- Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784041099858
作品紹介・あらすじ
江戸は文政年間。足を失い絶望の底にありながらも毒舌を吐く元役者と、彼の足がわりとなる心優しき鳥屋。この風変りなバディが、鬼の正体暴きに乗り出して――。
「あたかも江戸時代をひらひらと自在に泳ぎまわりながら書いているような文章。こんなにぴちぴちした江戸時代、人生で初めて読んだのである。脱帽!!」(森見登美彦氏)
「早くもシリーズ化希望!」(辻村深月氏)
「作品の命というべきものが吹き込まれている」(冲方丁氏)
と、選考委員全会一致の圧倒的評価。
傾奇者たちが芸の道に身をやつし命を燃やし尽くす苛烈な生きざまを圧倒的筆致であぶりだした破格のデビュー作!!
■「大傑作!!江戸という時代と場所、芝居の世界のバーチャル体験として見事」(ライター 吉田大助)
■「現代の戯作者としての力量を秘めている。とんでもない新人が登場したものだ。今年度ナンバーワンのベスト本である。」(評論家 菊池仁)
■「江戸の景色が浮かんでくるような文章のセンスは驚異的である。」(ミステリ評論家 千街晶之)
■「これで新人!?ぜひ豪華絢爛な舞台や映画で観たい!」(丸善本店・高頭佐和子)
■「取り憑いたら離れない「鬼気迫る」以上の物語。すっかり呑み込まれ、抜け殻状態。。」(ブックジャーナリスト 内田剛)
■「あまりに興奮して、体が乗っ取られたようになりました」(本の雑誌社・浜田公子)
■「アウトローな存在であり、かつ男女の性別からも逸脱している役者の生理や道徳観念を浮き彫りにしていく展開がスリリング。肚の坐った書き手だ」(書評家 杉江松恋)
感想・レビュー・書評
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「発掘王に俺はなる!」
というわけなんで、なります
発掘王に
発掘王になるために必要なこと
その一つ目は「発掘」をきちんと定義することですよね
辞書によると…
1 地中に埋もれているものを掘り出すこと。「埋蔵金が—される」
2 考古学で、埋もれた遺跡を掘り出す作業。「ピラミッドの—調査」
3 世間に知られていないすぐれた人やものを見つけ出すこと。「隠れた人材を—する」
ということだそう
もちろん3の意味での「発掘王」ですよ目指すは
つまり、あまり世間に知られていないキャリアの浅い作家さんを読み、優れた才能を見い出し、世に知らしめることこそ真の意味での「発掘」なのではないだろうか?
直木賞や本屋大賞や○○賞というラベルに盲信的に追従するのではなく、自分の手で掘り起こし、自分の目で評価を下すのだ!
そう、つまりこれは権威主義との闘いの幕開けでもあるのだ!!(ババーン)
と言うわけで、小説野性時代新人賞の本作を(おい!)
…前置き長いよ!長過ぎるよ!
長くなってしまったので、あらすじのほうはそれぞれで確認して頂くとして
鬼です
鬼暴きです
誰が鬼で、誰が鬼でないのかこの理由付けが素晴らしかった!
テーマ選びと検証方法と結論の導き方が素晴らしかった
うん、でもなんかちょっと興が乗ってくるのに時間かかり過ぎやな〜
なんていうかね、小説も書ける研究者みたいな感じなんよな〜まだ
うわ、偉そう
もっと言っちゃうと肝心の小説の部分がつまらんのよ
でもそれで★4やからね
とんでもない伸びしろがありそうな気がするんよね〜
シリーズの次がもう出てるんで、読んでみるさ詳細をみるコメント27件をすべて表示-
おびのりさん良かった。間違ったかと思って。良かった。間違ったかと思って。2023/08/12
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おびのりさん同じ歳って卯年ってことでOK?同じ歳って卯年ってことでOK?2023/08/12
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ひまわりめろんさんぜんぜん違うわぜんぜん違うわ2023/08/12
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鬼暴きミステリの一冊。
役者六人の中に鬼がいる!
