世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析

著者 :
  • 角川書店(角川グループパブリッシング)
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  • Amazon.co.jp ・本 (253ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784041101162

作品紹介・あらすじ

やんちゃやってるけど、ガチで気合い入ってて、ハンパなく筋が通ってる。アゲと気合。現実志向。行動主義。母性。バッドセンス。日本に拡散するヤンキー・テイストを精神科医が読み解く。

感想・レビュー・書評

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  •  ヤンキーについて論じた本。で、おそらくではあるが、ヤンキーを対象にそれを細かく分析するというよりは、そこからだんだんと、日本神話のある部分にヤンキーがある、日本のこの大きな問題にヤンキーがあるといった、巨大な多様な固まりの部分にヤンキーが当てはまっているので、ほらヤンキーがいた!というヤンキー発見器と論文が化しており、だんだん、ヤンキーという言葉を別に使わなくてももっとさらに抽象的な用語にまとめられるのではないか、むしろ「からごころ」とかそういうのでいいのではないかと思えるところもあり、ずっと江戸時代から松岡正剛まで散々論じられつくしてきた日本文化論の焼き直しというか、当てはめ直しに近いところもあるかしれない。

     で、ヤンキーについてであるが、「気合」の美学こそ、ヤンキー由来のものではなくてなんだろうかという。
     「気合を入れて納得のいく仕事をして、スタッフと一緒に泣きたい」と言う横浜銀蝿は全員が大卒か大学中退で、ツッパリのパロディというニュアンスが確実にあり、「ファンシー」の要素がある。かわいがられているのだ。かわいいといって消費されている。ヤンキーの純粋さ、気合、ぶつかっていくエモさ、勝てるかどうかわからないけれども、突っ張る感じ。かといって崇拝する対象じゃなくて、自分の目の届く範囲に置けそうな感じ。それがヤンキーの消費のされ方だ。動物園の動物に近い。もしくはドッグカフェのようなものだろうか。そうだとすると、猫は非ヤンキーとなる。猫は個人主義的で、気合という感じではない。すると、本著のタイトルは「犬と精神分析」でも別に構わない感じにはならないかとも思う。

     面白かったのは、アメリカと日本文化について論じたところだ。
     初期の暴走族文化が、バイクや車というもっともアメリカ的なアイテムを軸として、縦社会や和テイストの改造でヤンキーの美学があり、アメリカとのかかわりは外せない。
     それは手塚治虫がディズニーアニメの画風を自己流にアレンジすることで、現在のマンガ、アニメ文化の基礎を作り上げていった経緯を連想させる。表面上は両極端にみえるオタク文化とヤンキー文化は、こと「アメリカ的なもの」のアレンジという意味では、きわめて似通った出自を共有していると考えられる。また、ヤンキーの当事者はアメリカへの憧れはそれほど強いものではない、と述べているところだ。
     これは樋口ヒロユキのゴスロリの評論本でも、当事者にインタビューしても、そこまでイギリスの歴史などに造詣が深いわけではなく、何も考えてなくて戸惑ったことが書かれていたのが思い出される。かといって、ぜんぶ忘れていて、自分たちの文化と完全に認識しているわけではなく、まるで元号を残すように、保留している。便利性や、きっちり白黒させるといよりも、保留的な感じで、アレンジをさらにされるのを待っているかのようなやり方をしているのは、マンガ、ヤンキー、ゴスロリも同じではないかと思う。外国の影響はあるけど、日本流にもしてるので、「どこのもの」でもないし、俺らが楽しんでいたらいいんじゃない? というものだ。これは古代から文化を輸入している国だからこそ言い続けられることだし、共通点があるうんぬん言ったら、文化なんかみんなそうだし、畳にちゃぶだい文化である日本がみんな机やイスを使っているのは興味深いと述べているのとほとんど変わらない。

     しかし、イノセントな衝動のみに基づいた自己投企を成功させる。それを全面的に受容してくれる無垢なる母性としてのアメリカが想定されているというのは、面白いと思う。
     また、齋藤環の人間観として、他者の欲望を内面化することや、「変われば変わるほど変わらない」という、変化というものがなんらかの恒常性や普遍性を担保にしなければ起こりえないという意味も含まれていることがベースにあることも注目すべきことだと思う。

