天皇ドキュメンタリー』×松元ヒロ(お笑い芸人)
『A』『A2』×有田芳生(参議院議員)
『未完の北朝鮮ドキュメンタリー』×若林盛亮(「よど号ハイジャック事件」実行犯)
『FAKE』×長野智子(ニュースキャスター)
感想・レビュー・書評
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森達也さんの作ってきたドキュメンタリーをベースに、その問題に関係する人達と対談することで、メディア、日本の問題を洗い出していく。
下山事件の本を読んでから森達也さんには興味を持ちつつも、本をちょっと読んだくらい。ただ、名前が出てくると気にはなっていたため、まとめ的な対談集として、読んでみた。途中で有田芳生が語るように「森ワールド」にはなっているのだろうが、これまで読んだ本より、読みやすいのは対談という形で、相手の言葉が入ってくるからだろう。
ドキュメンタリー同様で、森さんのコメント「自分の言葉をチェックするように間をおいた」というようなものが入ると、どうしてもある程度のバイアスはかかるし、意識もされているはずである。しかし、人に語ることで落ち着いた感じになるのか、整理されていくような感じなのが、読みやすいのかもしれない。
制作したドキュメンタリーに近いことをネタにしている人や、その主体の人なので、同調する意見が多かったり、引き出されていく感じはある。その中で「自発的な隷属」「擬似的独裁国家」「メディアの商業主義」といった内容が心に残った。高圧的なものではなく、こう言っているだろう、こう言われるだろう、だからこうするが、社会にある。忖度でも、視聴率偏重でも、炎上でも、何かを気にして動いてしまう。そういった自分たち社会を変えていかないといけないと考えさせられた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
本書は、森達也がこれまでの自らの活動に関して、それぞれ関係が深い人を呼んでインタビューを行い、その活動にまつわる思い出を批判的態度とともに振り返るというものである。テレビマンとしてそのキャリアを始め、放送禁止歌、障害者プロレス、そして森達也の名を上げることとなったオウム真理教のドキュメント、そのキャリアを平成という時代を通して築いた著者の対談は、平成の終わりを間近に迎えた2016年から2017年にかけて行われた。
この本のコンセプトを一つのセンテンスにすれば、「僕自身のこれまでのドキュメンタリー作品を現時点から振り返りながら平成という時代について考察する」ということになるという。
平成の三十年というのは、世界史的に見ればそれだけでは特段の意味はない任意の区切りなのだけれども、結果として何某かの意味を当てはめることができそうだ。平成への改元後すぐに起きたことと言えば、ベルリンの壁の崩壊に続く共産圏の崩壊と冷戦構造の終結である。中国に目を向けると天安門事件があった。そして第一次湾岸戦争が起きた。日本のことに目を向けると、絶頂を迎えた日本経済が、バブルの崩壊とともに長い停滞に入る。社会的には、インターネット、モバイル、スマートフォンがそれぞれ約10年づつを主役として生活を大きく変えていく推進力となった。
本書のタイトルは、佐村河内のゴーストライター騒動に関わる映画『FAKE』にも合わせて取られたものだが、肯定的にも否定的にも取られるその言葉は、この本の内容を示す上でも、平成の終わりを迎える上でも象徴的でもある。トランプにより有名にもなったフェイクニュースという言葉。しかし、世の中にはこれに対になるような真実(トゥルース)というものはない、というのが著者の信念にもなっている。そして何よりFAKEは森達也の思想における鍵となる概念である。
以下、章立てに沿って、本書に書かれたことをまとめた。そのテーマと対談相手の選定にこそ強い意図が込められているように感じるので、簡単に追っていくのも意味があるだろう。
■第一幕 疑似的民主主義国家ニッポン - 『放送禁止歌』
ここでは、日本の自縛的なメディアの状況を外から見るということで、ピーター・バラカンとの対話が行われた。
本書は基本的にはメディア批判の書である。平成の三十年間で日本が何か悪い方向に向かったとしたのならば、その責任の一端をこの国のメディアが担いでいるというのが、この本、いやこの本に限らず森達也の中で通底する問題意識だ。その意味で「放送禁止歌」の話をそのキャリアの初期において追いかけたのは象徴的だ。禁止などされていないが、禁止した方が判断をしなくてよいので楽なのである。しかし、その姿勢を続けることはメディアを弱体化する。
バラカン氏は、放送禁止歌の問題も含めて、多くの規制は日本人の「自発的な隷従」だと言う。タイにおける映画祭のインタビューで通訳が森達也の「不謹慎」という言葉を訳せなかったというエピソードは、その問題が日本固有の問題、少なくとも日本では他国と比べると突出して影響が大きな問題だということが言えるだろう。おそらくはここに「忖度」という言葉を付け加えてもよい。
■第二幕 差別するぼくらニッポン人 - 『ミゼットプロレス伝説』
