決定版 戦略プロフェッショナル 戦略独創経営を拓く

  • KADOKAWA (2022年12月26日発売)
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本 ・本 (360ページ) / ISBN・EAN: 9784041127933

作品紹介・あらすじ

ゼロから改革モデルを創造し、不振事業を再生する
危機の現場「死の谷」から独自の戦略を生み出した男。
その軌跡と「実戦」手法を初めて全公開する。
シリーズ累計約100万部、不朽の名著が一新!

独創的な戦略経営者は日本でいかに生まれたか?
経営者の仕事で最も難しいのは不振事業の再生である。約50年間、その難業に取り組み続けてきたのが著者だ。
常に現場で「戦略」と「論理に支えられた腕力」を磨き続け、日本企業の再生手法を編み出すことに尽くしてきた。しかし、その軌跡のすべては明らかにされていなかった。
シリーズ第1巻の本書では、まだ何ものでもない20代の若者が経営者を志して歩き始め、30代早々に「戦略経営者」の初陣に撃って出る。
そこで味わった成功と失敗を赤裸々に描いた唯一無二の経営戦略書+人生論である。
――戦略プロフェッショナルを目指す、すべての人々に捧げる。

【目次】
プロローグ
第一章 経営者になりたい
 第一節 自立の志
 第二節 戦略コンサルタントへの挑戦
第二章 国際レベル人材を目指す
 第一節 太陽がいっぱいの大学キャンパス
 第二節 米国経営者の懐に入る
第三章 経営者への第一ステップ
 第一節 人生の岐路に立つ
 第二節 「全体俯瞰」で見る
第四章 決断と行動の時
第五章 飛躍への妙案
第六章 本陣を直撃せよ
第七章 戦いに勝つ
第八章 戦略経営者の初陣を終える
エピローグ 世界の事業革新のメガトレンド 論考八~九

※本書は、ダイヤモンド社より2013年6月に刊行された『戦略プロフェッショナル[増補改訂版]』を全面的にノンフィクションの書き下ろしに改め、さらに新章をはじめ大幅な加筆をした決定版です。

感想・レビュー・書評

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  • この本は非常に実践的で分かりやすい内容だと思う。

    触れ込みとしては、著者が実際に取り組んできた不振事業の再生に関する実践的な手法と経験をまとめたものとして、改革モデルを創造し、独自の戦略を生み出した軌跡が詳細に記されるというもの。小説仕立てで、若い頃から経営者を志し、戦略コンサルタントとしての挑戦や国際レベルの人材を目指す過程が描かれる。

    ただ、既に事業の立て直しや創業、コンサル系なので実践している人にとっては、そもそも認識しているべきセオリーだという気もする。よく言えば実践的で的を射ているのだが、悪く言えば、目新しい事はない。それほどまでに、基本に忠実であることが、有効な戦略なのだとも言える。問題はユニークな状況での個別対応に宿るのかもしれない。

    とは言いながら、関心のある分野で一点学びがあった。価格のセンシティビティ分析、価格感応性分析について。値付けの妥当性、適正価格についてどのように判断すべきかというのは、多様な考え方があるので悩みどころ。コストアプローチかマーケットアプローチかという所だが、後者で競合価格も気にして設定するのが通常だと思う。セオリーを知らなくても感覚的にできてしまう分野に対し、ある程度は参考にできそうなセオリーがあるという事を知ったという意味で、収穫だった。

  • 事業再生プロフェッショナルの要諦が、わかりやすい文体で書かれており頭にすーっと入りやすかった。時に辛辣な言葉でリーダー、経営者に必要な覚悟を感じ、論理性と情熱を2軸に、座学にてしっかりと戦略フレームワークを学ぶ事とリアルではシンプルな戦略、目標の達成にとことんこだわる実行力が大事なんだと学んだ。

  • この本は、旧版から数えれば、私が社会人になった20年前から何度も何度も手に取って読み返している。

    主人公はMBAを持った30代半ばのビジネスマンで、まさに戦略を武器にして、停滞したビジネスに風穴を開け、大成功を勝ち取っていく。私が本書を最初に手に取った頃はまだ新人で、いつかはこんなかっこいい仕事ができるようになりたいと思いながら仕事をしていた。

    いつの間にか、自分も40半ばになり、この本の主人公の年齢を遥かに超えてしまった。実力はどうだろう?