     ヤンキーへの批判的な分析として、原点・直球・愛・信頼を大事にすることがあげられている。危険なのは、それが行き過ぎると、子どもに対する理論的・知的な理解を一切否認するところまで暴走してしまう不安がある。この辺はスピリチュアル系との共通点がある。
     だらしない子どもを殴ってでも更生させるのは、「正しい理由のもとで、暴力的に他者の自由を奪う」行為を「楽しんで」いることであり、それは勧善懲悪が普遍的な人気を集めるか説明できなくなるとして述べている。ここで、ヤンキーの危険性は、全世界共通のことであることになっているので、日本文化論という枠組みをはみだしかけている。

     母性・父性に対する分析について。
     父性的にひきこもりに対応するのは「放っておくこと」。希望がないなら放置する。切断的暴力である。関係なんかしてもどうにもならん。男性型社会の極北は、カルト、ファシズム、共産主義、関係より原理が優先される世界だという。
     母性的には、ほうっておけない、わたしは何とかしてあげる、という家族主義であるという。関係さえすれば何んとなかる、である。
     そして、ヤンキーの熱は、関係すればどうにかなるという母性を持つ。
     女性型社会は、原理より関係が優先され、地縁、村落共同体、親族共同体のありようは、母系父系問わず女性型である。
    P175
    【こうしたことを考えていくと、ヤンキー文化の女性性を思わないわけにはいかない。関係性優位の集団は、やはり「女性的」と形容されるべきだろう。現にホモソーシャルの問題にしても、実際には女性の集団においても同様の関係性がしばしばみられるという指摘もある。またマッチョイムズは、基本理念よりも「マッチョな見かけ」のほうを重視する傾向が強く、ここにも本質以上に外見が優先されるという意味で、女性的な要素がみてとれる。もっとも僕の考えでは、ホモソーシャルもマッチョイムズも女性的発想である】
     では、ヤンキーではないものとは何か。家族のためでもなく、仲間のためでもなく、ただ自分自身のためだけに貫かれる規範なき正義。究極のナルシシストだけが獲得できる純粋な公共性。これがヤンキー性と対極に位置している。
     つまり、誰かのためになりふりかまわず発揮される正義=ヤンキー性である。
     また、ヤンキー漫画が一般にコミカルだったり大風呂敷だったりする最大の理由は、ヤンキー文化のダークサイドを否認・隠蔽するためであるというのは確かにそうだと思う。

    P240
    しかしひとたび視点を変えれば、「生存戦略」としてこれほど強力な文化もない。何しろ彼らは、正統な価値観や根拠なしに、自らに気合を入れ、テンションをアゲてことにあたることができる。それどころか、彼らは場当たり的に根拠や伝統を捏造し、そのフェイクな物語性に身を委ねつつ、行動を起こすことすら可能なのだ。宗教的な教義によらずにこれほど人を動員できる文化は、おそらくほかに例がない。

     というが、輸入文化国家であるので、「からごころ」の論以上のものがこの冊子にあるとは思えない。ヤンキーの反対語はついにはでてこない。インテリが反対語なのだろうか。堅気に生きている庶民が反対語なのだろうか。オタクのなかにも、ヤンキー的なものは指摘できるし、正直に言ってしまえば、ほぼ血液型とかわらない。A型にもO型っぽいのはあるし、みたいな。

     けれども、読み物としては大変面白いと思う。

  • 後半は、ヤンキーと伊勢神宮の構造、
    ヤンキーと古事記の登場人物などとが比較され、
    理解するのが難しかった。
    前半は、笑いながらスーッと読める。

    ヤンキーって、日本国民のそんなに多くが当てはまる性質?
    まさかと思いつつ、その傾向や志向を聞く限り、
    思わず説得されてしまう本。

  • 「日本人はヤンキーが好き」。このことを最初に指摘したのは、故ナンシー関さんだ。著者もナンシーさんのエッセイに影響を受けたと明かしている。
    「私はつねづね『銀蠅的なものを求める人は、どんな世の中になろうとも必ず一定数いる』と思ってきた。そして、その一定数はかなり多いとも思う。」
    ナンシーさんの数ある名コラムの中でも、この「銀蠅的なもの」は屈指のインパクトだった。(ああ、ナンシーさんの不在があらためて悲しい。たまにテレビを見ると「ナンシーさんがいたら…」とつい思う。そう思うのは私だけではないはず)