耳に心地良い言葉と共に鬼暴きの幕開けだ。
時々舞うかのようなリズム感のある言葉はもちろん、心の奥にふぅわりと響く言葉を拾い味わいながら鬼へと一歩一歩近づく時間。
次々と暴かれる役者達の凄まじい心意気、本性には圧倒されるほど。
そしてちらりと見える、誰もが心に住まわせる鬼の姿に時折、己を見つけて心はちくり。
人、鬼、男、女その境がゆうらりと混じり合う描き方も美と哀しみ感じる味わい深さ。
魚之助、藤九郎、鬼、愛、心中、せつなさ舞う幕終い。
あぁ、なんか最高の時間やったわ。 -
江戸随一の芝居小屋<中村座>で、鬼が人を喰らいその者に成り代わるという恐ろしい事件が起こる。事件が起きたのが夜のため、一体誰が鬼に取って代わられたのか分からない。
容疑者は現場にいた五人の役者。
鬼探しを依頼されたのは、両足を失った元スター女形の田村魚之助(ととのすけ)と鳥屋を母と営む藤九郎。
魚之助が高慢ちきで意地悪で、藤九郎が売った金糸雀を虐待して、最悪な第一印象。
当然藤九郎も魚之助と行動を共にするのを何とか避けたいと思うものの、上手くは行かない。
そうこうしているうちに受けた、鬼探しという恐ろしく奇怪な仕事だが、魚之助は芝居を見るばかりで聞き込みなどの捜査はもっぱら藤九郎任せ。
当事者である役者連中は勿論、大部屋の者たちも鬼の存在を怖がるどころか面白がっている者が多い。
藤九郎は更に、彼には理解出来ない役者たちの狂気と業を見せられ戸惑うばかり。
澤村田之助を彷彿とさせる魚之助。かつて『足千両』と呼ばれたほどの美しい脚を、客の男に切られた末に足を切ることになったという。
歩けない魚之助を背負って藤九郎は<中村座>を捜査するが、芝居の世界に全く触れてこなかった藤九郎には芝居のため芝居が上手くなるため役者番付を上げるためなら人を足蹴にしたり追い落としたり傷つけたり、あるいは殺してしまうことすら厭わない役者の業が分からない。
終盤まで鬼探しが脇に追いやられて、鬼よりも鬼のような役者たちの姿を見せられていくうちに、読者である私には鬼探しが狂言なのかとすら思ってしまった。
段々鬼探しよりも魚之助の葛藤や苦しみの方に興味が向いて、田之助のように義足を着けて役者に復帰するのかそれとも別の形で役者に戻るのか、更には役者の道を諦めて別の道を模索するのか、そちらが気になってしまった。
魚之助と、彼の心の傷や葛藤を理解できるようになってきた藤九郎との距離が近くなって良いコンビになってきたのは嬉しいが、今度は藤九郎がやけに自分の価値観だけで魚之助を後押ししようとするのにハラハラする。
魚之助は役者なのか役者ではないのか、男なのか女なのか、歩きたいのか歩きたくないのか。そもそもそんな線引をすることすらナンセンスなのだろうか。
最終的に鬼探しに戻ってくるものの、そこがサラッと流されていたのが残念。もう少し鬼について深堀りして欲しかった。
人にあって鬼にないものもあれば、人にも鬼にもあるものがある。そこは興味深いところではあった。
最終的には藤九郎の考えが柔軟になっていく。これぞ多様性か。結果良いコンビだけでなく良い関係になったということだろうか。
藤九郎の母親は存在だけで全く姿を現さないし、オランダ人の血が流れる蘭方医見習いのめるも姦しい三人娘も鬱陶しいだけで終わってしまった。
続編ありきの作品なのだろうか。 -
個人的に読み慣れていないため、初まりは少し取っ付きにくい感じがあったが、芝居小屋での本読みの最中に起きた事件から一気に入り込んでいった。そこから江戸の雰囲気や芝居の熱量や登場人物たちの口調もぐっと親しみ深く感じてきて、空気感や人物像が鮮明になっていった。後はもう最後までハマりこんでしまい、人の欲望や本性を突きつけられつつ存分に楽しめた。言い当ててはいるが追い込み方がなかなかに辛辣な場面もあるので、目を背けたくなるようなことも結構ある。それでも、ひとつのことを追求するが故の容赦の無さや葛藤を存分に味わった。
もし、まだ読んでおらず何も前情報なしで読みたい方はここでそっと閉じてください。
文政時代、江戸随一の芝居小屋である中村座にて、『曽根崎心中』を改変した『堂島連理柵』出演演者6人の本読み最中に黒い塊が転がり落ちる。その瞬間に室内の蝋燭が全て消え、暗闇の中で異様な音だけが響く。すぐに明かりを灯してみると6人とも揃っている。だが、畳には肉片のようなものと生臭い臭いが漂う。暗くなる瞬間に見えたのは人の頭に間違いはない。鬼が人を喰ってその者に成り代わったのではないか?中村座座元は鳥屋の藤九郎と元女形の魚之助に鬼探しを依頼する。
