複眼人

  • KADOKAWA
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  • Amazon.co.jp ・本 (368ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784041063262

作品紹介・あらすじ

〈台湾民俗的神話×ディストピア×自然科学×ファンタジー〉
時に美しく、時に残酷な、いくつもの生と死が交差する、感動長編。

次男が生きられぬ神話の島から追放された少年。自殺寸前の大学教師の女性と、山に消えた夫と息子。母を、あるいは妻を失った先住民の女と男。事故で山の“心”に触れた技術者と、環境保護を訴える海洋生態学者。傷を負い愛を求める人間たちの運命が、巨大な「ゴミの島」を前に重なり合い、驚嘆と感動の結末へと向かう――。
人間と生物、自然と超自然的存在が交錯する世界を、圧倒的スケールと多元的視点で描く未曾有の物語。

感想・レビュー・書評

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  • 海の上をぷかぷか浮きながら漂う島といえば、我々の世代は『ひょっこりひょうたん島』を思い出すが、時代が変われば、物事は変わるものだ。近頃では廃プラスチックが寄り集まってできたゴミが島となって漂う。「二〇〇六年ごろネットで、太平洋にゆっくりと漂流する巨大なゴミの渦が現れ、科学者にも解決の手立てがないという英文記事を読」んだのが、作家にこの小説を構想させたようだ。

    複数の人物が登場し、それぞれの人生の物語を紡いでいるが、一人選ぶとするなら、台湾生まれの作家志望の女性アリスになるだろう。文学博士号を取得し、ひとり出かけたヨーロッパ旅行で、デンマーク人の探検家トムと出会い、トムはアリスを追って台湾にやってくる。二人は結婚し、ストックホルム市立図書館を建てた建築家アスプルンドの「夏の家」に想を得た「海辺の家」を海岸沿いに建てて暮らし始めたころ、思いがけずトトを授かる。

    問題は、探検家というものはひとつところにじっとしてはいられないということだ。台湾のめぼしい山を登り終えると、トムはさらなる冒険を目指し、家に居つかなくなる。二人の間に距離が生まれ始める。そんなある日、山に出かけたまま、父と息子は二度と戻らなかった。トムの遺体は捜索隊のダフに発見されるが、トトは今に至るも見つかっていない。愛する者の喪失から立ち直れないアリスはすべてを放り出し、自殺を考えている。それが物語の発端である。

    もう一人の主人公ともいえるアトレは、ワヨワヨ島という、南太平洋の小島に生まれた若者。水や土地、樹々といった資源に乏しい島では、島に残れるのは長男だけで、二番目に生まれた子は、時が来ると自作の船に乗り、食料と水が尽きればそこで終わり、という死出の旅に出る。ところが、気力、体力に恵まれたアトレは死を免れ、大海に漂うゴミの島に漂着してしまう。溜まり水を飲み、廃棄物から銛や釣り針を作り、生き物を捕えて生き続けた。

    そんなとき、台湾を地震が襲う。「海辺の家」にいたアリスは、波間に浮かぶ板切れに乗った仔猫を助け上げる。皮肉なことに、自殺を考えていたアリスは、仔猫の命を助けたことがきっかけとなり、絡めとられていた死の罠から逃れることになる。近くでバーを営むハファイは、そうしたアリスの変貌に気づく。自ら好んで周囲から孤立した暮らしを続けるアリスだったが、その周りには、ハファイやダフといった、アリスを気遣う仲間がいた。

    台湾に限らず、気候変動は世界的な問題になってきている。物語のヤマ場で、地震が台湾を襲う。その力がゴミの島を台湾に衝突させる。科学的に見れば、地震ということになるが、無文字文化の中で育ち、大古から伝わる神話と昔話の中で育ってきた若者にとっては、何か大きな力によって、知らない世界に放り出されたようなものだ。その中でアリスとアトレが運命的に出会う。言葉の通じない二人だったが、通じるものはあり、アリスは傷ついたアトレを看取る。

    何か大きなものから死を拒まれた二人の新しい生が始まる。作家を目指すアリスは、世界を言葉や文字で理解しようとして生きてきた。アトレはちがう。彼にとっては目で見て、手で触れるものが世界であり、それは今、ここだけでなく大古から続く神が創り出した世界である。彼の知る唯一の世界であるワヨワヨ島は、他を顧みない人間の営為が神の怒りを呼び、罰として、限られた資源の中で限られた者しか生きられない世界であった。