    「ヤンキー」の何に人はひかれるのか?「引きこもり」の研究・支援で知られる精神分析医の著者は、自らも認めるとおり「オタク寄り」で、「ヤンキー的なもの」とはまあ対極にあるはずの人だ。大体研究者とか本を書いたり読んだりする人たちは大なり小なりオタク的で、だからこそオタクに関しては山ほどの論考があるのに、ことヤンキーについてはあまり目にすることがない。本書はそういう意味でとても新鮮だ。

    ヤンキーについて語るとき、横浜銀蠅とか亀田兄弟とか義家センセイなんかが出て来るのは至極当然で、最も洗練されたかたちとしてのキムタクっていうのもわかる。すごいのはその先で、何とあの白州次郎のヤンキー性(!)とか、村上春樹とアメリカ、丸山真男と古事記、などなど、まあ実に多方面からヤンキーを好む日本人の心性に迫ろうとしている。
    もっと説明してほしかったり、ちょっと強引で説得力に欠けるように思うところもあるけれど、なるほどなあという指摘も随所にあって面白く読んだ。

    真ん中あたりまで読んで「ああ、橋下人気もこの流れで説明することもできるなあ」と思っていたら、やはり最後に出てきた。彼は攻撃的な反知性主義をまったく隠そうとしないが、まさにその点がうけてるんだろう。あらためてがっくりする。

    「あとがき」の次のような記述にはまったく考えさせられる。

    「青少年の反社会性は、芽生えた瞬間にヤンキー文化に回収され、一定の様式化を経て、絆と仲間と『伝統』を大切にする保守として成熟してゆくのである。われわれは、まったく無自覚なうちに、かくも巧妙な治安システムを手にしていたのである」
    「ヤンキー文化には二面性がつきまとう。逸脱と適応、バッドセンスと創造性、犯罪と治安、破壊と復興、などなど」

    著者の言うとおり、確かにまだまだ語ることはありそうだ。

    • Pipo@ひねもす縁側さん
      こんにちは。

      先日、『Number』のあるコラムを読んでいて、あるヤンキー系野球記者さんが駆け出しの頃、「あいさつしたら、『意外ときち...
      こんにちは。

      先日、『Number』のあるコラムを読んでいて、あるヤンキー系野球記者さんが駆け出しの頃、「あいさつしたら、『意外ときちんとした子や』とかわいがられるようになった」というエピソードをちょろっと読みました。出発点の(見かけの)低さからの逆転劇がカタルシスに見えるようでした。個人的にはどうなんだろう?とは思いましたが、そういうものなのかしら・・・と。
      2013/02/25
    • たまもひさん
      Pipoさん、こんにちは。コメントありがとうございます。

      Numberの記者さんの話って、ある種典型的なヤンキーの受け入れられ方って感じが...
      Pipoさん、こんにちは。コメントありがとうございます。

      Numberの記者さんの話って、ある種典型的なヤンキーの受け入れられ方って感じがします。「そういうもの」なのでしょう、きっと、おそらく、たぶん…。

      2013/02/25
  • 日本文化に根付く「ヤンキー的なもの」についての、音楽・マンガ・古典・芸能にまで及ぶ膨大な知見には、「精神科医かつ文化人」たる筆者の深い洞察が垣間見える。相田みつをと木村拓哉をつなぐヤンキー性、精神分析の視点から見た「ヤンキー性の持つ本質的な母性性」など、いくつもうなづけることあり。

    しかし、その反面、話がやたらと飛んだり、結論を先延ばしにして、結局後で十分な議論のないまま終わっていたり、消化不良な側面も多い。

    著名人に関する「表面的な』分析は、精神分析かつ臨床家として的確な一面もあると思うが、本質的にヤンキー的なものと交わらない筆者にとって、一種の道化の対象としてシニカルに表現され尽くしている感も否めない。ナンシー関やマツコデラックスならそれで良いのかもしれないが、ちょっと臨床家としてどうなのか、と批判したくなる部分もある。

    本作品の中で、最も面白かったのは、ヤンキー文化はは本質的に家族主義で関係性を重視し、切断する父性ではなくつなぐ母性を本質としている点。上下関係を重んじるタテ社会のなかでも、ヤンキー文化は理念やルールとは別の形で結びついた人間関係を基本としている面で女性的であるとする。対極にあるのは、規律と原理を重んじるカルトやファシズムの持つ男性性であると。
     これを読んで思ったのは、AKB48の持つ「原理と規則」である。
    少女たちは、推しによる人気至上主義、という原理と「恋愛禁止」などの規則によって個人としては規律化されている。しかし、そもそもが、アイドルとファンの関係性、また、彼女らが必要以上に友情を押し売りする演技性の体質、などにヤンキー文化的スパイスが垣間見える。
     この、男性的な枠組みの中に見えるヤンキー性の融合が、最新の文化的到達点と言えるのではないか、ということ。ジャニーズのような単なるヤンキー文化だけではない点が新しいということか?

