- Amazon.co.jp ・本 (327ページ)
- / ISBN・EAN: 9784041100202
作品紹介・あらすじ
「人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない」第二次世界大戦直後の混迷した社会に、戦前戦中の倫理観を明確に否定して新しい指標を示した「堕落論」は、当時の若者たちの絶大な支持を集めた。堕ちることにより救われるという安吾の考え方は、いつの時代でも受け入れられるに違いない。他に「恋愛論」「青春論」など、名エッセイ12編を収める。
感想・レビュー・書評
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焦土、と言っていいだろう。家は焼け落ち、田畑は荒れて、路傍には浮浪者がうずくまる。人々は闇市に行列を作り、娼婦と孤児が夜の街を徘徊する…。どこか遠い国の話でも、マンガやラノベの話でもない。たかだか70年と少し前、他ならぬ私たちの国で、普通にみられた日常風景である。
太平洋戦争後の混乱の中で、坂口安吾の『堕落論』は書かれた。わずか十数ページの小論文だが、そこに込められた熱量は凄まじい。「建設のために、まず破壊を」と説く過激さは狂ったテロリストのようでもあり、人間を見つめる静謐な眼差しは有徳の僧のようでもある。野蛮さと格調高さが奇跡的に融合した名文だ。
かつては国の為に命を投げだした若者が闇市の商人になり下がり、貞淑だった戦争未亡人は別の男を追い求める。それはしばしば言われるように、敗戦によるモラルハザードなのだろうか? 安吾の答えは否である。敗戦は関係ない、それが人間の本性なのだ。戦争に負けたから堕ちるのではない、人間だから堕ちるのだ。
安吾曰く、戦中の日本は美しかった。だが忠義と貞節など、美しい国を支えていた美徳は結局、空虚な幻影に過ぎなかった。その証拠に我々は、昨日までの敵国に、今日は嬉々として隷属しているではないか。我々は放っておけば、いとも簡単に二君に仕え、二夫にまみえてしまう民族なのだ。だからこそ為政者はことさら理想論を振りかざして、美徳という名の鎖で民衆を縛りつけずにはいられなかったのだ…と。
戦後レジームが日本人を堕落させたのではない。日本人はただ本来の姿に戻っただけだ。生きてゆく以上は堕落するのは避けられず、その現実を受け入れるところから真の復興が始まるのだ。人間は弱いから、幻影にすがらずに生きることはできない。だからと言って、戦前の亡霊のような徳目を今更持ちだしたとてなんになろう。一人ひとりが生身の体で人間の「生」を体験し、実感として掴んだ血の通った理念のほか、すがるべき幻影などありはしない。…と、安吾は言っているように思える。
〈生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか〉
『カラマーゾフの兄弟』の未完に終わった第2部で、皇帝暗殺を企てるのは、敬虔なクリスチャンの三男であったという。してみると、テロリストのように民衆を煽動し、僧侶のように人間を慈しむ、安吾の思想にも矛盾はないのかもしれない。一流の聖職者ほど、闘争を厭わない激しさを心に秘めているものだろうから。硬直したシステムに風穴を開けることなしに、システムに押し潰されて窒息しかけている人を、救う手立てはないだろうから…。
発表から70年たった現代でも少しも色褪せず、読む者の胸を打つ名文である。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
予期せず、すごく面白かった。
ぜんぜんデカダンに感じなかった。
著者の年譜で笑ったのは初めて(笑)
太宰より好きかも。
再読あり -
実を言えば何度も読む愛読書なので、今更という感じがあるけども、記録としてあげることにした。初めて読んだのは40年くらい前の高校生の頃だった、衝撃だった。敗戦のあとの日本人としてこんな考えがあるとは思わなかった。もはや戦争が風化していた。それが突然現実味をおびた。これからも戦争を儀式としてうわつっらだけ、伝えることはあるだろう。しかしこの本(正確にはこの本をよんだのではなく、別のほんなのだが)が残る以上、戦争の醜さとそれの上で生きている現代は批判され続ける。そしてそのことが希望になっている。何回も読んで、自分を戒めている。
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小気味良い痛快な内容だった。
人間は堕ちるとこまで堕ちきり、そこで新たな自分を見つけ、救われる。
堕ちないように、堕ちないようにとなんらか手立てをしたところで、人間は堕ちるのだし、堕ちきってからの方が本当の人間として生きられる。
下手な倫理観で人の失敗を嘲笑ったり、不倫浮気をネタに視聴率を稼ぐ世の中だけど、本当に本気で生きて堕ちたのなら、そこからが本当の人間としての生き方になるんだと思う。
現在進行形で堕ちている自分。死にたいと思って生きているが、どうやら、どんな状況においてもただ生きることが、シンプルで素敵なことなんだろうなぁ。 -
堕落論といいながらも前向きかつ愉快な文章でした。坂口安吾、いいね!って思った
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坂口安吾(1906~1955年)は、新潟県に生まれ、東洋大学印度哲学倫理学科を卒業し、終戦直後に発表した『堕落論』、『白痴』により注目を集めて、太宰治、織田作之助、石川淳らとともに無頼派・新戯作派と呼ばれた、近現代日本文学を代表する作家の一人。
『堕落論』は、1946年(昭和21年)4月に雑誌『新潮』に掲載された作品で、同年12月に続編『続堕落論』が雑誌『文學季刊』に掲載された。書籍では、1947年に単行本が出版され、文庫版は角川文庫のほか、新潮文庫、岩波文庫、集英社文庫などから出ている。
