世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析

著者 :
  • 角川書店(角川グループパブリッシング)
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  • Amazon.co.jp ・本 (253ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784041101162

作品紹介・あらすじ

やんちゃやってるけど、ガチで気合い入ってて、ハンパなく筋が通ってる。アゲと気合。現実志向。行動主義。母性。バッドセンス。日本に拡散するヤンキー・テイストを精神科医が読み解く。

感想・レビュー・書評

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  • 『世界が土曜の夜の夢なら』
    2023年7月5日読了

    数か月前に『ヤンキー化する日本』新書を読み、その元になった著書ということで、ずっと気になっていた一冊。

    『ヤンキー化する日本』が著者とゲストの対談形式であった一方、本作は複数の所謂「ヤンキー文化」を取り上げ、それらを考察していく構成となっている。本作の方が論文調かつ引用も多いため、専門書に近い印象をもった。

    本作は、2010年に初出の論考をまとめた本であるため、現在の社会を直接的に表しているかというとそうではないだろう。この10年を経て、ヤンキーやギャルの文化というのが下火になってきたように思う。これは私の一意見に過ぎないが、よりスタイリッシュさや軽さが求められ、良くも悪くも「無理をしない」現代に、「気合の入ったアゲアゲのスタイル」が合わなくなってきたのだろう。

    しかし、そんな現在でも「ヤンキー文化」が根底に引き継がれていると感じるし、本書では「ヤンキー的なものに惹かれる人」が日本に1/3はいるとしている。そんな社会を生きる上で、「ヤンキー文化」を知っておくことは無駄ではなかろう。


    前置きが長くなってしまったので、本書に関する重要なポイントだけ書き残しておく。
    一番興味深かったのは、「ヤンキー文化の”中核に”「本質」というものが存在しないこと」である。

    これだけ大々的に例示し、考察し、取り上げて来たにも関わらず、「本質がない」とはどのようなことなのか。やはり古事記に記される「いきほい」=「気合」「アゲアゲ」ということなのだと思う。現実主義、反知性主義ともあったが、私は「刹那的な生き方」なような気がしてならない。

  • 興味深く読了。
    ヤンキー文化は、生存戦略として強い。ゆえに拡大し続けるかもしれない。子だくさんなのも、この層だし…
    根拠を捏造し、内省せず、気合いで行動できる人たちで、この先どういう世界が構築されていくのか…確かにハラハラします。

  •  ヤンキーについて論じた本。で、おそらくではあるが、ヤンキーを対象にそれを細かく分析するというよりは、そこからだんだんと、日本神話のある部分にヤンキーがある、日本のこの大きな問題にヤンキーがあるといった、巨大な多様な固まりの部分にヤンキーが当てはまっているので、ほらヤンキーがいた!というヤンキー発見器と論文が化しており、だんだん、ヤンキーという言葉を別に使わなくてももっとさらに抽象的な用語にまとめられるのではないか、むしろ「からごころ」とかそういうのでいいのではないかと思えるところもあり、ずっと江戸時代から松岡正剛まで散々論じられつくしてきた日本文化論の焼き直しというか、当てはめ直しに近いところもあるかしれない。

     で、ヤンキーについてであるが、「気合」の美学こそ、ヤンキー由来のものではなくてなんだろうかという。
     「気合を入れて納得のいく仕事をして、スタッフと一緒に泣きたい」と言う横浜銀蝿は全員が大卒か大学中退で、ツッパリのパロディというニュアンスが確実にあり、「ファンシー」の要素がある。かわいがられているのだ。かわいいといって消費されている。ヤンキーの純粋さ、気合、ぶつかっていくエモさ、勝てるかどうかわからないけれども、突っ張る感じ。かといって崇拝する対象じゃなくて、自分の目の届く範囲に置けそうな感じ。それがヤンキーの消費のされ方だ。動物園の動物に近い。もしくはドッグカフェのようなものだろうか。そうだとすると、猫は非ヤンキーとなる。猫は個人主義的で、気合という感じではない。すると、本著のタイトルは「犬と精神分析」でも別に構わない感じにはならないかとも思う。

     面白かったのは、アメリカと日本文化について論じたところだ。
     初期の暴走族文化が、バイクや車というもっともアメリカ的なアイテムを軸として、縦社会や和テイストの改造でヤンキーの美学があり、アメリカとのかかわりは外せない。
     それは手塚治虫がディズニーアニメの画風を自己流にアレンジすることで、現在のマンガ、アニメ文化の基礎を作り上げていった経緯を連想させる。表面上は両極端にみえるオタク文化とヤンキー文化は、こと「アメリカ的なもの」のアレンジという意味では、きわめて似通った出自を共有していると考えられる。また、ヤンキーの当事者はアメリカへの憧れはそれほど強いものではない、と述べているところだ。
     これは樋口ヒロユキのゴスロリの評論本でも、当事者にインタビューしても、そこまでイギリスの歴史などに造詣が深いわけではなく、何も考えてなくて戸惑ったことが書かれていたのが思い出される。かといって、ぜんぶ忘れていて、自分たちの文化と完全に認識しているわけではなく、まるで元号を残すように、保留している。便利性や、きっちり白黒させるといよりも、保留的な感じで、アレンジをさらにされるのを待っているかのようなやり方をしているのは、マンガ、ヤンキー、ゴスロリも同じではないかと思う。外国の影響はあるけど、日本流にもしてるので、「どこのもの」でもないし、俺らが楽しんでいたらいいんじゃない? というものだ。これは古代から文化を輸入している国だからこそ言い続けられることだし、共通点があるうんぬん言ったら、文化なんかみんなそうだし、畳にちゃぶだい文化である日本がみんな机やイスを使っているのは興味深いと述べているのとほとんど変わらない。