    生まれた世界が異なる二人が共に生きることで、少しずつ互いの世界を理解し合い、言葉を共有しあうようになる。アリスは、喪失の痛みに絡み取られていたそれまでの自分の生を見直すことができるようになる。そして、アトレを道案内にして、トトが遭難した登山ルートを自分の足で確かめるため、あれほど嫌いだった山に登ろうとする。物語とは言わば、何かをきっかけにした主人公の変容を語るものである。

    これは煎じ詰めれば、最愛の者を失い、自らを失いかけていた主人公が、「まれびと」によって新しい生を得る物語だ。そして、再び動き始めたアリスを通して、読者はトムとトトの死の真相を知る。それは、小さな人間の生死を越えた、もっと大きく根源的な世界との出会いを教えてくれる。語られることは多く、その世界の射程は地球規模に大きい。捕鯨やアザラシ猟の持つ問題、地球環境の保全、といった数多の問題が複数の登場人物によって背負われて、物語の中で犇めき合う。

    比較的、親日的な台湾だが、日本人にとって台湾の問題は他人事として眺めていられるものではない。本作の中で、重要な脇役を務めるハファイは阿美(アミ)族、トムの捜索活動を担うダフは布農(ブヌン)族という先住民。日本や漢人の支配によって苦杯を嘗めさせられてきた人々である。ハファイは人を癒し、ダフは山を知る。彼らには民族に伝わる、生きる力や知恵が備わっており、島を傷つける力に抗し、傷をいやすものとなっているようだ。

    『歩道橋の魔術師』、『自転車泥棒』の作者、呉明益による、近未来を描くSF、ファンタジーとも読める、ストーリー・テラーの才を遺憾なく発揮した長篇小説である。多くを詰め込み過ぎているような気もするが、連続短篇小説のつもりで読めば、複数の人物が織りなす多彩な物語の饗宴を愉しむこともできる。日本語の朝の挨拶である「オハヨ」と名づけられた仔猫が、大きな美しい雌猫に育ったところで、物語は幕を閉じる。「激しい雨が今にもやって来る」とハファイの歌う、ディランの『Hard Rain』が時代を越えて、胸に迫る。

  • 【今月の一冊】台湾の作家によるただただ脱帽の傑作「複眼人」呉 明益|@DIME アットダイム
    https://dime.jp/genre/1182359/

    環境思想の強大な力を備えた大傑作(長瀬海)
    読書人WEB
    https://dokushojin.com/review.html?id=8280

    「複眼人」 呉 明益[文芸書(海外)] - KADOKAWA
    https://www.kadokawa.co.jp/product/321708000005/

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      <トヨザキが読む!豊﨑由美>「ゴミの島」で交錯する運命 イチ押しの台湾人作家・呉明益(ご・めいえき):東京新聞 TOKYO Web
      http...
      <トヨザキが読む!豊﨑由美>「ゴミの島」で交錯する運命 イチ押しの台湾人作家・呉明益(ご・めいえき):東京新聞 TOKYO Web
      https://www.tokyo-np.co.jp/article/127718?rct=book
      2021/08/30
  • ウー・ミンイーが描く世界では、死者の記憶と超自然的な存在が幻想的に入り混じる。
    本作は、避けられない死と終わりを受け止めてゆく物語だ。

     “『波を浜辺にとどめられる島はない。』 
    死、それは取り立てであり、ときにそれはただの別れに過ぎず、誰に借りを作るわけでもない。
    海が深く、日々が長いように、魂もいずれ肉体を裏切るのだ”

     “『昔は川は話したりしなかった。互いに想い合う男女が川に落ち、二人の歌い合う声が川のせせらぎとなった。その和音から、われわれの歌は生まれた。』
    人は生きていなくても、死んだとはいえないこともある。せせらぎとなった二人のように”

    前者は、海の一族であるワヨワヨ島の人々の死生観であり、後者は山の一族である台湾先住民の布農(ブヌン)族の民話だ。
    厳しい自然に囲まれて生きる人々は、命が奪われて死を迎えるることへの諦念と、同時に個人の死を超えて一族と世界の記憶として生きることを伝えてきた。

    本作には様々な声による語りが含まれている。
    野生動物の命を奪いとる狩を、文明により変容した社会でも続けていくことの倫理、利便性と発展のために、人が山や海の環境を技術によって変えていくことの倫理が、当事者である登場人物によって自問されるが、しかし何かを断罪することなどできない。
    ワヨワヨ島の次男は180回目の満月の夜(15歳だ)に島を離れて、死出の旅に向かうのが掟だ。
    人口の抑制が必要なのは、文明と隔絶した未開の地でもテクノロジーが進んだ文明社会でも同列であり、対比してどちらを選んでも人類の課題が解決するわけではないのだと誰しもが分かっている。