  • ・日本人でBCGの黎明期に参画した人の伝記。結局大成する人、結果を残す人はリスクを取っている。覚悟が違う。「たとえ失敗してもその時は惨めな思いをするが、
    実は同時にも学びを得ており、それが後の人生で役立つ可能性が高い。」「勝負を続けている者になりたい。」「平日夜も週末も働き続けた」
    ・朝から夜まで一日中、一年365日、時間を見つけては自分を英語漬けにした。
    ・どんなにつまらない仕事でも一生懸命やる、手抜きしない。上司から求められたものには必ず100%で返した。出来れば120%で返した。この20%の差がアマかプロの差。
    ・コンサルは高い⇒内部で専門の戦略ブレーン(経営直轄)を置くと、社内でその部署が自己主張を始める。理屈も口も達者な人たちに、他の幹部や現場の長(=部長)は勝てない。そうなれば、事業部は戦略を実行する者という役割に成り下がる。
    ・粗利益が低いのは、単にコストに比べて高い価格を付けられないから。競争の中で顧客が認めてくれる商品価値がそれだけであるということ。
    ・自社の説明をするときには、業績⇒市場の規模・成長率⇒競合⇒当社の強みの順。
    ・その気になってみれば、情報は目の前にたくさんあるもの。それに意味をつけて発信してくれるやつがいるかどうか。
    ・改革者に対して、幹部たちの素直さは変革の成否を分ける。幹部たちが政治性を発揮した際に、改革者も政治性で対抗してはいけない。あくまで頼りにするのは論理の力。
    ・まなぬるい会社に共通しているのは、社員のエネルギーが内向していること。客と競合に対する意識が薄い。
    ・その事業の良し悪しは競合と比べてどうか。社内だけみて良いからではなく、いくらダメでも競合よりはましではあれば、勝っている。
    ・成長戦略のポイントは絞りと集中。どんな小さな市場セグメントでもいいから、#1になること。集中するためには、組織に無理を強いる、不安を感じさせることもある。そのためにはリーダーあある程度の強引さを感じさせる必要ある。社内の大勢が初めから安らかに受け入れる戦略はダメ。誰もやったことない戦略をやるのだから、リスクはつきもの。夜はグーっと寝れるくらいキモが座っている必要あり。
    ・価格戦略として、原価に一定%を上乗せして自動的に価格を決めるのはコストプラス方式は、それが対競合戦略として有効かを考えない非戦略的手法。
    ・将来経営人材を目指すなら、なるべく早く人の上に立つ経験を始めた方が良い。
    ・事業戦略は実行できなければ意味がない。なので、事業戦略はその組織能力に見合ったものでなければならない。

  • 350Pほど
    読了。

    社会人・1人の人間としてエネルギーを与えてくれる本だと思う。戦略プロフェッショナルというタイトルではあるが、この言葉に惑わされず、まずは手にとって読んでみてほしい。
    繰り返し読みたい1冊だと思った。

    一つの物語としてだけではなく、各ノートのところで、重要な思考・考えがまとめられていて、何か実行に移したい、移せるようになっている。

    もう一回読んで振り返りたい。

  • 三枝氏の自叙伝。
    戦略のノウハウを書かれているというよりも、自分の実態経験談なので、あまり参考にはならない。いわゆる成功体験談。

  • とにかく主人公の黒岩(=三枝さん)が有能。同じ社会人・サラリーマンとして大いに刺激を受けられる。
    これまで研修や勉強会で戦略フレームワークは何度か学んだが、ここまで実践に即しながら学べる教材はなかなかない。実業務で使ってこそのフレームワークなんだと再認識した。
    特に、セグメンテーションで顧客のターゲティングが明確になっていくプロセスは、実に鮮やかで見事だと感じた。
    戦略は誰でも理解できるようなシンプルであること、絞りを効かせること、それを全社に落とし込んでいくこと、どれも非常に勉強になった。