     しかし、イノセントな衝動のみに基づいた自己投企を成功させる。それを全面的に受容してくれる無垢なる母性としてのアメリカが想定されているというのは、面白いと思う。
     また、齋藤環の人間観として、他者の欲望を内面化することや、「変われば変わるほど変わらない」という、変化というものがなんらかの恒常性や普遍性を担保にしなければ起こりえないという意味も含まれていることがベースにあることも注目すべきことだと思う。

     ヤンキーへの批判的な分析として、原点・直球・愛・信頼を大事にすることがあげられている。危険なのは、それが行き過ぎると、子どもに対する理論的・知的な理解を一切否認するところまで暴走してしまう不安がある。この辺はスピリチュアル系との共通点がある。
     だらしない子どもを殴ってでも更生させるのは、「正しい理由のもとで、暴力的に他者の自由を奪う」行為を「楽しんで」いることであり、それは勧善懲悪が普遍的な人気を集めるか説明できなくなるとして述べている。ここで、ヤンキーの危険性は、全世界共通のことであることになっているので、日本文化論という枠組みをはみだしかけている。

     母性・父性に対する分析について。
     父性的にひきこもりに対応するのは「放っておくこと」。希望がないなら放置する。切断的暴力である。関係なんかしてもどうにもならん。男性型社会の極北は、カルト、ファシズム、共産主義、関係より原理が優先される世界だという。
     母性的には、ほうっておけない、わたしは何とかしてあげる、という家族主義であるという。関係さえすれば何んとなかる、である。
     そして、ヤンキーの熱は、関係すればどうにかなるという母性を持つ。
     女性型社会は、原理より関係が優先され、地縁、村落共同体、親族共同体のありようは、母系父系問わず女性型である。
    P175
    【こうしたことを考えていくと、ヤンキー文化の女性性を思わないわけにはいかない。関係性優位の集団は、やはり「女性的」と形容されるべきだろう。現にホモソーシャルの問題にしても、実際には女性の集団においても同様の関係性がしばしばみられるという指摘もある。またマッチョイムズは、基本理念よりも「マッチョな見かけ」のほうを重視する傾向が強く、ここにも本質以上に外見が優先されるという意味で、女性的な要素がみてとれる。もっとも僕の考えでは、ホモソーシャルもマッチョイムズも女性的発想である】
     では、ヤンキーではないものとは何か。家族のためでもなく、仲間のためでもなく、ただ自分自身のためだけに貫かれる規範なき正義。究極のナルシシストだけが獲得できる純粋な公共性。これがヤンキー性と対極に位置している。
     つまり、誰かのためになりふりかまわず発揮される正義=ヤンキー性である。
     また、ヤンキー漫画が一般にコミカルだったり大風呂敷だったりする最大の理由は、ヤンキー文化のダークサイドを否認・隠蔽するためであるというのは確かにそうだと思う。

    P240
    しかしひとたび視点を変えれば、「生存戦略」としてこれほど強力な文化もない。何しろ彼らは、正統な価値観や根拠なしに、自らに気合を入れ、テンションをアゲてことにあたることができる。それどころか、彼らは場当たり的に根拠や伝統を捏造し、そのフェイクな物語性に身を委ねつつ、行動を起こすことすら可能なのだ。宗教的な教義によらずにこれほど人を動員できる文化は、おそらくほかに例がない。

     というが、輸入文化国家であるので、「からごころ」の論以上のものがこの冊子にあるとは思えない。ヤンキーの反対語はついにはでてこない。インテリが反対語なのだろうか。堅気に生きている庶民が反対語なのだろうか。オタクのなかにも、ヤンキー的なものは指摘できるし、正直に言ってしまえば、ほぼ血液型とかわらない。A型にもO型っぽいのはあるし、みたいな。

     けれども、読み物としては大変面白いと思う。

  • →文庫化

  • 面白いかと思って借りたが、そうでもなかった。

    日本全体がヤンキー的文化、に侵されているのはその通りだが
    著者に言われるまでもない。

  • 第1章 なぜ「ヤンキー」か
    第2章 アゲと気合
    第3章 シャレとマジのリアリズム
    第4章 相田みつをとジャニヲタ
    第5章 バッドテイストと白洲次郎
    第6章 女性性と母なるアメリカ
    第7章 ヤンキー先生と「逃げない夢」
    第8章 「金八」問題とひきこもり支援
    第9章 野郎どもは母性に帰る
    第10章 土下座とポエム
    第11章 特攻服と古事記
    ========
    第2章 アゲと気合
      ギャルはギャル語で話し、オタクも内輪だけで通用するオタク語で会話する。
     また、オタクは自分の感情も「引用句」で表現しようとする。(景気よく出発したいときは「〇〇いきまーす!」など)