    大きな主題として、後半に浮かび上がるのは、人だけが持つ“文字で記憶を再現する力、想像で記憶を創り上げる力”についてだ。

    太平洋を望む海辺の家に住む、大学で文学を教えるアリスは、幼い息子を失った絶望に取り憑かれて自殺の準備を整えてゆく。
    前半でアリスは、次のように独白する。
     “人生というものは、自分の考えを挟むことは許されず、ほとんどは否応なしに受け入れるしかない。オーナーの独断で料理が決まるレストランで食事するようなものなのだ。”

    しかし、二つの守るべき命との出会いを通じて、自殺を踏み止まって生き続けているアリスは、失っていた小説を描く気持ちを徐々に取り戻す。
    なぜ書くのか、何を書くのかと問われてアリスはこう答える。
    『物語を書いて、ある人を助けるの。』
    『かつてあったこと、でも本当はなかったかもしれないこと』

    アリスは、短編と長編の二冊の本を書き上げる。
    息子の失踪という謎への、一つへの回答がここで明らかになるが、それを謎解きと捉えるのは少し違うのだと感じる。
    記憶の罠に閉じ込めていた存在を、解放して昇華するという創作の力にこそ意味がある。
    人生は選べないかもしれない。だが、物語が書かれ、読み継がれてゆくことによって救いがもたらされるのではないかという想いが伝わる。

    物語の終盤に、まるで本作の主題歌のような、ボブ・ディランの『A Hard Rain's a-Gonna Fall(はげしい雨が降る)』が、ハファイ、サラそしてアリスによって、終末の風景のような海を目の前にして、歌い継がれる。
    世界の行く末を憂うようなその歌詞は、しかしここでは彼女たちが愛した、もう会えない人々−顔も分からぬ想い人、父親、トムとトト、そしてアトレ -に向けた哀歌として胸に迫ってくる。

    旋律に乗せた歌詞もまた、個人の記憶や想いを時代を超えて多義的に伝えることができる、人だけができる文字による創作の力だ。




     “自然は残酷なものではないよ。少なくとも人類に対して特別に残酷というわけじゃない。視線は、反撃もしない。意思のないものに「反撃」などできるわけもないのだから。自然はただ自然がすべきことをしているだけだ。海面が上昇するなら上昇すればいい。僕たちが引っ越しをすればいい間に合わなければ、海に沈んで魚の餌になるまでさ。そういう考えもいいと思わないかい?”

    ”この世界で遠い場所などありはしない。もちろん近い場所もない。脳裏に突然浮かんだそんな言葉の中の矛盾について、アリスは考えていた”

  • 『人生というものは、自分の考えを挟むことは許されず、ほとんどは否応なしに受け入れるしかない。オーナーの独断で料理が決まるレストランで食事をするようなものなのだ』

    「歩道橋の魔術師」や「自転車泥棒」の郷愁漂う趣とはかなり異なる味わいの物語に少し驚く。現実に仮想を投映した文明批評という印象に先ず染まる。少し警戒しながら読み進めると、じわじわと印象は変化する。もちろん、読み手によってはこの本を環境問題に意識の高い著者の人類に対する警句と捉えてしまうことも出来るのかも知れない。だが、架空の島に暮らすワヨワヨの人々の自然と対話するように生きる暮らしと都市化による数多の歪を抱えて台湾に生きる人々の暮らしぶりの対比に、正反対の生き方をしているようでいて本質的には命が命を生贄にしてしか永らえることができないという点において変わりはない、という託(ことづ)けを読み取る。その生き永らえる術に対する単純な正誤の判定を呉明益は下している訳ではないように思う。

    例えば最近流行の持続可能な開発目標というやんわりとした標語の究極的に意味するものと、月齢百八十か月を越えた次男は島を離れなければならないとする具体的な孤島の定めは、思想としては同根のものである。一つずつの決まりごとに対して様々な視点があること、そのことを何よりも呉明益は丁寧に描いているように思う。例えば、先住民族の習慣に対する距離感。捕鯨やアザラシ漁に対する考え方。多くの登場人物が語る幾つもの話はどれも慣習のもたらす功利とその弊害という究極の選択の狭間で揺れる価値観を示すもの。決してそれは単純に土木工事がもたらす自然破壊を凶弾するような物語でもなく、自然回帰奨励の話でもない。