  •  当時米国の経営者は、日本企業の多くが負債比率七割以上になっているのを見て「どの会社も倒産寸前じゃないか」と馬鹿にして笑っていたのだ。
     ところがやがて彼らは、馬鹿にしていられなくなる。日本企業がその戦略を活かして高成長を続け、次々と米国市場に攻め込んできたからである。
     ヘンダーソンは、日本企業の行動で裏付けられた「マーケットシェアの価値」「借入金をテコにした成長加速」という論理をさらに進め、世界的に有名になるPPM(プロダクト・ポートフォリオ・マネージメント)という戦略モデルを生み出すに至る。
     彼は、世界の誰も注目していない日本企業がいずれ、とてつもなく大きな存在になっていくことに気づいていた。彼は唱えた。米国企業が日本に対抗しようとするなら、配当重視の短期利益志向を変え、今から日本企業と同じような成長主義をとり、長期視点の投資を増やさなければならない。
     それができなければ、やがて米国企業は多くの産業分野で危うくなる。既に始まっていた繊維産業の日米貿易摩擦どころの話ではなくなる。
     それが、彼のPPM理論から解釈できることだった。日本の経営から学んだ結果として、一九七〇年前後に、米国企業への警告が発せられたのである。日米競争のその後の展開を見れば、ヘンダーソンの警告はまさに正しかったことが分かる。
     戦後の復興と高度成長期に、日本人は熱くなって、本能的に世界を走り回っていただけで、自分たちの経営を解析し、経営方針を論理的に議論することなどしていなかった。つまりその解析をすべて米国人にやらせてしまったのである。
     日本の学者の多くも同じだった。本来なら日本の活性化を高めるために、ユニークな経営論理の開発に役割を果たすべきだったが、彼らはむしろ米国の文献を引用し「アメリカではこうだ」と語ることに熱心だった。
     米国が三〇年の凋落を経て元気復活を実現していくための論理開発が、他ならぬ「日本経営からの読み取り」で始まっていたことに、日本人はショックを受けてないだろうか。「知らぬは日本人ばかりなり」だったのである。
     日本人は毎日猛烈に働いて、労働の物量において米国人を圧倒していた。しかし経営の知的戦いで日本人は負けていたのである。アメリカから学ぶことには熱心だったが、自分の強みを自ら論理化して次の強みに展開していくことはやっていなかった、それを米国人にやらせてしまい、それが米国の競争力回復に使われてしまったのである。
     日米シーソーゲームの後半三〇年間で来る「米国の元気復活」は、このBCGの論理開発が重大な伏線になっていた。私はこれを、日本の経営が米国人によって解析され、米国の強さの復活に結びついていった歴史における「読み取られ『第1』大事件」と呼んでいる(第2大事件のことは後述する)。
     日本でバブルがはじけた頃、中国は貧困から立ちあがろうと苦しんでいた。その時、米国は戦後日本に援助として技術を与えたのと同じ寛容さで先端技術を中国に与え続けた。日本人留学生を減らし、大量の中国人留学生を受け入れた。中国は学びと援助を受けて、それをテコに、経済的、軍事的、政治的に台頭した。
     いま米国は、かつての日米貿易摩擦における日本に対する政治的対決姿勢と同じパターンで、中国を抑え込むことに躍起になっている。米国人は日本人に苦しめられた三〇年間の歴史から学んでいなかったように見える。
     一方日本人は、米国人が苦しみながら行ってきた「創造的な知的努力」に匹敵する努力を、日本人自身が後半三〇年間で行ってきたのだろうか。それをしてこなかったために失われた一〇年間がいまや三〇年になっている。 日本人はむしろますます米国の後追いになり、その後追いさえ中国人よりも遅いスピードでやってきたので、いまや中国にも追い抜かれた。
     日本の経営を抜本的に「革新」する論理(フレームワーク)を見つけるために、われわれ日本人は本当にのたうち回ってきたと言えるのだろうか。日本の企業家、学者、コンサルタントなどの頭脳レベル人材の中で、どれほどの人が、一気呵成に日本経営の革新を狙うことに挑戦する論理と手法の開発をしたのだろうか。生ぬるい改革姿勢が失われた三〇年間を生み出していることに、われわれの強い自省が必要ではないか。