     「気合」がヤンキー美学の中心。

    第3章 シャレとマジのリアリズム
    第4章 相田みつをとジャニヲタ

     著者の仮説として。
     日本人がキャラ性を極めていくと「ヤンキー」になる。

     「キャラ」で勝負するといえば芸能人。 
     そのなかでも、キング・オブ・ジャニーズ、キムタクはもっとも洗練されたヤンキーとして、最高峰。
     彼はもはやトップアイドルではなく、トップ芸能人。彼は「木村拓哉」という個人というより、「キムタク」というキャラとして認知されている。
     多趣味で、適応力が高い。地頭はよいが本は読まない。

     彼の語録は徹底して「ベタ」。
     いずれの言葉も背景に高い知性を感じさせつつ、アイロニカルな感性をみじんも感じさせない。意外なほど現実志向、実利志向が強く、今日からでも人生に生かせそうな効能がある。内容を真摯かつ実用的だが、そのぶん自己啓発的な印象もあって、(略)
     徹底して現状肯定的であること。彼らは個人が社会を変えられとは夢想だにしていない。わずかにでも変えられるのは自分だけであり、社会が変わり得るとしても、それは結果論でしかない。この発想は謙虚さや柔軟性をもたらし、問いつつ学んでいくというたくましさにもつながるだろう(広義の保守的)。

     「完全燃焼する」「筋を通す」美意識は「気合を入れる」「ハンパはしない」といったヤンキー的倫理観に近い”保守の美学”。キャラはシステムを否定しない。否定すると、キャラが崩壊する。

    ヤンキーの美意識は、
     内面よりも行動が重視されること、欲望の形がはっきりしていること、結果よりも過程が重要であること。
     
     「キャラ」を極めていくうえで「内面」は最も邪魔になる。


     ジャニオタは「ジャニーズ」というブランド好きに他ならない。
     顔が多少好みでなくてもキャラがツボった瞬間に『恋のメガネ』装着
     ジャニヲタの基本は『キャラ萌え』。
     

    第5章 バッドテイストと白洲次郎
     アゲ(≒気合)、実用志向、キャラ性
    「日本人がキャラ性を極めていくと必然的にヤンキー化する」

     キムタク、白洲次郎に感銘を受ける。
     彼の業績(結果)ではなく、「生き方」である。
     
     日本文化自体、極めてハードで保守的な「深層」と極めて流動的で変化しやすい「表層」の二重構造を持っている。日本人はあらゆる外来文化をまず表層で受け止め、その影響吸収しながら表層次々と変化していく。(表層は深相を守るためのバリアーとして機能する)






    第6章 女性性と母なるアメリカ


    第7章 ヤンキー先生と「逃げない夢」
     高橋の(「大切なのは勇気ではなく、覚悟」、「本気さで勝つ、熱さで勝つ、バイブスで勝つ!」 など)こうした姿勢について「感性に基づく投機的行動主義」と述べた。
     
     あなたは不思議に思わないだろうか。多くの「ヤンキー勝ち組」たちは、こうした無著としか言いようのない行動原理のもとで一定以上の成功をおさめている。確率的に考えたら到底成功見込めないような場所で、彼は見事に成功冷めているのだ。(略)彼らは「計画」や「戦略」といったこざかしさを嫌う。(略)まさにアゲアゲの体当たり至上主義こそが彼らの真骨頂だ。
     (略)それらはまさしく危険極まりない「賭け」の勧めにしか見えないのだが、彼らは常に自信満々である。このおれを見ろ、というわけだ。(略)ある意味、かなり無責任なこうしたあおり文句は、多くの人々を感動させ、勇気づけすらするだろう。
     
     (略)おそらくおたくに比べてすらも、ヤンキー集団は格差集団だろう。ほんの1パーセントにも満たない成功者の周囲を、膨大な落伍者がとりまいている構図がイメージされる。決して変節することなく成功をおさめたヒーローと、同じ行動原理で生きながら挫折した者たち。(略)落後者はその(成功者の)言葉に熱く共感しながら「おれもいつかは」と夢想する。 

     (ヤンキー先生として名高い義家氏を紹介する。)
     原点、直球、愛、信頼。いずれも文句のつけようがない言葉だし、僕もこうした主張に部分的には賛成だ。ただ、この種のプリミティブな情緒を重視する発想は、しばしば極端な反知性主義に走ってしまう危険性がある。
     
     夢から逃げない、ということは、見方を変えれば、自らの無垢な欲望全面的に肯定する、ということでもある。この無垢なる情動への絶対的信頼は、ヤンキー的リアリズムの根幹を成しているように思われる。
     ヤンキーは極めて現実主義的な発想する反面、しきりに「夢」を語る。こうした、日常に根差したリアリズムと日常とかい離したロマンティシズムの奇妙な混淆振りは、前章でも指摘したヤンキーの女性性を連想させる。女性もまた、リアリストとロマンチストの両面をしばしば併せ持っているからだ。
     ちなみにヤンキー的な「夢」は世俗的な成功として語られがちだ。(略)
     世俗的な夢が悪い、ということではない。ただ、彼らの無垢なる夢は、それが最初に胚胎した時点において、ある種の矛盾を抱え込んでいることは指摘しておこう。きわめて個人的なものであるはずの夢が、同時に極めて世俗的な欲望にもとづいているということ。彼らが「夢の大切さ」を語れば語るほど、それが社会における集合的な欲望形成する共同幻想(たとえば「ヘテロセクシズム)」を強化してしまうということ。

