- Amazon.co.jp ・本 (257ページ)
- / ISBN・EAN: 9784041083017
感想・レビュー・書評
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「いのちの初夜」を始めとする8編。
北條民雄はハンセン病に罹患し、療養所に入所してから創作活動を始めている。収録作すべてがハンセン病を患った自分の視点や他の患者の視点から綴られていて、療養所内で目の当たりにする人間模様や「いのち」についての葛藤が描かれている。ハンセン病については皮膚がただれてくる、目が見えなくなる、感染力は弱いが家族内感染が多い、ぐらいしか知識がないまま読んだ。
想像をはるかに超える苦しみや痛み、生きることに対しての切実な嫌気。「いのちの初夜」の佐柄木の言葉がすべてだと思った。
「ね尾田さん。あの人たちは、もう人間じゃあないんですよ」
「人間じゃありません。尾田さん、決して人間じゃありません」
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言うこと、解かってくれますか、尾田さん。あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったのです。ただ、生命だけがびくびくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那に、その人の『人間』は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡びかたでは決してないのです。廃兵ではなく廃人なんです。けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得するとき、再び人間として生き返るのです。復活そう復活です。びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは今人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。一たび死んだ人間の過去を捜し求めているからではないでしょうか」
ちなみに差別を恐れて遺族が本名を公開していたかった著者の本名が、阿蘇市の20年の説得を持って、2014年ついに公開されたということです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「いのちの初夜」北條民雄著、角川文庫、1955.09.15
257p ¥483 C0193 (2023.03.07読了)(2023.03.03借入)(2002.05.25/44刷)
【目次】
いのちの初夜
眼帯記
癩院受胎
癩院記録
続癩院記録
癩家族
望郷歌
吹雪の産声
あとがき 川端康成
北條民雄の人と生活 光岡良二
年譜
(「BOOK」データベースより)amazon
しみじみと思う。怖しい病気に憑かれしものかな、と―。若くしてハンセン病を患った青年は、半ば強制的に収容施設に入所させられる。自分の運命を呪い、一度は自殺すら考えた青年を絶望の淵から救い出したのは、文学に対する止めどない情熱だった。差別と病魔との闘いの果て、23歳で夭折した著者が描く、力強い生命の脈動。施設入所初日のできごとを克明に綴った表題作をはじめ、魂を震わす珠玉の短編8編を収録。 -
ハンセン病を患った著者による作品。
隔離され、重病になりながらも人間ではなく
「いのち」として生きていく人々が描かれている。
「日本書紀」にも記録が残っているハンセン病、
明治時代に隔離政策がとられるようになり人権が
侵害されるようになる。1996年に「らい予防法」廃止。 -
ハンセン病がまだ不治の病で、患者が隔離されていた80年近く前に書かれたもの。
著者自身もその病により、「いのち」「生きる」ことと真っ向から対峙しなければならなくなった絶望と苦悩のなかで描かれた作品が8作収録されている。
患者たちの追いこまれた、あまりにむごく、孤独で絶望的ないのちの時間は、想像すらかなわない厳しい日々で、ここで何と表現すべきかわからない。
作品中に何度も出てくる、人間という存在を越えたいのちそのものがここにいる患者たちだ、という言葉が、終始心を貫いて離れない。
心を鷲掴みにされるような感覚を味わったのは久しぶりだ。
表題作の、主人公(著者自身の療養所入所の初日の思いそのままが投影されている)の自殺したいが生きてもいたいという葛藤は、たぶん本当にその思いに駆られた人物にしか描けない生々しいものであった。
表題作のほか、太市という少年を描いた「望郷歌」と、死の床に瀕した患者が入院女性の出産を待つ「吹雪の産声」が印象に残っている。
蛇足だが…この装丁はちょっといただけない。 -
コロナの時代、人なみにコロナに罹り、社会から切り離されかけたように感じた。その感じを、時代を超えて共感できた。
一方、この表題である「いのちの初夜」として描かれるものは、正直、まだわからなかった。おそらくもっと深い体験をしないと理解できないのかもしれない。
「死ねると安心する心と、心臓がどきどきするというこの矛盾の中間、ギャップの底に、何か意外なものが潜んでいる」、「人間ではありませんよ。生命です。」、「新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得するとき、再び人間として生きかえるのです。」 -
ハンセン病の尾田が病院に入った初夜、佐柄木との対話の中で生と死を見つめ直す話。
授業でしぶしぶ読んだ本だったが、衝撃的で、色々な意味で感動した話だった。
ハンセン病で体が崩れていく自身とハンセン病の患者達が尾田の視点で語られる形の話で、そのハンセン病の実態とその患者の気持ちが、ものすごい表現力で語られていると感じた。
生きること、死ぬこと、がハンセン病患者という全く違った視点から語られることで、私自身も生きることについて深く考えさせられた。
「ハンセン病患者は人間ではない、生命、いのちそのものだ。」「ハンセン病患者の人間は既に死に、生命だけが生きている」という言葉がとても刺さった。
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もし自分が不治の病になったらどうしよう、という不安はふとした時によぎるのでないでしょうか。まだまだやりたいことがあって、できるはずなのに、社会から放り出されるのは心と体を引き剥がされるようなもの。それはハンセン病でなくても同じだろうなぁ。隔離された病院はひとつの村のようで生活がそこにあるというのが意外で自分の無知を知る。
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高知・阿南出身の作家。多摩全生園にいたという。2017/12/02 08:24 (TBSラジオ「人権トゥデイ」にて前山記者より)
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「癩」の発病により二十一の時、東京都下東村山の癩療養所全生病院(当時)へ入り、わずか二十四で、腸結核によりその生涯を終えた北條民雄。その入院最初の一日を書き記した「いのちの初夜」で記録されている一人ひとりの姿を、同じ年頃に目の当たりにし、そこで生きた彼のことを、なんとも言えず。「患者」を記すその表現からは、その若さが所以の、ウチともソトとも言えない立ち位置からの思いが感じられる。