     八〇年代の中頃から、トヨタ生産方式のカイゼンの動きが、米国の電機、パソコン、フィルム、航空機、医療機器、玩具、樹脂形成など、さまざまな産業に広まっていく。やがて、物流、郵便、建設などの「非製造業」への応用も始まった。日本人が考えなかった素晴らしい発想転換だった。
     私はカンバン方式が病院改革に応用されていると聞いて、驚いて米国の病院を見に行った。九〇年代の初めの頃の話だ。日本では誰も考えないことを米国人は試していた。彼らは日本人のサル真似ではなく、異なる分野への応用のため、独自の「論理化、抽象化、敷衍化」を始めていた。日本の同じ業界の人々でさえ、無関心、無知だったことだ。日本の経営者でトヨタ生産方式の簡単な説明ができない人は今でもいる。いわんや八〇年代となれば、米国でカイゼンという言葉が英語になっていることを、当時の日本人のほとんどが知らなかった。日本人は驕って、日本がものつくりで世界一であり、誰にも追いつかれないと思い込んでいたのである。
     日本の手法がすっかり解析され、真似られていると気づいたのは、すでに日本が世界競争の中で大きく後れをとっていることが見えてきた後のことだ。
     この鈍感さが日本人に致命的な遅れを生んだ。自分たちの強みを自ら解析し、論理化し、それを武器にして経営の知的戦いを進化させ、世界でいつも先を行くという経営進化の戦いで、日本のビジネスマンも学者も負けてしまった。
     八〇年代後半になって、再びBCGの創業者ブルース・ヘンダーソンが登場してくる。年老いても洞察力は鋭かった。彼はBCGの二人の副社長を呼び、こう言ったという。「トヨタのカンバン方式は在庫を減らすことを眼目にしているようだが、在庫減らしがなぜ企業を強くするのか、自分にはその論理がサッパリわからない。日本に行って解析してきてくれ」。
     この二人の副社長は私がBCGにいた七〇年前後に一緒に働いたことがあった。叡智に満ちた人材だった。彼らは日本の工場を訪ね歩き、トヨタ生産方式の本質を解き明かそうとした。そして驚くべき新論理を「発見」(ディスカバー)した。その知的解析の切れ味を聞き及んで、私は唸った。
    「カンバン方式は、工場の改善だけの話ではない。企業にとって重大な戦略要素を含んでいる。それは『時間』という概念だ。企業は『時間の戦略』を追いかけることで、競争優位を築くことができる」
     日本人が長年、工場現場で汗まみれで取り組んできた手法に、この二人は凄まじいまでの論理的な飛躍を与えた。そして、それを米国に持ち帰った。彼らが一九九〇年に出版した“Competing against Time”(邦訳書『タイムベース競争戦略』ダイヤモンド社、一九九三)は米国で大評判になった。日本での出版が三年も遅れたところに、当時の日本の関係者の鈍感さが表れている。
     米国人は「時間」が戦略要素だと知ると、突然、新しいアイデアを飛ばし始めた。「時間がカギだとなれば、生産だけでなく『開発』にも当てはまるはずだ」。
     例えば自動車分野では、新車の開発期間がやり玉に挙がった。日本が当時、新車の開発を約三年で完了するのに、米国は五年も六年もかけていた。つまり米国が新車一モデルを売り出す間に、日本では二モデルを世界に向けて売り出す。これじゃ勝てるはずはないと気づいた。米国人は開発期間を短縮させるため「並行開発」の手法を急進展させた。時間戦略の概念が発見されたことで、日本の重要な競争性が一つ失われたのだ。
     米国人はさらに、生産、開発だけでなく営業を含む「創る、作る、売る」の事業組織全体の仕事を「早回し」すれば、それが有効な企業戦略の新しい切り口になると気づいた。
     そして、とうとう「ビジネス・プロセス・リエンジニアリング」の思想にたどり着く。それを提唱したのはMITの教授マイケル・ハマーだ。