     ヤンキー的成功者の多くは、その過剰なまでの情熱と行動力をもって、何らかの新分野において業績を上げていることが多い。(略)(しかし)新たな価値観を創造するのではなく、従来からある価値観を新たな手法で強化するのがヤンキー0後者の秘けつ、ということにもなろうか。
     (略)ヤンキー主義に決定的なまでにかけている要素が少なくとも二つある。「個人主義」と「宗教的使命感」である。

     (義家氏は)反体制的だったヤンキーは、功成り名遂げてからは保守反動的にふるまうこと。主張としては「変節」なのだが、これはヤンキー主義的な生き方の必然的にたどる道なのだ。自らの居場所を探し求めるとき、義家はあらゆる体制からの抑圧に反発しながら、自由主義的に暴れ回る。彼はおのれの「夢」、(略)を追求すべく、それにふさわしい場所を探す。(略)
     本宮の描く「番長」の夢が、グループ抗争から「全国制覇」へと膨張していたように、義家の夢もシステマティックに拡大していく。「目の前の子どもの幸福」から「より多くの子供の幸福」へ。その夢の実現には、現場にとどまっていては効率が悪い。政治家として教育システムの中枢に食い込むことが、義家番長の「全国制覇」だったのだ。

    第8章 「金八」問題とひきこもり支援

    わが国の「熱血教師もの」にかけているのは,
    自由で自立した個人であるためには、何らかの知的スキルの向上が不可欠であるという信念な非常識である。

    わが国でヒットする教師も思わヤンキー的な反知性主義を一層鮮明化した ごくせんやGTOなど「金八先生」の亜流のみということになる。

    ヤンキー的リアリズムの特徴
    自由主義と集団主義の君をの折衷
    帰属する集団の選択に際しては自由主義的にふるまい、ひとたび集団が選択されて以降は集団主義が優位になる(略)・この融通無碍さは、ヤンキー的リアリズムにおいては、少なくとも理念的な一貫性が求められているわけではないことを示している。


    <ヤンキーリアリズムとひきこもり更生>
    長田百合子らの”更生方法”はひきこもり家庭内暴力などの問題を抱えた青少年を家族の依頼のもと拉致し、監禁まがいの手法を用いて「支援施設」での作業などに従事させ、そうした過酷な体験を経ることで、青少年が「更生」することを期待する、というものだ。もちろん合法的な手段ではない。

     彼女たちの言動には、専門家ですらもともに対応できない問題を、自ら手を汚してでも引き受けるのだという、いわばアウトロー的正義感が垣間見える。

    世間にとっては、引きこもりやニートという存在は、「絶対悪」。労働や納税の義務を放棄し、自分の権利だけを主張しながら社会のインフラに平気で”タダ乗り”する連中、という意味で。もちろんそれは単純な誤解なのだが((略))。
     そうした世間からみてしてみると「だらしない子供殴ってでも更生させたい」という彼女の言い分はいかにも正論に響くだろう。

     言うまでもなく、長田自身も強い反知性主義的傾向をもっている。
    「私は今まで自分のことを『教育の土木建築会社経営』と表現してきました。私流で本社と支社は飯場、メンタルケアの家庭という現場は『土場』などといって人を笑わせてきたものでしたが、このスタンスに恥ずかしい気持なの一度も感じたことありません。」
     「たたき上げ」のアウトローたる気概が現れた1文ともとれるが、こうした主張は多くの人々に歓迎されるであろうことはたやすく想像がつく。とりわけ正規の治療相談機関に飽き足らない多くの親たちにとっては、この種の現場主義を語る彼女は、ほとんど救世主に見えたことだろう。「中央」から発言するよりも、そこから外れた周縁的存在として言葉を発するほうが、人々の耳目をかきたてるうえでははるかに有効であることが多い。

     簡単に整理しておこう。父性的暴力は、理詰めで相手を屈服させ、征服し、所有し尽くすための「切断的暴力」である。わかりにくいかもしれないが、ここには「一切の関係を切断する」という暴力も含まれる。それは「関係しない」ための理屈で状況を支配するために振るわれるからだ。
     この種の暴力を引きこもりにふるうとすれば、それは「引きこもりなど知るか」「一律に引きこもり税を取り立てるべき」「ひきこもりは犯罪として処罰すべき」といった態度につながるだろう。さらに言えば「引きこもりはなぜすばらしいか」を理論的に根拠づけようとする態度も、「素晴らしいのだから好きにさせるべき」という姿勢につながるという意味では父性的暴力であり、父性的切断でもある。
     一方母性的暴力は、常に相手と「関係」するために振るわれる。長田百合子の「メンタルケア」の四つの特徴を思い出そう。
    特徴1 家庭や社会で共に行動する現場主義
    特徴2 過去の話しはほぼしない
    特徴3 問題から立ち直った子どもの協力を得る
    特徴4 一人一人にあった解決法考える
     現場主義、行動主義、「今ここ」主義、個別主義、家族主義、そしてすべてを貫く「愛と信頼」主義。彼らは一様に言うところの「行動してみなければ分からない」という言葉は「関係してみなければわからない」と言い換えられるし、さらには「関係しさえすれば何とかなる」という素朴な信念は、すでに反知性主義の芽をはらんでいる。(略)知性よりも感情を、所有よりも関係を、理論よりも現場を、分析よりも行動を重んずるという共通の特徴ゆえに、知性の決定的な不信から抜け出すことができないのだ。
     僕はかつて、母と娘の関係分析を通じて、母性的な支配が男性的支配に比べて、いかに複雑で逃れようがないものかを分析したことがある。
     母性的支配の特徴として僕が考えたのは、それが身体の支配を通じて出されること、とりわけ「同一化」が支配のカギを握ることを、反抗が反抗する者自身を否定してしまうような身ぶりに近づいてしまうこと、支配はしばしば「献身」や「奉仕」というけいしきでなされること、などだった。