角川文庫版には、『堕落論』、『続堕落論』に加え、1942~48年に書かれた随筆・評論、『日本文化私観』、『青春論』、『デカダン文学論』、『戯作者文学論』、『悪妻論』、『恋愛論』、『エゴイズム小論』、『欲望について』、『大阪の反逆』(織田作之助論)、『教祖の文学』(小林秀雄論)、『不良少年とキリスト』(太宰治論)の合計13篇が収められているが、各文庫の収録作品は多少異なっている。
同時代の文人の評論(小林秀雄などはその典型)というと、難しい言葉を使った硬い文章が少なくなく、ソフトな文章に慣れた現代人としては、読むにあたり相応の緊張感を要するが、安吾の文章は思いのほか読み易い。
『日本文化私観』より、「(ブルーノ)タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかもしれぬが、日本を見失うはずはない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日本が生まれるはずもなく、また、日本精神というものが説明づけられるはずもない。日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。」「それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活するかぎり、猿真似を羞ることはないのである。それが真実の生活であるかぎり、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。」
『堕落論』より、(あまりも有名な文章だが)「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。・・・他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。・・・堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。」
『続堕落論』より、「天皇制だの、武士道だの、耐乏の精神だの、五十銭を三十銭にねぎる美徳だの、かかるもろもろのニセの着物をはぎとり、裸となり、ともかく人間となって出発し直す必要がある。」「人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々はまず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。」
こうしてみると、本書の作品群に通底しているのは、日本(人)がそれまで覆い隠してきた「ニセもの(ウソ)」を暴くことだとわかる。そして、そこからしか、あるべき日本(人)は生まれない、と安吾は言っているのだ。。。
(日本人に限らない)人間にとっての文化とは何か、といった点については首肯しかねるところもあるが、論旨は理解できるし、日本人とは何か、日本文化とは何かを考える上では、とりわけ貴重な論考なのだと思う。
(2020年12月了) -
「人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。」
すごい。面白い。
この作者のすごいところは身の回りや歴史上の人物・事件をバサバサと自分の想いで論じときには切り捨てながらも、どうしようもなく愚かで狡猾で「アンポンタンな」人間への愛情に溢れているところだ。不完全で小狡い人間を、それゆえに真っ当になりたいと思う人間を愛し、称賛しているからだ。
だからこの方の文章は温かい。いうなれば世俗にまみれた温かさだ。坂口安吾という人物に会ってみたかった。そう思わずにはいられない。
「暑い」とか、「歯が痛い」とかで本気で癇癪を起こし、それを原稿に書いてしまうのに思わず笑ってしまった。チャーミングな方だ。 -
坂口安吾は取っつきにくさから読むのをずっとためらっておりました。と言いつつ、『堕落論』以外知らなかっただけだったりもするのですが。
四畳半の汚い部屋で、作家のおっさんが、一升瓶片手に、毒舌混じりで、知り合いの作家や自己流の文学について、ざっくばらんに真っ当なことを語っている。安吾の顔と合わせて、こういう光景がすごく思い浮かんでくる。文字を追っているだけなのだけれど、いつの間にかすぐ側で酔っ払った安吾が据えた目で「どうだ、俺の言い分は?」と睨みを利かしている気さえしてくる。そんな文章です。
うーん、どうだと言われても、ねぇ。作家だったらそうだよなぁ、と思うこともあり、ちょっとマトモ過ぎてどうもなぁと思うところもあり。
この本全体を通して、結局は「大事なのは生きることだ。がむしゃらに生きることだ。死んだら終わりだ」ということに尽きると言えば本当に味気なくなる気がするけれど。しかし実際言ってる中身は味気ないほどマトモなんですよね。そのマトモさ、真面目さというものが安吾の手にかかっては人をして「面白い!これぞ作家!これぞ文学!」と思わせる。ここに何か魔術があるとすれば、やはり彼も語っている通り「戯作者根性」という事なのでしょう。戯作者として生きているという事なんでしょう。
とりあえず、はるか100年かそこらも前にこんな作家がいたのか、という事にとても感銘を受けました。「作家の思想性と戯作者根性の両方がなければ文学とは言えない」という考えは正直私も同じようなことを考えていたので目新しい感じはなかったけれども、安吾なりに考え抜かれた各論についてはただただ頷くばかり。
著者プロフィール
坂口安吾の作品






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