差別の問題はとても繊細な問題だ。森達也が取り上げたミゼットプロレスは、今ではテレビで流すのは厳しいコンテンツなのだろうか。ミゼットプロレス側の人たちは、それを望んでいるのだとしても。対談相手の日比野和雅は、NHK教育テレビで障害者をネタにしたバラエティ番組『バリバラ』(バリアフリー・バラエティ)を立ち上げたプロデューサーである。日比野は24時間テレビの障害者の取り上げ方を感動ポルノとして批判する。『バリバラ』では多くの障害者を魅力的な「素材」として扱う。
「人は人を差別するということ。優越感を得るためとか劣等感から逃れるためだけではなくて、他人と比較した瞬間に、差別は日々生まれるわけで、そこから目を背けながら、自分は差別する人間ではないって思いこもうとしている。健常者だけではなく障害者も含めて、自分だって差別する側の一人だとの意識を、メディアすべてが自覚しないかぎり、ダメなんじゃないかなと思っています」
誰もが差別心はある。そう遠くない昔の自分たちの親の世代は、それを隠そうとしない人が多かった。今はその反動もあってか、表立ってそれを表明することは「正しくない」こととされている。LGBTへの軽い嫌悪感と隠されているべきだという感覚を若いころには共通理解であるかのように自然に話されていた。何となれば、とんねるずの保毛尾田保毛男のネタに何の抵抗感もなく笑っていた。今は、おそらくはLGBTに対して嫌悪感をあからさまにしたり、その場にLGBTの人がいないかのようにネタにした冗談を飛ばすことは控えるべき行動とされるだろう。差別は深く、澱のように心の底に溜まっているのかもしれない。それでも時間の経過によってその規準は変わっていく。
差別の問題は、メディアの自粛や世間への忖度、という問題と深く関わるテーマである。そこにメディア側にいるNHKのプロデューサーが果敢に切り込んでいるのは、彼にとっても、そしておそらくは我々にとってもひとつの救いなのである。「テレビの影響力は圧倒的だ。でも同時に無力でもある」という森達也の最後のつぶやきは、メディアに関わる人間が誠実になったときに持つべき感覚なのかもしれない。
■第三幕 自粛と委縮に向けて - 幻の『天皇ドキュメンタリー』
「さる高貴なご一家」という天皇家をギャグに使うコメディアンの松元ヒロが対談の相手である。森達也は、かつて憲法を特集番組の一コーナーとして、天皇に会ってインタビューを試み、「おつらくないですか」という聞くという企画を温めていた。結局、その企画は通らなかったのだが、「天皇家」を巡る奇妙なタブーが、日本のメディアの委縮のある種の原点になっているのではないかという懸念がぬぐえない。それは、おそらくは天皇家の責任ではないのだろうけれども。
■第四幕 組織は圧倒的に間違える - 『A』『A2』
ジャーナリストの有田芳生が対談相手。彼の名前は、ヨシフ・スターリンから取られたらしい。親からの影響もあって、一時期は共産党に所属したが、現在は立憲民主党所属の参議院議員だ。
オウム真理教のドキュメンタリー『A』、『A2』を撮ったことは森達也のその後にも大きな影響を与えた。有田氏もオウム事件で人生が変わった人の一人だ。二人の立場は異なるものの、麻原が精神的に裁判に耐えられる状態ではないこと、麻原からはもっと話を引き出すべきであったこと、組織の問題として捉えるべきであること、そしてそれは社会を分析するために有用であること、もろもろ意見は合致する。
このテーマの対談者に有田を持ってきたのは意外ではあったが、当時の状況について、メディアの騒動の渦中にあった彼の口から話を聞きたかったのかもしれない。
引用された次の言葉が印象的だ。
「一度起きたことは、もう一度起こりうる (It happened, therefore it can happen again: this is the core of what we have to say)」
ホロコースト記念碑 プリモ・レーヴィ
■第五幕 平壌、かつての東京との交信 - 未完の『北朝鮮ドキュメンタリー』
よど号ハイジャック事件の犯人で、今も北朝鮮に残る日本人との対話。森達也は、現地で一週間ほど彼らと過ごした。まず、北朝鮮でそのようなことが可能なのだということに驚いた。欧州からは観光で北朝鮮に来る人もそれなりにおり、国交を結んでいる国も160ヵ国以上に上るらしい。少しイメージが違っていたのかもしれない。
■第六幕 正しさこそが危機を生む - 『FAKE』
かつてフジテレビの花の「女子アナ」長野智子。現在、「ハフィントンポスト」の編集主幹も務めている。彼女も日本のメディアについて批判的に深く考えている人の一人であった。
「森さんは絶望しながら期待している。逆に私(長野)はテレビに期待していると言いながら、実は限界を感じているところもあるんです」として、森達也と自分とは、違う意見を持っているように見えるが、同じものを違う側面から見ているだけで実は考えは同じではないかと言う。確かにこの対談は意外といっては何だが、議論が噛み合っていて面白かった。
今のテレビは面白くなくなった、と言われる原因のひとつとして、コンプライアンスの問題があるという。為政者への忖度だけではなく視聴率による評価は、営利企業としては大きな課題だ。日本のメディアに求められる公平・中立・客観・不偏不党のドグマ。上場企業としての責任。フジテレビは上場した後、何かが変質したという。
