- Amazon.co.jp ・本 (496ページ)
- / ISBN・EAN: 9784041092453
作品紹介・あらすじ
1984年、世界は〈オセアニア〉〈ユーラシア〉〈イースタシア〉という3つの国に分割統治されていた。オセアニアは、ビッグ・ブラザー率いる一党独裁制。市中に「ビッグ・ブラザーは見ている」と書かれたポスターが張られ、国民はテレスクリーンと呼ばれる装置で24時間監視されていた。党員のウィンストン・スミスは、この絶対的統治に疑念を抱き、体制の転覆をもくろむ〈ブラザー連合〉に興味を持ちはじめていた。一方、美しい党員ジュリアと親密になり、隠れ家でひそかに逢瀬を重ねるようになる。つかの間、自由と生きる喜びを噛みしめるふたり。しかし、そこには、冷酷で絶望的な罠がしかけられていたのだった――。
全体主義が支配する近未来社会の恐怖を描いた本作品が、1949年に発表されるや、当時の東西冷戦が進む世界情勢を反映し、西側諸国で爆発的な支持を得た。1998年「英語で書かれた20世紀の小説ベスト100」に、2002年には「史上最高の文学100」に選出され、その後も、思想・芸術など数多くの分野で多大な影響を与えつづけている。
解説・内田樹
感想・レビュー・書評
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ディストピア小説の名作『1984』を初読です
なにやら『オーウェル『1984』を漫画で読む』なんてものが、ひまわりめろんさんの本棚にはあるようですが、あれは一旦なかったことにして頂きたい
大丈夫、問題ない「過去は変えられる」
いやもうなんか自分が生きている世界と本の中の世界「どっちが現実?」って思わせるほどに圧倒的でした
圧倒的な文章で脳がねじ伏せられる
もう拷問に近い読書体験でした
最終的には私もビッグ・ブラザー愛してます(洗脳されとるやないかーい!)
はい、最後に訳者田内志文さんのあとがきから非常にハッとさせられたことを引用します
『新訳』ならではの現象なんですが、初めて邦訳されたとき「hate」は多少の違和感を残しつつも「増悪」と訳されていたんです
それがこの『新訳』では「ヘイト」と訳されているんですね
それは日本社会に「ヘイト」が定着しているからで、そのことについて田内さんは以下のように書いています(以下「あとがき」から引用)
〜「ヘイト」はポリティカルな意味合いを持つ外来語として日本に定着し、「増悪」との間に明確な意味の違いができたといえる。今やSNSを覗けば目にしない日がないほど頻繁に使われているような常用語となったわけだが、このような新たな概念や、「ヘイト」という言葉で表すべき感情、そして行動が日常的なものとして浸透したというのは実に悲しい事実だと感じさせられてしまった。〜
全くその通りです -
1948年に書かれているのにいまでも通用する内容で先見の明がある 海外の作品は翻訳するとどうしても本来の文学的な微妙なニュアンスが落ちてしまうとおもってあまり読まないが、これはこれだけ歳月が経っても読まれているだけあって読む価値がある
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監視社会を描いたディストピア小説。『ビッグ・ブラザー』が支配する世界では、寝言や表情、頭の中までもが徹底的に監視下に置かれ、過去も都合のいいように書き換えられてしまう。こんな状況の中でとうてい生活できるものではない。読んでいるだけでも、常に誰かから見られているという息苦しさでだんだんと辟易してしまうほどだ。前半は動きがあまりなくまだマシだったが、後半はかなり過酷な展開へと変貌をとげる。とにかくはやく解放されたい、そんな気持ちにさせられる読みごたえ十分の重たい小説だった。
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「予言の書」としての『1984』 - 内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2021/04/27_0844.html
1984 ジョージ・オーウェル:文庫 | KADOKAWA
https://www.kadokawa.co.jp/product/321912000045/-
2021/05/03
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goya626さん
マグリットの「人の子」。タイトルとは違い顔が見えないのが、非人間的でオーウェルにピッタリ!goya626さん
マグリットの「人の子」。タイトルとは違い顔が見えないのが、非人間的でオーウェルにピッタリ!2021/05/03 -
2021/05/04
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名作は読んでおかないとと思い以前にハヤカワ版を手に取ったことがあるものの序盤で挫折してしまっていた1984(ハヤカワ版では一九八四年)。新訳が出ていたことを知って読み始め、前半はそこそこ時間はかかったものの、無事読破。
全体主義国家が統治、監視している社会を描いたディストピアもので、国家を支配する党に対して密かに疑問を持ち反感を抱いているウィンストンが主人公。
中盤までは退屈に思うこともあり面白かったとまでは言えないが、これが1949年に刊行されたことも踏まえると名作と言われることにはとても納得。現代にある一部の監視国家のことを予言しているかのようだった。
その中では、言葉の幅を狭めていく(ある単語を無くしたり、ある単語の意味を削ったり)ことで国民の思想の幅を狭めるという設定が面白かった。その手法を解説している「ニュースピークの諸原理」が本編後に付録として付いているがそこまで練られていることに感動した。
暗い内容ではあるものの、他のディストピア作品にも触れたくなった。 -
以前から読もうと思いつつ後回しにしてきた作品。