     一方で、私は、橋本治が述べる「サブカルチャーは通過儀礼である」という言葉にも深く同意している。ポップカルチャーの世界に生きている人にとっては、いくつになってもこのシステムはすんなり受け入れられるものなのだろうが、オタク・ヤンキー文化の両面とも「通過儀礼」として「過去化」してしまった人間にとって、どれほどの意味を持つのだろうか?ありきたりの言葉ではジュネレーションギャップだが、もはや生物学的な意味での「ジェネレーション」ではないだろう。

     相田みつをや木村拓哉を通過儀礼として、少なくとも個人的には消化してしまった人に取って、形を変えて新しく出現してくる「ヤンキー的なもの」や「オタク的なもの」は、もはや意味を持たない。

     筆者の論調で言えば、橋下徹を支持する人の多さを考えても、「日本人の大半はヤンキー的なものを望み、求めている」のかもしれないが、一方で斎藤環は「僕は違うけどね」とも言ってるわけだ。これはずるい。その点こそ、議論して欲しいところだ。

     文化の消費、効率化、媒体としての利便化。
     文化を楽しむには、面倒くさい道筋が必要である、または必要そうに見えること。本来、資本主義とは別の回路で動いていること。
     ヤンキーと江戸っ子の違い。伝統芸能を時代にあったものに変えて行くために、文化の担い手たちが行っている努力。
     私は、この書物を通して、むしろそういう純粋培養されているものの現在と未来の姿を想像するようになった。

  • ヤンキー、というものについての語り。
    ヤンキーについての語るなら、どうしてもユーモアを孕まざるを得ないだろう。筆者のユーモアと真面目な考察がバランスよく、あっというまに読んでしまった。
    フェイク、作られた偽の「伝統」、気合とアゲ、家族仲間思いでマザコン、やたら熱い正義感、ファンシーグッズ。確かに、ヤンキーは女性的だ。

    個人的なことだが、これを読んで様々な謎が氷解した。。。なぜ私は、かくも相田みつを憎んでいるのか。説教くさい歌詞や泣かせ邦画や、頑張れば出来るとか夢は叶うとかいう言葉が嫌いなのか。全てはそのヤンキー臭が、私に激しい嫌悪を催させるのだ。
    そもそも、私ぐらい、気合に乏しい人間もいないだろうが、でもそれでよかったのだ。私はヤンキーを嫌悪する側の日本人なのだ。
    そして、ヤンキーを無視できず、過剰に反発するあたりもまた、私がベタな日本人である証拠なのかもしれない。

  • 帯文:”《待望のヤンキー論》” ”第11回角川財団学芸賞受賞作” ”朝日新聞、毎日新聞、東京新聞、共同通信、週刊文春等各方面で大反響続々!”

    目次:第一章 なぜ「ヤンキー」か、第二章 アゲと気合、第三章 シャレとマジのリアリズム、第四章 相田みつをとジャニヲタ、第五章 バッドテイストと白洲次郎、第六章 女性性と母なるアメリカ…他

  • 読むのしんどくなった。

  • 「ヤンキー」的なものに関する分析。
    経歴がヤンキーではなくても、考え方なりが「ヤンキー」的なものを取り上げている。
    なんで読んでみようと思ったんだったか…。
    熱血教師ものにおける海外作品との違いの部分はなるほどと思った。

  • 参考文献をちょいちょい検索していたんですけど、「MUSASHI-GUN道-」には驚きました。

  • おもしろい。
    ヤンキーつながりで他にも読んでみたくなった。

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著者プロフィール

斎藤環(さいとう・たまき) 精神科医。筑波大学医学医療系社会精神保健学・教授。オープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン(ODNJP)共同代表。著書に『社会的ひきこもり』『生き延びるためのラカン』『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』『コロナ・アンビバレンスの憂鬱』ほか多数。

「2023年 『みんなの宗教2世問題』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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