- Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
- / ISBN・EAN: 9784041099421
作品紹介・あらすじ
万葉集から、方丈記、江戸の役者絵、正岡子規まで。古典籍をひもとけば、古の人々がどう病と向き合い、苦しい状況の中で希望を見出していったのかがわかる。歴史を学び、現代の糧とする文庫書き下ろし!
感想・レビュー・書評
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編著はロバート・キャンベル。
本書編集のきっかけは、2020年4月、新型コロナウイルスによる緊急事態宣言下で、国文学研究資料館の館長である編著者が配信した動画である。職員が在宅勤務となり、がらんとした書庫の中から、古和書について、また、古和書に描かれた感染症について語るもので、2022年1月現在でも視聴可能である。
この動画を見たKADOKAWA編集者の発案で、コンセプトを発展させ、各分野の研究者から書き下ろし論文を寄せてもらうこととなった。14人の研究者が、日本古典と感染症に関わるトピックスについて紹介している。
「万葉集」、「源氏物語」、「方丈記」、「徒然草」から、明治近代文学までと時代も幅広い。
感染症=疫病はもちろん、古くから存在していた。だが、何が病気を引き起こすのかはわかっていなかった。目に見えないものが害をなすとなれば、原因は祟りであったり怨念であったりする。ならば、薬だ医者だというよりも祈祷や祈りに頼ることになる。
「万葉集」を読み解くと、感染症とその背後にあった(と考えられた)ある人物の「祟り」の影が見えるという。
「今昔物語集」には流罪となった公卿が疫病神となって都に現れる(巻第27、第11)。
「源氏物語」で源氏が紫の君と出会うのは、源氏が瘧病(わらわやみ:現在のマラリア)を患い、加持祈祷をしてもらうために訪れた北山でのことだった。
時々、訳の分からない病気が流行り、人々はおまじないをしたり、神や仏に縋ったりする。
中には激しい話も。一向に流行り病を収めてくれない神像に怒り、像を川に投げ捨てたら数日のうちに疫病が止んだ、などというエピソードが伝わる(「延宝伝灯録」)。いや、それは像とは関係なく、ただ時が経って感染が収まったのだろうと思うが、病も気からというから、意外にそういう気合は大事なのかもしれない・・・?
原因がわからないものであれば、流言飛語も飛ぶ。鬼が出たという噂が出て数日後に疫病が流行れば鬼のせいだということになる(「徒然草」第50段)。けれど、それは鬼を見ようと人だかりが出来、その群衆の中に感染者がいたということではないのか・・・?
今から見ればどうなのかと思うことも多いが、一方で、現代にも通じるような話もある。
「養生訓」では、庶民でも実行しやすいように、薬を用いるのではなく、衣食住環境を整え、病気にかかりにくくする方策を解く。これに道徳も加わるのが儒学者でもあった著者・貝原益軒の特色。
疫病をもたらす鬼を伝奇小説に登場させて娯楽作品に仕上げた曲亭馬琴。それを楽しむ庶民もなかなかすごい。
現代でも演劇などの公演中止が相次いでいるが、江戸末期、コレラや麻疹が流行した時期にも芝居の中止はあったとみられる。役者見立絵は、歌舞伎役者がある芝居を演じたと想定して、名場面に当てはめて描いたものである。こうした絵の制作時期は疫病が流行った時代と一致するようだ。
疫病にやられてしょぼくれているばかりではない、庶民のしたたかさを感じさせるのが、幕末の戯れ歌。
「ないない尽し」
さてもないない是非がない 病の流行とめどがない 一時ころりで呆気がない(中略) 死んだ話は聞きたくない それでも寿命は仕方がない 医者のかけつけ間に合わない せわしいばかりで薬礼ない こんな詰まらぬことはない(後略)
と何だか不謹慎でもあるが、やけくそ混じりに笑ってしまおうという強さもにじませる。
近代の話題では、夏目漱石と腸チフスの考察、森鴎外が実は結核だったのではないかといった話が興味深い。
全般に、原文に適宜、現代語訳が添えられ、読みやすい作り。古典の奥深さを感じさせる。
現代のコロナ禍、かつてよりは感染症に関する知識も増えているとはいえ、まだまだ未知のものと闘っている側面は強い。
流言飛語に惑わされ過ぎず、時にはユーモアとゆとりも持って、落ち着いて対処していくことが大切であるのかもしれない。 -
読了までに随分時間がかかってしまった。
最初のロバート氏の全体の概論的話が個人的には一番難解だった。
ロバート氏、日本語堪能すぎだろう。
万葉集の時代から森鴎外、夏目漱石の時代までの感染症についてを古典文学や文章として残された記録、果ては浮世絵などの絵画にまで言及した一冊。