    第9章 野郎どもは母性に帰る
    P172
    知られる通りヤンキー社会はタテ社会だ。先輩後輩の関係はその後の人生においても、ずっと付いて回る。これは一見したところ、男社会の特徴にも思える。しかし(略)カルトやファシズム共産主義にもとづく社会のありようこそが男性型社会の極北というるだろう。こうした集団では必ず、関係よりも原理が優先される。
     女性型社会というものを想定するとすれば、それは理念やルールとは別の形で結びついた人間関係を基本とするものとなるはずだ。そこでは原理よりも関係が優先される。その意味では例えば地縁のみを根拠とする村落共同体や、血縁を根拠とする親族共同体のありようなどは、それが父系か母系を問わず「女性型」であると僕は考える。

    P 173
    「野郎ども」は、学校文科に反抗する。あるいは学校文化が体現している価値規範一般も否定される。むしろ彼らは、肉体労働に従事している「本当の男」たちの文化にあこがれる。そこには男尊女卑的、家長父性的な価値観や、女々しさを否定するまで下がる。反学校文化はこうした肉体労働の世界にきわめて親和的であるためもあって彼らは自発的に父親のいる職業世界へとはいっていく。さらにえば、反学校文化を見つけること自体が職業世界では適応的に機能するのだ。(略)僕たちが元ヤんに好意を寄せるとすれば、その何割かはこうした適応度の高さへの信頼によると思う。彼らは同世代の若者よりも世慣れており、またしたたかで撃たれ強いに違いないという印象を確実に持っている。

    さて、「野郎ども」には、女性の介在を否定するような「ホモソーシャル」な関係性がある。これはアメリカのジェンダー研究者、イヴ・セジウィックが創案した言葉だが、これも簡単に説明すれば、ホモフォビア(同性愛嫌悪)とミソジニー(女性嫌悪)を基盤として成立する、男性同士の強い連帯関係のことだ。

    P176
     彼らはほぼ例外なしに家族主義的であるということだ。(略)
     とりわけ母親の存在は、すべてのヤンキーにとってきわめて「重い」。(略)彼らの事例を読む限りでは総じて「父」の影が薄い。

    (鈴木紗理奈の自伝から、母親のことばをひき)
    「すねをかじるな」という言葉と「帰る場所はある」
    という言葉は、矛盾と言えなくもないのだが、「愛情がめっちゃつまって」いる、という解釈のもとでは筋の通った教育方針に見えてしまう。

    P180(あいかわしょうの自伝より)
     「すきにしろ」という言葉のすぐ後に「殴るぞ」とあったり、「あるがままの形」を肯定するかと思えば「おれはそんなことを許さない」とあったり、ここでも表面的には筋が通らないところもある。家族を「族」というように、相川は家族の空間を、一緒の自然さを兼ね備えた特異な空間、いわば倫理の自生空間のような場所として考えてるように思う。そこで重視されるのはあくまで「嘘をつかない、人を傷つけない、人のものは取らない」といった、関係性の配慮ということになるのだろう。

    女性原理のもとでの「男性性」
     最もべたなレベルで考えるなら、少なくとも成功したヤンキーにおいては、しばしば母親の存在や存在感が大きな比重をもって語られがちである、ということである。そのようの対象として父親が語られることもない。いささか乱暴にまとめるなら、多くのヤンキー成功 者は、父親殺しを経ずして、むしろ母の精神的庇護のもとで、成長を遂げているようにすら見えるのである。
     ここで奇妙に思えるのは(略)なぜ彼らはやんちゃ=非行の時期を経なければならなかったのか。(略)例えば「人に迷惑をかけない」といった基本原理を何故順守しないのか。
     おそらくそれは母性原理の非本質性、すなわち”普遍性のなさ”にかかわっているように思われる(略)精神分析的に考えるなら、「女らしさ」を積極的に指し示すような観念はほとんど存在しないためだ。母親が娘に伝えようとする「女らしさ」は、観念よりも身体的な同一化によってしか伝えられない。これは「女らしさ」というものが、「男らしさ」とは異なり、常に人間関係の中でしか表現されないような、見かけ上の特性があるためだ。
     女の子のしつけは、社会的ルールを教えることが中心となる男の子の場合と大きく異なる。「女らしさ」と呼ばれるものの大半は、かわいい髪形や化粧、フェミニンな衣類あるいはしてやかなしぐさといった、身体=外観にかかわる要素から成り立っている。
     (略)ここで何が配慮されているか。相手に不快感を与えないこと、効果を持たれること、もっとはっきり言えば、相手から愛されることだ。(略)
     しかし繰り返すが、こうした「女らしさ」には普遍性も本質もない。そもそも時代や文化が違えば、女らしさのありようも変わってくるだろう。だとすれば、それはあくまでも、それぞれの家庭のプライベート空間で伝えられるほかはないことになる。