    複眼人もまた架空の存在ではあるが、そのような多義的な意味を見つめる神の視点を持つ存在として描かれるのは象徴的だ。『傍観するだけで介入できない、それが私が存在する唯一の理由である』と死にゆく登場人物の一人に告げる複眼人は、必然的に一神教の神の存在を思わせる。自然の中に数多の超越的な力の存在を認める架空の島の信仰や台湾の伝統的なアニミズム的民族神話も描きながら、この架空の存在を作家が登場させる必要があったのは、自らの生に執着せざるを得ない人間に他者の存在を認めさせることが出来るのは、ひょっとすると自然信仰に根差した多神教の神々のような存在ではなく、一神教の神だけなのかも知れないと作家が捉えているからなのかと、ぼんやり考えたりもする。アルファであり同時にオメガである存在とは、全ての集合を含む集合のように矛盾した存在ではあるけれど、その不合理性を受け入れることこそ他者を認めるということの端緒なのかも知れない。

    一方、多くの主人公たちのエピソードが輻輳的に語られながら物語が進行する本書には、幾つもの謎解き的な要素が含まれてもいる。その謎の一つが解ける時、読者は存在するということの意味を自身に引き寄せて今一度深く考え直すに違いない。ある意味、この一つの謎解きは(決して完全に解き明かされたとは言えないけれど)本書の後に執筆された「歩道橋の魔術師」や「自転車泥棒」に続くやや幻想的な郷愁の色濃く漂う物語と同じ趣向のエピソードだ。その根底にあるのは喪失ということへの強い抵抗であるようにも思う。思わず、「歩道橋の魔術師」の中の中華商場をジオラマで再現し続ける男のエピソードを思い出した。

  • 歩道橋の魔術師、自転車泥棒と趣がずいぶん異なるファンタジーのような作品。また、呉明益を日本に紹介したのであろう最初の翻訳者天野健太郎氏が亡くなっていたとも知らなかった。
    小さな孤島ワヨワヨ島で詩的な言葉を操り文字を持たない人々、次男の魂はクジラに姿を変え涙を流す世界からやってきた少年アトレ。海洋汚染で形成され台湾に流れ着いたゴミの島。プラスチックがウミガメを殺し、人は人間の子供のような目をしたアザラシを殺し皮を剥ぐ。環境破壊をテーマにしたファンタジーといった小説。自然と共存するワヨワヨ島の描写が魅力的で現代社会との対比が効いている。

  • 要約できない、気持ちと空気の匂いのかたまりを渡される小説。環境保全が話全体を貫く大きな柱になり、登場人物たちのさまざまな喪失の傷(塞がったものも、血を流し続けているものも含めて)が語られる。

    傷を抱えた彼らが当面の間はそれぞれに生きていく予感をもって話は終わるけれど、人を決定的に変えてしまった取り返しのつかなさもあり、それが遠くない世界の終わりを感じさせる。もう世界は元に戻らないと感じるのは自分が諦めているのかもしれない。

    台湾が小さな島なのだと認識したことがなかったことにも気づいた。「取り返しがつかなくなる前に訪ねたい」と思ってしまった諦めモードの自分を恥じる。


  • 死が多く、災害が多いこの国とこの本の世界はシンクロしているよう。

  •  これをSFのジャンルの作品とするなら、昨今、大陸側で話題の『三体』が思い浮かぶ。
     一方、こちら台湾の作家呉明益によるお話。同じ漢字を使う文化圏 ― 実に雑な括りだけど ― の作品として較べるなら、明らかに本作のほうが好みだ。

     冒頭、“日本の読者へ”というサービス的なパートが追加されている。その中で、人類学者のクロード・レヴィ=ストロースの言葉と、「物哀しい」という日本独特の言い回しを引き合いに、日本語の美学的な表現と、音や情景の描写の豊かさを讃えている。そして自身について、

    「私は情景や五感で感じた気持ちの描写に時間をかける物書きだ」

     と語る。言葉の意味の区別に音の高低を用いる声調言語を操る中国語圏(これも雑に広い意味で)の作家が、声調言語でないが「声調文明である日本語」(byクロード・レヴィ=ストロース)に翻訳され謝意を表してくれているだけでも親近感が湧くというもの。

