- 本 ・本 (400ページ)
- / ISBN・EAN: 9784041111505
作品紹介・あらすじ
障がい者施設のベッドに“かたまり”として存在するきーちゃん。施設の職員で極端な浄化思想に染まっていくさとくん。二人の果てなき思惟が日本に横たわる悪意と狂気を鋭く射貫く。文学史を塗り替えた傑作!
感想・レビュー・書評
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読後のスッキリしない気持ち。内容に対してじゃなくて、自分の無関心を晒され炙られ終わることへのスッキリしなさがすごい。
障がい者施設殺傷事件の起きる少し前から発生時を被害者の視点から描いた本作。語り手の重度障害者のきーちゃんの独白(きーちゃんは言葉を発せず、目が見えなく上下肢も動かない)で話が進んでいく。
その話のなかで障がい者という存在がいかに不可視化されているか、障がい者の社会的な位置づけが不確かでぞんざいなものかというのが感じられる。マジョリティの都合で可視不可視が決められてしまうなか、事件や特集のときだけ意見して普段は素知らぬフリをしていることへの指摘。終盤を読んでいてそこが心を抉られました。
考えすぎも良くないけど、考えずに風通しが良いことばかりしてるのもダメだなと感じる読後感。自分の無関心さと偽善を抉る1冊でした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
映画がきっかけで原作を読んでみた。
前半は主人公の一人語りが多く、その語りの内容も深いというか、「にんげん」「こころ」「存在」といったすぐに答えられないような事柄の「意味」をこれでもかというくらい掘り下げつつ、時に四方八方に寄り道していくので(まるで誰かの脳内を覗き見ているよう!)、読み進むのに時間がかかってしまった。
そのせいか、後半に進むにつれてページを繰るのが早くなっていったのだが、そんな自分の行為がまるで、単純に答えを出そうとして浅はかな選択をしたと感じる「さとくん」と重なるようで、我ながら恐かった。
簡単に答えが出せないこと、分からないことを、自分の中に抱えながら生きていくことの難しさ、落ち着かなさ、考え続けることの苛立ち…などを何度も経験することで、少しずつ自分の血肉になっていき、その繰り返しが他者への想像力にもつながるのではないか?
読み終わった直後だけ偉そうに考えている自分に、「こちら」と「あちら」の境界線との向き合い方をおも~く問いかけてくる。
実際には事を起こさないが、後半のさとくんの独白の一部に、自分も含め、ある種の近しい思いを感じているひとが多々いるのではないだろうか…そう思わせる文章の迫力!! -
もし、その人が自分で動くこともできず、言葉も発せず、自分の意思をこちらにわかる形で示すことが出来ず、こちらの声掛けにも反応を見せなかったら、その人にだって心はある、と信じられる人はどれだけいるだろうか。
この話は、主人公きーちゃんの長い独白から始まる。実際に触れて、見て、経験することの出来ない人の、頭の中だけの思考。そこには既成概念も常識も道徳や自制心もない。聞こえてくる音や声、身近にあるものの気配だけで、感じて考える。だけど、心の中の風景は、驚くほど豊かだ。それは、温かいとか愛おしいとか慈しみなどとはほど遠いけれど。
当然のことながら、彼女には自分が「在る」ことに意義が見いだせない。
きーちゃんは、元職員の、他の職員とちょっと違うさとくんをずっと見ていた。そしてさとくんはその真面目さゆえに、ある考えに囚われていく。
さとくんには悪意はない。それでも入所者様たちを一人でも多く殺すことが正しいことだ、と感じる、その気持ちを、それまでのきーちゃんの思考に揉みくちゃにされた私の頭が割と素直に受け入れてしまった。この人たちは心もなく意思もない、「ただ在る」ことに何らかの意味があるのか、と。
もちろん、さとくんのやったことは間違いだった。心のないものは存在しなくても良いという信念で行動したけれど、きーちゃんという、間違いなく心を持った入所者も手に掛けたのだから。きーちゃん以外の入所者にだって心はあったかもしれない。外から見えないだけで。。でも、きーちゃんも無を望んでいたのだ。・・・・
何をもって人とみなすのか、「存在」するということは何なのか。私が当然と思ってきた、常識というものが揺らぐような、重い、重い話だった。でも、読むべき本だと思う。 -
映像を見る勇気はないけれど、やっぱり気になって手にしたこの本。なんでこんなに読むのが苦痛な本を読んでるんだろうって、思いが頭の中をぐるぐる…
何にも知らないで、綺麗事言って、良い人ぶってるだけなんじゃないの?