    (ボクサーの亀田親子の例を出し、彼らが傍目にもきわめて親密なきずなで結ばれているように見えるからだ。)
     そこにあるのは、またしても父と息子という対立ではない。むしろ母と娘との関係性にも似た肥後的な意識、あるいは身体の側からこの精子を支配しようとする母性的成功、さらに言えば自分の人生を「生き直し」を子に求めるような、母性的同一化への欲望なのではないだろうか。

    P184
     ヤンキー文化とは、男性原理の価値規範を、女性原理の方法論で伝達、拡散することによって成り立ってきたのではなかったか。

    P185
    「ヤンキー文化=女性原理のもとで追及される男性性」
    「おたく文化=男性原理のもとで追及される女性性」方法

    第10章 土下座とポエム
    第10章 土下座とポエム
    ヤンキーマンガについて
     ガテン労働者のファッションセンスが、同僚や取引き先になめられないようにという口実でどんどん過激化していくというエピソードを紹介した。(略)なめられないことを目指してキテレツ要素をどんどんため込んでいった結果、あのようなVバッドセンスが成立するということ。

    ヤンキーと相田みつをは親和性がある。

    ジョジョpart4、岸辺露伴の「ナルシシズム」はもっとも、ヤンキーから遠い。この逆説的欲望が通奏低音として響き、かっこよい。
    ヤンキーにも自己愛的な主人公は登場するが、もっと儲けが良いのは、仲間や家族、あるいは惚れた女のため、なりふり構わず発揮される正義、これなのである。(略)荒木 =岸辺的な美意識からはもっともっと多い。

    「ウシジマくん」
     はっきり言おう。ヤンキー漫画が一般にコミカルだったり大風呂敷だったりする最大の理由は、ヤンキー文化のダーク再度否認隠ぺいするためである。それは日本においてもっともひろく共有されたされたユースカルチャーではあるが、同時に「負け犬のための子守歌」でもある。社会の最底辺その人々にも享受できる「文化」であるがゆえに、必然的に反知性主義とVATテストをはらむ。ほんの一握りの「成り上がり」の夢と希望をはらみつつ、ドロップアウトの悲惨さについてはあえて触れない優しさがそこにはある。
     しかし(作者の)真鍋は、まるでそれが自分の使命であるかのように、ヤンキー文化圏に生息する人々の悲惨な末路を描き続ける。
      アゲとファンタジーを剥奪されたヤンキーはただの「負け犬」として描かれるほかはない。真鍋が僕たちに容赦なく突きつけるのは、ヤンキー文化なるものに僕たちがいつの間にか抱いている、曖昧な幻想性そのものなのである。
     
     ヤンキー文化は、その本質的な空虚ささえ暴こうとしなければ、非常に汎用性が高い。

    第11章 特攻服と古事記 
    ヤンキー進化論の著者、難波は
    1.階層的には下(とみなされがち)
    2.旧来型の男女性役割(概して、早熟、早婚)
    3.ドメスティックやネイバーフッドを志向

     丸山眞男も古事記に徹底的に踏み込んで「つぎつぎになりゆくいきおひ」の歴史的オプティミズムが日本文化の古層にある、といった。
     著者なりに翻訳すれば、「気合とアゲアゲのノリさえあれば、まぁなんとかなるべ」というような話だ。

     飛ぶ鳥落とす勢いの「橋下徹」市長もヤンキー要素が満載だ。
     茶髪にサングラスなのに、シリアスなコメントもこなす弁護士というキャラたて策略。グレーゾーンの積極的な活用を推奨する「ちょい悪」、「早熟で多産」でセックスの強さをアピール。
     くわえて、重度のマザコンに家族主義、子育ては妻に任せきりだが「子どもが妻には向かえば、容赦なく手をあげる。母親をないがしろにする子どもは許さない」、圧倒的に「母性」が優位だ。

    自立と自己責任を強調し、新自由主義的にも見えるその姿勢には、実際には自らの母親の子育て姿勢に学んだものと思しい。このような「厳格でありながら包摂的な母親」いいかえれば「父性を偽装する母性」への愛着が、橋本の教育観の根底にあるのではないか。彼載って呈した、実益、実学志向もまた、ここに根差しているように思われる。
     (略)問題が、こうした信念が場合によっては「反知性主義」的な暴走につながる危険性があることだ。(略)(ワッハ上方、大阪フィルへの仕打ちについて)やはり文化事業の軽視ぶりは否定できないだろう。こうした反知性主義、よく言えば「実学」優勢の姿勢もまた、いかにもヤンキー的ではある。
     しかし、かれは理念や理性を語っていない。(略)(しかし)何かやらかしてくれそうな期待感。これこそが橋下人気の中核にある。

  • 本書はナンシー関が「世間はヤンキーとファンシーに大分される」と喝破したヤンキー的価値観、ヤンキー的文化を考察し、それを通していまの日本社会を切り取る。


    まず著者は彼自身のスタンスを「ややオタクより」とし論考の対象であるヤンキーとの距離感を明らかにしている(書名のセンスはいわゆるサブカル的だが)。オタクとヤンキーは対立項ではない(理由は後述)、一般的にそう思われがちではあるが。冒頭のナンシー関の言葉に重ねるのであればファンシー=オタクであるといってもいいかもしれない。