     お話は、神話の島から追放された少年アトレにまつわるプリミティブな寓話的なストーリーと、海洋に浮かぶ巨大なゴミの島という現代の環境問題に否応なしに思い至る仕掛けに、海と山、地震と津波といった自然現象に翻弄される大学教授の女性や台湾先住民の姿を、個々に丁寧に紡ぎ、大きなスケールで人間の運命が描かれている。

     きっちり分かりやすく起承転結があったり、原因と結果、伏線とその回収といった展開は見られないが、多くの登場人物が、同じ時間帯をそれぞれの場所で過ごす人生が、それぞれが背負った過去と共に綴られる筆致が、実に多元的なのであった。

     神話、ファンタジー、自然科学と、いくつかの要素が盛り込まれた欲張りな背景からは、ジブリ作品や、映画、幻想的な設えが村上春樹をも彷彿させる。映画は、特に、エイリアンと意思疎通を図ろうとする言語学者の奮闘を描いた『メッセージ』(ドゥニ・ビルヌーブ監督 2017US)を思い出させるのは、神話の島のからやってきたアトレと大学教授アリスが交流を図ろうとする話が、ひとつの軸として語られるからだろうか。

     最後に、Bob Dylanの”A Hard Rain’s A-Gonna Fall”が引用される。
     先日読んだ、オードリー・タンの自伝エッセイでも、最後にカナダのシンガーソングライター レナード・コーエンの「すべのてものにはヒビがある。そして、そこから光が差し込む」と言う詩の一部を引用し、ヒビ=不備、歪みの中から見出せる希望に言及していた。
     台湾では、こうした歌詞の引用で、話の印象を深める手法が一般的なのか、あるいは流行りなのか。

     “激しい雨が今にもやってくる”と、半世紀以上も前のクラシカルな曲の歌詞に、近未来の予言が含まれていたかのような思わせぶりも悪くはなかった。

  • ゴミでできた島が存在することを知らなかった。日々生み出す廃棄物に少しでも目を向けてみれば、それらの行き着くひとつの帰結が「海に浮かぶゴミの島」だと判るのは簡単だろうに、想像したことがなかった。怠慢だと思う。きっとこうした怠慢が無数にあり、その危うい土台の上に自分の生活が乗っかっている。小説は娯楽だが、読者の知らない世界を教えてくれるという素晴らしい効用がある。本作は私の想像力の欠如を教えてくれた。台湾という美しい島のことも教えてくれる。抹香鯨が死んでゆく場面が、複眼人の流す涙が、とても悲しかった。

  • 海と、山と、時々ネコチャンと。遠くない未来の台湾を舞台とした喪失の物語。大学教授で物書き志望のアリスを主人公に、アトレやトム、ダフやハファイ、さらにデトレフとサラなど、たくさんの人々が渦を巻き、現実と空想との境界を越えて物語がパッチワークの様に紡がれる。海と共に生きるワヨワヨのアトレ、山に魅せられ山消えたトム。アリスはそれぞれと繋がりを持ち、そしてまた失っていく。トトも果たして…。俯瞰的な場所から複眼人の見るこの世界はどう映っているのだろうか。静かな雨の日に読みたい一冊。

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著者プロフィール

1971年台北生まれ、小説家、エッセイスト。輔仁大学マスメディア学部卒業、国立中央大学中国文学部で博士号取得後、現在、国立東華大学華語文学部教授。90年代初頭から創作を行い、短篇小説集『本日公休』(97年)で作家デビュー。2007年、初の長篇小説『睡眠的航線』(本書)を発表し、『亜州週刊』年間十大小説に選出された。以降、80年代の台北の中華商場を舞台とした短篇小説集『歩道橋の魔術師』(白水社)やSF長篇小説『複眼人』(KADOKAWA)、激動の台湾百年史を一台の自転車をめぐる記憶に凝縮した長篇小説『自転車泥棒』(文藝春秋)など、歴史とファンタジーを融合させたユニークな作品を次々と発表している。国内では全国学生文学賞、聯合報文学小説新人賞、梁実秋文学賞、中央日報文学賞、台北文学賞、台湾文学長篇小説賞、台北国際ブックフェア大賞などを相次いで受賞、海外では『複眼人』がフランスの島嶼文学賞を獲得、『自転車泥棒』が国際ブッカー賞の候補にノミネートされるなど、その作品は世界的に評価され、日本語、英語、フランス語、チェコ語、トルコ語など、数ヶ国語に翻訳されている。

「2021年 『眠りの航路』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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