    「米国企業はリストラや、単なる『部分最適』のカイゼンでは、もう日本の強さに対抗できない。『作る、作る、売る』のビジネスプロセス全体を一気呵成に改革し、『全体最適』『劇的改革』を狙うべきだ」。
     彼が九三年に出版した“Reengineering the Corporation”は米国で大反響を生んだ(邦訳書『リエンジニアリング革命』日本経済新聞社、二〇〇二年の文庫版には三枝の解説文が収録されている)。
     私はハマーの研修セミナーを聞きたくなって、わざわざボストンに行った。そこで驚くべき光景を目にした。セミナー会場は一〇〇〇人以上を収容する劇場のような場所だった。日本での常識の一〇倍とも思える高い受講料を取り、まさに学者ボロ儲けの光景だった。しかし、私が驚いたのはそのことではない。
     米国企業が一社当たり数名のカイゼンチームを送り込んで、会場は満員で凄い熱気だった。私は二日間の研修を聞きながら、これは「どこかで見た景色」だと思った。ハタと気づいて愕然とした。日本の高度成長期に日科技連が主催していた、品質改善活動の「QCサークル大会」の雰囲気にそっくりだったのだ。同じ熱気が三〇年遅れで、米国で再現されていると思った。
     この動きは、これまでの米国のコンサルタントや学者らが唱えていた抽象的論理ではない。今回は、米国企業の普通の社員たちが、ダンゴになって、日本の強みだったミドル主導の活動形態を実践しているのである。トップダウンが主体の米国経営の歴史を考えたら、この変化はただごとではない。
     私は日本に戻る飛行機の中で、「米国はとうとう、強さ復活への出口を探し当てたのかもしれない」と思った。その展開を見て、私は「時間戦略」や「リエンジニアリング」が歴史的エポックになると位置づけた。日本の経営が米国人によって解析され、米国の強さ復活に結びついていった歴史における「読み取られ『第2』大事件」であると呼ぶことにした。
     相変わらず、知らぬは日本人ばかりだった。米国が日本から学び、米国人の足音が背後に聞こえるくらい迫ってきているのに、日本人にはその自覚はなかった。
     だから日本の経営者が新しい戦略モデルを考え出して、安心なアプローチで改革に挑んでいるという話を聞かなかった。日本企業は商品開発には熱心だったが、「経営手法の開発」には時間もお金もかけなかった。社内のサラリーマン化は一層強まり、それが日本企業の致命的な弱みとして表面化してくる。
     日本と米国企業が戦後六〇年間にわたって演じてきたシーソーゲームは、一九九〇年前後に大きな変節点を迎えた。米国の強さ復活、日本の凋落と停滞。日本がすっかり落ち込んでしまった後半三〇年間が始まったのである。
     米国が急に強くなったのではなく、まず日本が先に、自らの経済破綻で自滅した。バブルの狂騒曲を演じ、多くの企業が国際競争力を失った。米国企業が「劇的変革」を狙いは始めたまさにその時期に、日本は逆にしゃがみ込んだ。その明暗が、シーソーの逆転に凄まじい勢いをつけた。
     ちょうどその頃、「事業革新のメガトレンド」にもう一つの、大きな「潮流」が加わってくる。IT技術の台頭である。米軍の中で使われていたインターネット技術が民間に開放され、同じ一九九〇年前後を境に、その利用が爆発的に広がり始めた。しかもその流れは、日本から学んだメガトレンド前半三〇年間の論理展開に、凄まじい勢いで「合体」していくのである。
     その新潮流は、前に述べた「全体最適」「劇的変革」の組合せをさらに加速させるものだった。リエンジニアリングやサプライチェーンの論理に沿って、SAPやオラクルのようなERP(業務統合ソフト)の発展が生まれる。サプライチェーンなどの「社内連鎖」をコンピューターの統合システムで繋げる発想だった。