    所謂オタクは自分の感情表現すらも、しばしば「引用句」で表現しようとする。これは彼らや彼女らが巣の状態での情緒的コミュニケーションが苦手なことが多いため、"<i>感情をいったん定型句に落とし込んで記号化し、時には共感や笑いによって場の空気を緩和</i>"させる工夫でもある。

    翻ってヤンキーはそういった「引用」とは無縁だ。彼らや彼女らはそういった「引用」とは無縁だ。自らの完成だけを頼りに、新しい表現(ギャル語など)を生み出していく。

    乱暴な言い方をしてしまえば「教養」と「感性」ともいえるかもしれない。
    パチンコにEVAなどアニメがモチーフとして使われるようになってから久しい。単なる趣味趣向だけでは「ヤンキー」か「オタク」かというのは判断できないし、すべきではない。
    なので、「ヤンキー」且つ「オタク」というのは成り立つし、世の大半の「オタク」はヤンキー的感性を持っている。

    『欲望は他者の欲望である』という有名なラカンの命題がある。
    <blockquote>「わたしはそうでもないけれど、みんな欲しがるから、私もそれに合わせて仕方なく"欲しがっているふり"をしているだけなんだ」(P.68)</blockquote>
    と著者はこの命題をそう解いている。

    さらに"ヤンキー文化を語るには「キャラ」=「人格的同一性を示す記号」化は避けて通れない"とし、
    <blockquote>「(日本人が)キャラ性をきわめていくと必然的にヤンキー化する」(P.69)</blockquote>という仮説を立てる。
    坂本竜馬人気も彼の果たした業績ではなく、竜馬のキャラクターに拠っているし、心酔している人はそこに酔っている。

    つまり、「何をなしたか」ではなく「どう生きたか」という"生き様"に重点がおかれているのだ。

    著者はナンシー関からの影響を冒頭で明示している。まさしくナンシーが語ったように芸能界というのは「何をなしたか」ではなく「どう生きているか」という世界である。
    おそらく戦後際長期間芸能界のトップとして君臨しているSMAPの人気の秘密をリーダーである中居がヤンキーであるという指摘をふまえ、キムタクと工藤静香こそヤンキーの究極系とする。
    徹底してベタであること。リアリズム(実利的)であること。地元志向、内面志向などの広義な保守性。
    さらにそこにはジャニーズ事務所代表のアメリカへの屈折した憧憬があるのではないだろうかと論は続く。
    <blockquote>「それは、憧れの対象を矮小化しつつ反復することでしかその両価性(「愛憎」のような)を表現できないという、いささか厄介な感情なのではなかったか。」(P.81)</blockquote>


    ヤンキーのリアリズムは「夢から逃げない」などという言葉からも窺える。
    換言すれば"自らの無垢な欲望を全面的に肯定する"ことであるが、そこには日常に根ざしたリアリズムと日常を乖離したロマンティシズムが奇妙に混合されている。
    例えば「ロレックスの時計」であったり「ポルシェ」だったり「一戸建て」といった具体的、世俗的な夢はヤンキーが「夢の大切さ」を語れば語るほど、社会における集合的な欲望を形成する共同幻想(例えばヘテロセクシズム)を強化する。

    ヤンキー的成功者の多くは、過剰なまでの情熱と行動力で新分野で業績を上げる。必ずしも革新的ではないが、従来からある価値観を新たな手法で強化するといえようか(ヤンキー的価値観に伝播する?)。
    しかし開拓者精神と比較する時、ヤンキー主義には「個人主義」と「宗教的使命感」が決定的に欠けている。


    本書でも指摘されているが、ここまで読んで自分は橋下徹を想起した。本著者は彼をヤンキーだとは断じていないが、自分はヤンキーだと捉えている。上記の「個人主義」と「宗教的使命感」欠如と「何をするか」ではなく「どうふるまうか」のみに重点を置いたパフォーマンスからそれは明らかであろう。


    本書はヤンキーに対して(皮肉めいた、くさすような視線ながらも)深く鋭く考察した名著といえるだろう。ただし、言い訳じみた箇所や学術的でない引用のしかたなど画竜点睛を欠くところもあったことは否めない。

    著者はヤンキー文化について、こう結んでいる。

    <blockquote>「生存戦略」としてこれほど強力な文化もない。何しろ彼らは、正当な価値観や根拠無しに、自らに気合を入れ、テンションをアゲてことにあたることができる。それどころか、彼らは場当たり的に根拠や伝統を捏造し、そのフェイクな物語性に身を委ねつつ、行動を起こすことすら可能なのだ。宗教的な教養に寄らずにこれほど人を動員できる文化は、おそらく他に例がない。
     断言するが、たとえ日本中が廃墟になったとしても、真っ先に立ち上がって瓦礫を片付け始めるのは彼らだ。(中略)状況を建て直し、生存し、繁殖し続けることに特化したリアリズムと言う点においても、ヤンキー文化の強みは突出している。</blockquote>

  • 書き下ろしではないのでちょっと散漫な印象があるのと、主な着眼点は実は荒井悠介氏やナンシー関さんのものであったりするので、あれだが、面白かった。自分自身は全然ヤンキーではないのだが、子どもの頃からなぜか惹かれるところがあって、それがなぜなのかが腑に落ちた。「気合とアゲアゲのノリさえあれば、まあ何とかなるべ」という反知性的人生観がそうなのだ。