さすがソフィア文庫、内容が濃い。
驚いたのは、ころり=コレラ、この言い方が、コレラが訛った訳ではなかったという話。
コレラという名前は一部の蘭学者の間でしか知られておらず、元々あった「ころり」という言い方をその病気の通称としていたとのこと。
そうなると、音が似ていたのは偶然の一致ということに。
驚きである。
あと印象深かったのは、「ないない尽くし」
本文にもあったが、是非声に出して読みたい一節だったと思う。
「ああ、こんな時代だったね」とコロナ禍も笑い飛ばせる時代が早くきて欲しいものだ。 -
最初のキャンベル氏の文章が美しくて、引き込まれた。歴史上何度も繰り返されてきた感染症との闘い(といっていいのだろうか…)は医学だけではなく文学や美術にも当然影響を与えてきたのだ、ということを改めて感じた。そして「文字」という装置を用いることで私たちは感染症(疫病)や災害の一部を追体験あるいは疑似体験することができ、また後世に知識を繋いできた。取り上げられている「文学」に封じ込められた感情や主観は今の私たちにも通じるものだと思うし、だからこそ心に迫る。
万葉集に隠されている仕掛け(私にはちょっと考えすぎのようにも見えるけれど面白かった!)について読んでいると、人智を超えた何かに接した時人は理由を求めるものなのだな、と思った。祟り神や疫病の神といった存在や、無念の死を迎えた高官の怒りという形をとった追いやったあるいは傍観していた側の後悔であったり、特定の誰か(皇帝など)の徳の無さというものであったり。精神的な理由づけのほかに、対処方法を蓄積し共有してきた長い長い歴史の片鱗に触れることで、なんとか生き抜いてきた人類のしぶとさを思う。
天然痘は歴史的に何度も大流行してきたけれど、人類が唯一撲滅し、現代の私たちが知らない病である、というのは、こうした知識や経験、実験から生まれた種痘と、恐れながらも少しずつ受け入れて種痘を受けた人たち、普及に努めた人たちがあってなのだな、と思う。昨今大流行している疫病への対処方法もこうやって生み出されてきたものの一つであって、現代の混乱もおそらく何度も繰り返されてきたのだと思う。遠い未来に「その時日本では…」というように分析されることも含めて私たちは繰り返していくのだろうし、そこから何かが生まれてくるのだと思うと、なんだか不思議で面白い。
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p.8〜
日本文学の中の感染症の痕跡
p.10〜
「災害」と「疫病」の関係
p.17
「夜の街ーー定義も曖昧なこの言葉を英語に訳すのは困難です。けれど、日本の中ではその意味が瞬時に理解されました。そこには江戸時代の感覚が生きていると思います。(略)」
p.24
「その人の窮するも全く天時の変によりて然らしむるなり」
p.29
この死亡率は十四世紀半ばにヨーロッパを襲った黒死病の数値に匹敵するともいう。(天平期に藤原不比等の4人の息子たちの命を奪った大流行期)
p.33
長屋王の遺児ばかり五名が召し出され、天皇臨席のもと階位を授けられたのだ。
p.84〜
「き」「けり」をかなり厳密に区別する。鴨長明は『方丈記』の中に記した養和の飢饉の中で「けり」(伝聞、間接的な経験)を用いた箇所がほかに比べて突出して多い。
p.113〜
大事件とデマ。現代でもSNSによって拡散されて問題になることがあるが、それは昔から変わらないようで、兼好法師が書き残している。面白いのは江戸時代。大商人が集まる本町や両替町では流言に惑わされる人が少ない、という記述が残っていること。
p.199
貝原益軒は朱子学を奉じた儒学者。養生を「人として守るべき徳目」と位置づけている。孝(父母や先祖に対する徳目)と天地を結びつけ、かなり広い概念として背景に持っている点も面白い。学者が実践的養生法を記した書『養生訓』が現代まで読み継がれていることも面白い。医師の養生書ではないのだ。当時の医学は西洋医学と出会っていたのだろうか。当時の学問の根底には大陸で生み出された学問があって(四書五経とか儒学とかなのかな?)さまざまな学問と線で繋がり、大きな流れになっているように感じていて(ホントのところはどうなんだろう)その中の一部に「健康」を位置づけているのは、不思議なようで当たり前のようで、現代の学問体系との違いもまた面白い。
その辺気になるんだけど、歴史が長いし奥が深すぎるし範囲も広すぎて、手を出すのに躊躇しちゃう。
p.201
そもそも本草学を志す人は、広く行きわたった知識を持ち、多くを聞き、多くを見て…(略)
p.262