って、突きつけられてる気がする…。
植松死刑囚が描いた絵を思い出す。あの絵を見た時、狂気の沙汰だ…一線を超えた人の絵だ…とふと思った。なにが彼を、その一線へと追いやってしまったんだろう…。
夜寝る前に読む本じゃなかった…。
けど、読むべき一冊だと思う。 -
重心とよばれる方々と関わる仕事をしています。
日常的に接する中で、彼、彼女らは確実に「人のこころ」を持っているし、むしろ、それがむきだしで、さまざまな忖度がないと思っています。彼らと好意をもって関わろうとしている人たちは、全員ではないにしろ、その忖度のなさに魅力を感じている人は多くいると思っています。
ただ、そういったある種、悲しいかな少数派の感覚をもった人の世界で生活していると、社会一般から、この世界がどう捉えられているかわからなくなり、それはそれで、平穏なことではないとも日々感じます。
辺見先生は、人間のおどろおどろしい局面に入り込み、この一冊に表現してくださっています。
本来であれば、私たちのように彼らに好意的感情をもって、生活している人たちにもぜひ読んでもらいたいです。 -
映画とは異なっていた。映画は、施設で働く職員側(またその家族)からの視点で描かれていたが、原作の小説は施設に住む方からの視点で描かれている。
重度の障害を抱える方が、どのようなことを実際に感じているか思っているかはわからないが、この小説で書かれてるような詩情的ではないにせよ、それに近いことを感じてるかもしれないなと思った。
特に痛みの記載については、行動障害を抱える方の抱える痛みに近いものがあるとしたらと思うと、何とも言えない気持ちが湧き上がってきた。
この本を読んで、障害を抱える方への支援について偉そうなことを思ってきたかもしれないと、反省させられた。
何か結論やヒントが分かるわけではないが、思考や考えが変わるような、一読すべき良書と思った。 -
今までで1番苦しい本だったかもしれない。でも読み終えた。読まなきゃいけないような気がしたから。入所者側の気持ち、声には出せないけど考えていることはたくさんあって、声に出せないから殺された。旧優生法被害者が勝訴して、日本はまた一つ平等になろうとしている。加害者のさとくんも、被害者のふーちゃんもきーちゃんも、どちらもものすごく辛かったと思う。平等な社会って、なんだろうか。
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ただ、そこに存在している。思考をしているかしていないかは私たちには到底分からない。なぜなら言葉を発せないから。ただ、そこに存在しているだけだから。
人は生まれながら人になれるわけではないのか、こころとはどこにあるのか。何が善くて何が悪いのか、根本が捻れる。 -
語り手が障害を持っている主人公きーちゃんであるというのが新しい。きーちゃんの考えが淡々と述べられ、最初は読みづらさがあったがきーちゃんが考えているコト、きーちゃんのさとくんへの想いがしっかり頭に入り込んで終盤にかけての展開は息を呑んだ。
多くの人に一度は読んで重度身体障害者、施設スタッフの現状を考える作業をしてほしいと思った。
私は実際に重度身体障害者の方に会ったこともなければ介助をしたことがあるわけでもない。
テレビの中で施設の方が介助をしてるのを見たとしてもテレビで映せる綺麗な部分を一部分だけ。実際には想像もできないような神経が削られる出来事、場面がたくさんあるのだろう。
その事実が人格や考え方を変えてしまうこともあるとは思う。
しかしどの命にも優劣はなく天秤にはかけてはいけない。これは当たり前。
問題と思ったのはこの重度身体障害者の介助をしているスタッフの心のケアがしっかり出来ているのか。さとくんのように現実を目の当たりにして心が壊れる瞬間が生まれてはいけない。あの事件が起こった容疑者側の背景にも目を向けたい。
日常的に入居者への虐待が行われてしまっている施設もあると言われてる今、しっかりとその根本に目を向けなければならない。互いが対等であり人としてあり続けるためには尊重が必要。その尊重を作るにはまず施設スタッフの気持ちに寄り添った働き方を作らなければならないのだと感じた。 -
相模原障害施設やまゆり園で起こった障害者殺傷事件をモデルとした物語。
身動きも出来ない「きーちゃん」は思う事だけは出来る。
そのきーちゃんの別人格「あかぎあかえ」や犯人の「さとちゃん」の思いで構成されていく。
非常に読みにくいが、その読みにくい文章で障害者の思い、障害者に対する思いを表現しているのだろう。
最後の数ページはさとちゃんが事件を起こしている時の思い。
「こころ」があるか無いかで殺すか殺さないか決めていく。実際の犯人は話せるか話せないかで決めていったらしい。
自分や家族が重い障害を抱えてない事に安堵する自分を見つめ直す作品でした。
著者プロフィール
辺見庸の作品