藤九郎と魚之助は鬼探し(犯人探し)のため各役者に不審なところがないか探っていくのだが、それぞれの本性があらわになる欲望うず巻く芸の世界の描写が何とも心穏やかでいられない。芸のためなら何をも厭わない。人の表と裏をたっぷり味わされる。物語の後半では魚之助のある事件の描写が挟み込まれ、過去が明らかになることでより一層この各役者たちの葛藤が強調される。人と鬼の違いは何かと問いながら描かれていることで鬼を常に意識されられ、まさに人でなしは誰だと一緒に考えさせられる。
犯人探しと合わせて、藤九郎と魚之助ふたりの関係性の変化に心奪われる。藤九郎は芝居をあまり知らないため、役者の心情や生き様にあまり理解がない。魚之助は一世を風靡した元女形のため、何をするにも今も常に芸のことから離れられない。このふたりの極上上吉のつながりは、人の良いところに光を当てているかのようだ。次の作品も楽しみになった。 -
大坂生まれの元女形、魚之助(ととのすけ、屋号は白魚屋)は、贔屓の客に足を切られたのが元で膝下を切断。今は役者を引退して優雅に暮らしている。鳥屋(ペット屋)を営む藤九郎は、魚之助に呼び出されては、足代わりとばかりに背負わされている。
江戸誠一を誇る芝居小屋、中村座に呼び出された魚之助(+藤九郎)は座元から、演者に紛れた鬼の正体を突き止めるよう依頼される。お芝居の演目は「曽根崎心中」を幕府に睨まれないようアレンジした「堂島連理柵」(どうじまれんりのしがらみ)。夜遅く、主要な演者六人(尾山雛五郎(桜羽屋)、佐野由之丞(玉枡屋)、初島平右衛門(京谷屋)、岩瀬寅弥(虎田屋)、三つ谷猿車、花田八百吉、)が集まって台本読みを行っていたところ、突然蝋燭の火が消えて、光る目玉2つ、「ぱきり、ぽきり、がじごじ、ちゅるちゅるり」と鬼が人を喰らう音。それ以来、役者の1人を食べた鬼がその役者に成りすましているのだという。演者から聞き込みを始める魚之助・藤九郎コンビ。「さあ、鬼暴きの幕が開くで」。
藤九郎は、芸に魅せられた演者たちの凄まじいプライドや嫉妬心・羨望に触れ、役者の心の中に鬼が棲んでいることを知る。「芸のためなら、人なぞ捨てられるくらいの。芸のためなら芸者を騙しちまえるような、芸のためなら己の足を腐らせちまえるような、芸のためなら人を殺せちまえるような、そんな役者になりてえんだ」(by 寅弥)
そして意外な結末。
江戸時代の芝居小屋、そして役者たちの生業や雰囲気をたっぷり味わうことができた。ミステリーとしても結構面白かった。男として生きるべきか、それとも女としても生きるべきか、性に悩む1人の男の物語として読んでもいい。
陰間から女形になり、上方から江戸に下って大成した魚之助。「江戸文化から見る 男娼と男色の歴史」を読んでてよかった。ドンピシャだったな。 -
時は文政、所は江戸。『堂島連理柵』という新作台本の前読みを役者六人で車座でおこなった際、輪の真ん中に誰かの頭がごろりと転げ落ちてきたという。しかし役者の数は変わらず、鬼が誰かを食い殺して成り代わっているのは間違いない。そこで呼ばれたのが、かつて稀代の女形として人気を誇った元役者の魚之助。両足を失っている魚之助は、足替わりとなっている鳥屋の藤九郎と二人で鬼探しを始める。
でも単なる”鬼探し”ではなかった。歌舞伎を演じる役者たちが抱えているどろどろとした闇が執拗に描かれていた。役者魂以上の歌舞伎という芸事の世界で生きる人々の業。役者たちは芸の道をきわめるために鎬を削る。血のにじむような努力や才能への渇望や葛藤が渦巻く。一方で芸のためには人を人とも思わず利用し尽くし、嫉妬心も並大抵ではない。江戸の役者と大坂から来た役者との間に生じる対抗意識も凄まじい。彼らは一種の化け物だろう。「バケモノに鬼の居所を訪ねたってしようがないだろう」と思いながらも、若かったら羨ましかったかもしれないなぁ。心も体も女形として生きて来ずにはおられなかった魚之助の人生と、鳥を慈しむ藤九郎との関係性はどう考えたらいいのだろうか? めるの嫉妬も分かる。
本作は「小説 野性時代 新人賞」を受賞している。魚之助のモデルとなった三代目澤村田之助さんは初めて知った。 -
第11回小説野生時代新人賞受賞、デビュー作。
書評で知り、装丁に惹かれて図書館の順番待ちに並ぶ。
読了して改めて表紙を眺めると、美しいだけでなく、そこに描かれた物語の符牒の巧みさに感心。
「人の中身」に比べれば、鬼のそれの方がはるかに純真なのか。腹を撫でる魚之助は、自分の中に棲む役者としての自分、女性としての自分に迷いつつも愛していたんだろうな。
飛び交う京言葉と江戸言葉が生き生きとしていて、色鮮やか。魚之助と藤九郎のコンビにまた会いたい。