長野は、アメリカでメディアについて学んだことの中で、重要なことはアカウンタビリティだという。メディアは間違えるものである、という認識。間違えたときに誰が訂正をして、誰が責任を取るのかを重視する。謝罪ではない。原因は追究して開示する。謝罪することはメディアの態度としては決して誠実なものではない。
長野との対談で、森達也は次のように語る。
「僕の語彙で言えば、メディアが一人称単数の主語を急速に失い続けた三十年です」
通底するのは、メディアへの批判的な視点であり、組織としてのメディア企業への批判である。
『A』のドイツでの上映会で批評家からもらった次の言葉が印象的だ。
「オウムの信者はもちろん、この作品に登場するメディアも、警察も、一般の市民も皆、リアルな存在にはどうしても見えない。まるであらかじめ台本を手渡されてロールプレイイングをやっているとしか私には思えない。これが本当に実在する人たちなら、日本という国はそうとうに奇妙だと思う。要するにフェイクな国だ」
ドイツ人のコメントとして、日本に対して失礼なコメントではある。しかしながら、このコメントには重要な意味がある。
「事実はない。あるのは解釈だけだ」ニーチェ
『FAKEな平成史』。真実を大事にしなくてはならない、という意図がこのタイトルに込められているわけではない。真摯さの問題と言ってよいだろう。複雑なものを単純化せず、複雑さを受け入れて、見えない規範にとらわれず、そこに誠実に向き合う、その強さを求めるべき。この本と選ばれた対談相手から、そう感じる。平成は終わった。次の令和はどのような時代と後の世代には映るのだろうか。 -
第一幕 『放送禁止歌』
第二幕 『ミゼットプロレス伝説』
第三幕 幻の『天皇ドキュメンタリー』
第四幕 組織は圧倒的に間違える『A』『A2』
第五幕 未完の『北朝鮮ドキュメンタリー』
第六幕 正しさこそが危機を生む『FAKE』
日々熱狂的に報じられる事件や事故を身近に感じながら未来に悲観的にならずに生きるのはなかなか大変だった平成(1989.1〜2019.4)時代。本書は2017年の対談を中心に執筆されたもので、どのテーマもここまで話して大丈夫なのか?と心配になる程興味深いものばかり。当時は絶頂期だった安倍氏の「こんな人達に負けるわけにはいけない」発言で、凋落の気配も感じた安倍政権だけれど、その翌年には麻原死刑囚ほか関係者に刑を執行し、令和2年(2020)コロナ初年に(ようやく)退陣した事も記録しておきたい。
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ノンポリ気取りや寄らば大樹の陰派、事なかれ主義者にはわかるまい。へそ曲がりさんたちこそ共感できる、天皇制、小人症の人たち、オウム、北朝鮮などを巡るダイアローグ集。森さんや話相手が語るすべてに共感するわけじゃないけど、世のなかの空気感に抗う意見を出しているという点でまず共感できる。
ずーっと、先に挙げたような世のなかの事件・事象をテーマにしてきて、最終章では長野智子さんがお相手でメディアやマスコミを論じている。森さん訳だけど、長野さんなりのジャーナリストの定義は「書くこと」「個人であること」だといった話が冒頭であり、これを念頭にその後の話を読んでいくととても示唆に富んでいる。
テレビはチーム的な色合いが濃く、近年はより個人としての色がなくなってきていることとか。テレビ局が上場したことでコンプライアンスにとらわれ公平性ばかりを気にし批判性とかがなくなってきているとか。メディアはかつて反権力、左派の落ちこぼれのたまり場だったのが、東大卒がわざわざ目指すような業界になって一般社会との意識の乖離が生まれ、それがトランプ大統領の誕生やイギリスEU離脱を読み切れなかったとか。
フェイクとトゥルースの位置づけなんかについてもいいこと言っていた。フェイクニュースが世のなかを混乱させるけど、それってニュースがフェイクなんじゃなくて、理解力が足りなかったり、そもそも中身を読んでいないからってこともある。真実だって、だれにとってかによって「真実」が変わってくることもある。となると、ほんものだ、にせものだなんてことは基準として危ういことになり、確かなものって「私はこう思う」という個人としての意見表明しかないんじゃないだろうか、なんてことを思った。 -
私たちが、無意識にタブーとしているものに、著者はこだわる。障害者、天皇制、宗教、北朝鮮、報道等々。強力なワクチンのように、私たちはその存在に意識を向けなければならない。
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平成ってこんな事があったなとざっと振り返れる。社会と政治とメディアのレベルは常に一緒、という言葉に、その通りだなと深く同意する。
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☆信州大学附属図書館の所蔵はこちらです☆
https://www-lib.shinshu-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BB24595016 -
平成も終わりに近づき、30年の間に起こったことを振り返ると、暗澹たる気持ちになるなあ。
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まだまだ見取る力を高めないと。
どの章にも、そうなのかということがあふれている。