前半「気送管」とういう言葉が出てくる。主人公の机まで筒状に丸められた書類を「送る」ための管らしい。これ、何かの映画で観たことがある。「情報が流れてくる管」だ。以後、初めての作品なのに、いろいろな場面で既視感があった。自白を強要するための拷問や、全体主義の恐ろしさなどを描いた各映画の各場面が思い浮かんだ。直接的ではないにせよ、「1984」は広範囲にわたって影響を及ぼしているのではないか。
本書の刊行は1949年。その時点で「1984年」という未来を描いているという。最初錯覚があった。今自分が読んでいる2023年よりも先の話に思えたのだ。「テレスクリーン」がネット画面の進化形に見えるし、人の気持ちまでくみ取る機能がAIの作業にも思える。
また、未来である1960年代から1970年代に大粛清があったこと、国の上層部だけが富を独占し大多数の国民が貧しいこと…。地域によってはすべて現実ではないか。著者の予知能力のすごさに震えがくる。
おそらく1984年に読んでも震えるだろうな。その当時読んだらどんな読後感になっただろう。若き日に読まなかったことを少し後悔した。 -
「現実」は「真実」と言えるか、
「現実」は操作されていないと誰か自信を持っていうことができるか
ナショナリズムの醜さと利用する為政者の見え透いた嘘、それを実現させるのは、自ら喜んで操作される立場になろうとするものたちの存在が故。
支持率の高いプーチン
あのトランプを再選しようとするアメリカ国民
兵士や兵器を行進させ自国の強大さを鼓舞し、他国を威圧することが、唯一の手段とする為政者たちがいるのは、そこに熱狂して手を振る国民の存在があるから。
「1984」は1949年にジョージ・オーウェルにより書かれた〈ディストピアSF〉小説の代表作。
作中の「テレスクリーン」による情報操作は「スマホ」に流れる「ネットニュース」や「SNS」からの情報のようで、「小説著述機」「作詞機」などは、現代における「生成AI」を連想させる。
既にハヤカワ文庫で翻訳されたものが、市場に多く出回っており、今更ではあるがカドカワから新訳出版された。
名作だけに「新訳」のたびにその世界観に圧倒される。
特に、終盤の拷問の描写、ウィンストンとオブライエンの問答は圧巻。
「真実は虚偽であり、虚偽こそまさに真実である。」 -
ディストピア作品というのを初めて読みました。こういった作品は社会的な問題や現実の悪化に対する警告や批評として用いられることがあるそうです。この作品も政府の監視と個人のプライバシーの侵害を描くなかで、個人の自由や民主主義の危険性について警告しています。
徹底的な監視や拷問や洗脳などの管理下においても「人の心の中にまで入り込めやしない」とジュリアが言い切ったシーンが印象的でした。彼女はとても強かに生きていて、そんな彼女の態度と言葉にジョージも、読んでいる私も勇気付けられました。
ところが最後の結末。人の心も砕ききって都合の良いように再生させてしまう政府の恐ろしさよ。実際、洗脳ってこういうふうに行われるんだろうなとリアル味がありました。
『夜と霧』の中でフランクルは「生きる希望」を説いていましたが、過酷な状況下でそれを保つのは本当に難しいことなのでしょう。それでも生きる希望を持つ人たちが革命を起こしてきた歴史はあるわけで、その真実に希望を抱きつつ、中国ではごりごりの監視システムが浸透してきているけど...大丈夫なの?と思ってしまいます。
表紙はルネ・マルグリットの「緑のリンゴで隠された男」で、マグリットのコメントによると、「 私たちが見ているものは、一方で他の事を隠してしまいます。私たちはいつも私達が見ることで隠れてしまうものを見たいと思っている。人は隠されたものや私たちが見ることができない事象に関心を持ちます。この隠されたものへの関心はかなり激しい感情の形態として、見えるものと見えないものの間の葛藤となって立ち合われるかもしれない。」
ジョージが「方法はわかるが理由がわからない」と情報を得ようとするところとリンクしています。 -
全体主義国家によって分割統治された近未来世界の恐怖を描いた、ディストピア小説の金字塔ともいえる名作。
1950年に出版されたので、その時から30年後の世界であるわけだけど、2020年の今こうして読んでもすごく”新しい”と思わせてくるところに、この小説のもつ魅力があるのだと思う。きっといつどの時代に読んでも、「こうなるかもしれない」という寒気を伴う予感をはこんできてくれる。自由がなくなるのではなく、自由という概念そのものが無かったことにされる世界。
主人公のウィンストンは真実省記録局の下級役人として、歴史資料の改竄業務を行っている。
スローガンは【過去を支配する者は未来を支配する。今を支配する者は過去を支配する】。
こうしたイングソック理念のもと思想警察の監視によって厳しく思想統制される社会の在り方に疑問を持つウィンストンは、反政府組織〈ブラザー連合〉の存在に希望を抱きながら、真実と記憶を留めるため密かに日記をつけている。
味方か敵か分からない人々との危うい交流を深め、姿を消された革命家・ゴールドスタインによって書かれた禁断の本を入手し読み耽るところで、物語は急転直下。
どうしてかは分からないけど、私は読みながら希望のある結末を思い描いていたんだよね。味方は実は大勢いて、彼らと結託して明るい未来を開拓してくれると。
最後まで読んで半ば放心状態で本をとじ、なんて平和ボケしていたのだろうかとショックを受けた。象徴であるはずだった美しい悠久の珊瑚は、いとも容易く砕け散ってしまった。
「ビッグ・ブラザーが見ている。」
なんだかこの言葉が、昨今のコロナ禍で聞き覚えのあるような気がしてならない。新しい生活様式、ソーシャル・ディスタンス、コロナ自警団、自粛警察、五輪強行、耳に新しいワードが脳裡に浮かんでは消えていく。
これらと全体主義とを結びつけて考えるわけでは決してないけれど、でも現在の一人一人の行動原理が社会の同調圧力を強めていって、やがてその先に生まれ得るものを想像すると、この本を読み終えたばかりの私は幾分言葉に詰まる。恐るべきドアが遠くにぼやけて見えるような、気がするような。
それだけ多様に受け止められる物語ってことやんな
それだけ多様に受け止められる物語ってことやんな