     そこからさらなる展開が一〇年単位の時間をかけて進行していった。一時、流行語になったInD4.0やIoTと言われるような、「産業を超えた広域の全体最適」を図るシステムが試されるようになった。トヨタ生産方式の現場改善から始まったメガトレンドの戦いは、次いで、情報システムの戦いに変身したのだ。日本人は完全な後追いに回った。
     同じIT技術の流れから、「EC事業」が台頭してきた。その本質は、やはり「全体最適」「劇的変革」を追求するものだった。それは各業界を支配していた「多段階流通」を破壊するものだった。その筆頭企業は、言わずと知れたアマゾンだ。世界各国に進出して、それぞれの国の多段階流通を破壊することで成長を続けた。アマゾンも日米六〇年間のシーソーゲームの寵児であり、その源流に「日本の経営」があったこと認識している日本人は少ない。
     アマゾンの粗利益率は四〇%近くに上がってきた。しかし驚くのは、営業利益率はわずか二%台の低さで推移していることだ。それ以前は赤字の時期が長く続いた。高い粗利益率と低い営業利益の差額は何に使われてきたのか。
     もちろんそれは、IT開発、配送センターなどの物流革新、世界一になったクラウド事業などへの投資に使われてきた。日本企業はもちろん、多くの米国企業でさえ対抗できない巨額投資だった。
     アマゾンは低い収益率が許されることを武器にして、凄まじい高成長を追求してきた。ブルース・ヘンダーソンは借入金によって企業成長を加速する論理を唱えたが、アマゾンなどハイテクベンチャーは借入金の代わりにキャピタルゲインの論理を取り込むことで成長を加速してきた。外部マネーを利用して高成長を狙う戦略の方程式は高度成長期の日本の経営と同じなのだ。だから、アマゾンのような成長戦略ロジックを米国人に教えたのは、事業革新のメガトレンドを遡れば日本人であり、彼らが日本の成長の経営手法を当時、探し当てたからだと私は考える。
     かつて「マーケットシェア志向の経営など邪道」と言っていた米国経営者は、日本の経営の「読み取られ『第1』大事件」によって、それが正当な戦略であることを学んだ。アマゾンはいまそれを愚直に実行している。むしろその戦略を忘れてしまったのは日本企業なのだ。
     首都圏でアマゾンに注文すれば、午後に着荷する。この「時間戦略」を米国人に教えたのは誰か。メガトレンドを遡れば、これも日本人だ。トヨタ生産方式に学び、「一個流し」(書籍一冊でも)「短いリードタイム」(半日で)顧客に届ける。日本の「読み取られ『第2』大事件」を出発点にして、アマゾンは凄まじい物流戦略を編み出し、それを実行してきたのである。
     米国人が日本の生産技術から「時間の戦略」を発見(ディスカバー)し、その戦略価値を大きく敷衍化していったのに対して、多くの日本の経営者は、生産技術はあくまで工場の問題だと思い続けていた。
     デルコンピュータが日本市場に進出して短期間で市場三位の地位を奪い取ったのも同じだ。
     まず彼らの低価格・高シェア志向戦略は日本の「読み取られ『第1』大事件」から学んだものだ。加えて、「読み取られ『第2』大事件」から発想をえたデルモデルでは、日本の顧客が画面でパソコンの仕様を選ぶと、その注文を一台でも受け付け、それを中国厦門の工場に伝えると、直ちに「一個流し」手法で組み立て、航空貨物で日本の顧客の玄関にまで届ける。
     創業者マイケル・デル本人がホテルオークラでデルモデルの説明会をひらいたことがある。それを聴く機会を得たが、その時、彼の説明で、このモデルがまるで彼らのオリジナルの発想であるかのような自慢話だったので、私は悔しくて、手を挙げて質問した。マイケル・デルは「そうです、デルモデルはトヨタ生産方式との出合いから学んで生まれた」と正直に答えてくれた。