    [more]<blockquote>P9 「若さ」はしばしば「違和感」への過敏さでもある。精神科の診断は、他者の異質性に対する違和感が、しばしば有力な手がかりになる。年を取ることで寛容性が増し、むしろ「人間」としての同一性のほうに視点が向かうようになれば、こうした差異に対するアンテナは鈍っていくだろう。

    P33 日常会話から生み出され会話を通じて伝播していくギャル語に対して、オタク語のほとんどはネット発だ。つまり最初は「書き文字」として生み出され、その一部が会話に転用されるという形でオタク語は生成することが多いのだ。

    P105 白洲(次郎)の気骨=生き方が注目されればされるほど、その業績は乏しいものにならざるを得ない。「生き方」が注目されるような人間は、この社会においては決して主流派たりえないからだ。


    P114 ひたすら繰り返されるのは、とにかく自分の好きなことを、アツさと気合で、やれるだけやって見ろという行動主義だ。【中略】その一報で、全体の状況を冷静に判断し、緻密な予測と計算に基づいて行動するような姿勢は、一貫して軽蔑される。彼の言葉を借りるなら、判断よりも決断が大事というわけだ。(感性に基づく投機的行動主義)

    P138 「熱」と「関係」を全面的に信ずる限り、理論など無用の長物でしかない。この立場は、プリミティブであるがゆえに極めて強く、ある種の普遍性すら帯びている。しかしまた、その強さゆえに、この立場は社会への無理解や無関心にもつながって行く。社会は常に「クソッタレ」なもの、つらく厳しいもの、という認識で止まってしまう。それゆえ、変えるべきは個人であって、社会のほうではないということになる。こうした姿勢は、必然的には現状肯定の保守反動的立場に落ち着きがちだ。

    P147 「ヤンキー的リアリズム」を構成する要素のうち最も重要なものは体当たり的な行動主義だ。それはしばしば過度に情緒的であるがゆえに反知性主義と結びついて、一層無鉄砲な行動に向かわせがちである。

    P149 (海外の教師ものとの)重要な違いは、生徒の向上を促すモノが、単なる教師との信頼関係のみならず「氏」屋「演劇」あるいは「音楽」といった知的鋭意なのだ、とい主張がなされている点だ。その背景にあるのは、自由で自立した個人であるためには、何らかの知的スキルの向上が不可欠であるという信念ないし常識である。おそらくこれこそが、我が国における『熱血教師もの』に欠けている視点ではないか。

    P173 「野郎ども」には、女性の介在を否定するような「ホモソーシャル」な関係性がある。【中略】ホモフォビア(同性愛嫌悪)とミソジニー(女性嫌悪)を基盤として成立する男性同士の強い連帯関係のことだ。

    P199 自己犠牲をもいとわないナルシシズム、つまり文字通りの意味で死ぬほど自分のことが好き、であることの格好良さ。それに尽きる。家族のためでもなく、仲間のためでもなく、ただ自分自身のためだけに貫かれる規範なき正義。究極のナルシシストだけが獲得できる純粋な公共性。おそらく美と倫理とは、この次元においてのみ完全に両立しうる。だからただ「断る」ではいけない。「だが断る」の倫理性は、まさに「だが」にこそ宿る。

    P217 オタクになることと同様に、ヤンキーたるにも「遺伝子」が必要だ。

    P226 「日本的な光」というのは、しばしば点ではなくて面全体から発せられる。【中略】日本人の「面光源」への偏愛は、対象そのものを発行させたり、あるいは光そのものを実体化したいという欲望に由来すると僕は考えている。【中略】僕はこうした欲望がヤンキーの「光り物」好きにも通じていると考えている。さらにこの嗜好は、世界を照らすよりもまず自分が発光してしまう古事記の神々のイメージと、どこか深いところでつながっているように思われてならない。

    P240 そこには規範も、本質的な価値観も、系統的な教義もない。ポエムはあっても文学性はなく、自立主義はあるが個人主義はなく、おまけにバッドセンスで反知性主義ですらある。しかしひとたび視点を変えれば「生存戦略」としてこれほど強力な文化もない。なにしろ彼らは、正当な価値観や根拠なしに、自らに気合いを入れ、テンションをアゲてことにあたることができる。それどころか、彼らは場当たり的に根拠や伝統を捏造し、そのフェイクな物語性に身を委ねつつ、行動を起こすことすら可能なのだ。宗教的な教義によらずにこれほど人を動員できる文化は、おそらく他に例がない。</blockquote>

  • ヤンキー文化論。多くの他の書籍や評論を引用し過ぎて読みづらい点はあるもののヤンキー文化に本質がないと言う指摘は至極納得。ラーメン屋の作務衣の例示は腹落ちw

  • 日本语奇怪。カーサンバイザー是妈妈桑还是车和太阳、ナンシー関是関取、こうれいの是高龄还是恒例的パレード。

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著者プロフィール

斎藤環(さいとう・たまき) 精神科医。筑波大学医学医療系社会精神保健学・教授。オープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン(ODNJP)共同代表。著書に『社会的ひきこもり』『生き延びるためのラカン』『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』『コロナ・アンビバレンスの憂鬱』ほか多数。

「2023年 『みんなの宗教2世問題』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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