当時は未知の疫病であったコロリ(コレラ)を既知の妖怪に擬えようとしていた。知らないものは怖い。得体の知れない恐怖から、恐怖だけれど知っているものへの置き換えは、現代でも起きていたと思うし、恐らく今も続いているのではないだろうか。現代では「未知」を解明しようと世界中で取り組み少しずつ解明され、その知識は広く共有できる状態であるにも関わらず、当時と同じことが起きてるという…ヒトはそう簡単には変わらないのかもしれない。
p.266
小倉擬百人一首
先日、幸運にも観る機会に恵まれた。「あ、あれ観た!」が本で読む内容とリンクする面白み。「見立て」の表現様式の面白さを感じられるほど江戸の文化を知らず、深い鑑賞に繋がらなかったのは残念だった点。 -
読み解くの難しかった。
何度も感染症の流行があって、「距離を取る」対処とか今に通じるところがあって面白かった。隣町まで移動してたとか印象残る。 -
・またコロナ関連である。かういふ時である、出版界も際物狙ひでいろいろと出す。そんな1冊(だと思ふ)、ロバート キャンベル編著「日本古典と感染症」(角川文庫)である。しかし、本書は単なる際物では終はらない。編者は国文学研究資料館の館長であつた人である。その、言はば配下に書かせてなつたのが本書である。総論を含めて古代から近代、つまり万葉集から鴎外、漱石までを網羅する15編を収め る。感染症は感染症である。コロナだけではない。それゆゑに、こちらのイメージといささか外れる論文もある。まとめ方もそれぞれである。それでも、「生をむしばむ影に一条の光を見出す読者が一人でも多くページをめくって下されば幸いです。」(キャンベル、 27頁)と始まる。
・私が最もおもしろいと思つたのは木下華子「『方丈記』『養和の飢饉』に見る疫病と祈り」であつた。鴨長明の生きた時代は大変な時代であつた。大火、辻風、飢饉、地震、長明はこれらを実際に経験した。私は気にもしなかつたのだが、実は助動詞の使ひ方に問題があつた。過去の「き」「けり」である。「方丈記」ではこれが書き分けられてゐるといふ。「過去・回想をあらわす場合、作品全体 における『き』の使用量は『けり』の二倍以上に及ぶ。」(85頁)ごく大雑把に言へば、「き」は経験過去、「けり」は伝聞過去である。「方丈記」では経験過去の「き」が中心であつた。当然である。逆に「『けり』が用いられるのはすべて五大災厄、すなわち 『方丈記』執筆からおよそ三〇年前の出来事を振り返る箇所である。」(85〜86頁)これはいかなることを表すのか。すなはち、 自らの経験でないことを伝聞によつて書いたといふことである。しかも上記災厄中で「『養和の飢饉』は明らかに特殊である。」 (86頁)養和の飢饉では「けり」の使用が多いのである。この時、長明は飢饉の多くの情報を「直接経験ではなく、間接的に、他者 を介して手に入れ」(同前)たのであつた。私は「方丈記」に書かれたことは長明自らが体験したことだと思つてゐた。さうではなか つた。長明はいつ果てるともしれぬ飢饉の中で自ら情報を求め、それをもとにして飢饉の様を記述したのであつた。「直接体験による見聞でないからといって、非難すべきことではない。」(87頁)とわざわざ筆者は書いてゐる。これは非難する人がゐた、あるいはゐるといふことであらうか。個人的には、その時代に生きてゐればそんなことは言へなくなると思ふ。誰もが生きることに精一杯であ つたはずだからである。従つて、「方丈記」を書いてゐる時、長明の手に入れた「ふさわしい情報の取捨選択が行われたはずだ」(88頁)といふのはありうることである。人間誰しも都合の良いことは残す。残したくないものは残さない。長明にも残したくない ものはあり、それが記されずに後世まで残らなかつたといふことはあらう。災厄でもあるかもしれない。それがどんなことであつたかと思ふのはいささか不謹慎かもしれない。清少納言や吉田兼好はかくも陰惨な情景を描いてはゐない。しかし、それに類することを経験してゐるはずである。これはどの時代でも同じこと、現代医学も持て余す感染症はまだ多い。まして医学よりも加持祈祷の時代であれば、感染症は不治の病であつたらう。だからこそ情報が必要だつた。飢饉の中、長明は情報を求めて走り回つた。それが「き」「け り」に凝縮されてゐたとは。私も迂闊であつた。過去に限らず、助動詞のことを考へながら読むと、また新しい発見があるかもしれな い。伝聞過去で最後に登場する隆暁法印は、それゆゑに長明に大きな印象を与へた人であつたわけである。 -
面白かったのは、2箇所。
①平安時代物語・日記文学と感染症
疫病を軸に、様々な文学作品が繋がり合っていることを解き明かしてくれる章。『和泉式部日記』と『栄花物語』の内容が『枕草子』と感染症でリンクしていく!面白い!
②近代小説と感染症
夏目漱石、チフスのメアリーの記事を追っかけてたのか!だから作品の随所に腸チフスが絡んできてたのか!!
著者プロフィール
ロバート・キャンベルの作品