     アップルのスマートフォン。それを買っている日本人の多くはそれが台湾企業フォクスコンの中国工場で生産されたものであることを知らない。私は十数年前に、同社が上海に持っていた金型工場を見学させてもらっていた。日本の金型産業が中国シフトで壊滅的打撃を受け始めていた時期だ。工場見学を終え、会議室でその生産子会社の社長と懇談した。きれいなアメリカ英語を話す三〇代後半らしい中国人だった。その彼が驚くべきことを言い始めた。
     なんと彼は「ビジネスでは『時間』が重要だ」と私に説き始めたのである。日本の経営者でさえ時間戦略の意味を知らない人が多いのに、中国人が日本の「読み取られ『第2』大事件」から学んでいるのだ。それを自分の戦略として口にしている。私はその現実に打ちのめされた。米国人が日本の工場から読み取った論理が、日本に戻ることなく、日本を飛び越して中国に行き、そこに来た日本人が中国人から説教されるハメになっている。
     こうして、日本人は前半三〇年間、自分自身の強みを解析して論理を進化させる戦いに負け、そして後半三〇年間に入ってバブル崩壊後の大不況に陥ると、抜本的改革を避け、しゃがみ込んだ。縮小均衡によって切り抜けようとした日本企業が圧倒的に多かった。世界のメガトレンドが、さらなる敷衍化、実業化に向けて激しく動いている中で、日本人はしゃがんだままだった。
     さらに二〇一〇年代に入ると、時間戦略に合体したIT戦略やEC戦略が急展開を始め、日本の後追いは決定的になった。中国にも追い抜かれてしまった。
     話は少し戻るが、私は一九八〇年代中頃、故鮎川彌一氏の誘いを受けベンチャー・キャピタル会社の社長に就いた。三九歳だった。私が人生でマネーの世界に近づいた最初で最後の仕事だった。日本で、いわゆる早期段階のベンチャーを育成するという理念に、私は燃えて挑んだ。ところがうまく行かなかった。一九八〇年代の日本では、優れた事業ネタや経験豊富なベンチャー経営者との出会いがあまりにも少なかった。
     やむなく私は投資先を求めてシリコンバレーにも行った。そこで見た景色は日本とは大違いだった。初め、私は違和感を覚えた。米国の最優秀の人々が「インスタント成金」をめざして血まなこになっていた。しかし高リスクのハイテク分野で、「一社の成功の陰に一〇〇社の失敗」という消耗戦をしていた。すばらしい活性だったが、あまりにもムダが多く、当時不振を極めていた米国経済がこのベンチャーブームで元気になっていくとは思えなかったからだ。
     しかし私のその見方は、わずか数年で覆ってしまった。米国の凄まじい変化が始まったのだ。騎馬民族の変身スピードに農耕民族の日本人が追いつかないという図式にそっくりだった。
     第一に、米国の「インスタント成金」を目ざすサバイバルゲームの中から、まだ二〇代、三〇代の若手なのに、成功失敗を含む経営者経験を積んだ人が大量に生み出されるようになった。日本の大企業であればまだ課長にもなっていない年代だ。
     その深刻な意味がお分かりだろうか。日本ではこの時代、逆にサラリーマン化により組織活性が低下していった。つまり、日本と米国の経営者人材の育成は、それぞれがマイナス方向とプラス方向に加速し、短期間のうちに圧倒的な差がつき始めたのである。
     第二に、しかもその中から、一社の陰に一〇〇社の失敗という高リスク分野であっても、最後に勝ち残った一社が、米国市場のみならず、世界市場を全て押さえてしまうというドラマチックな成功パターンが出現してくる。そのベンチャー経営者は世界のスター経営者になる。それに比肩する日本の経営者はほとんど出てこず、むしろ中国から次々と出てくるという悲惨な現実が見えてきた。バブル崩壊でしゃがみ込んだ日本企業では、それを補うための「経営者予備軍」でさえ育ちにくくなってきたのだ。

     幹部たちの「素直さ」は、革新的戦略が成功するかどうかを大きく左右する。過去に改革失敗の痛みを経験していると、新たな改革者に対して斜に構え、政治性を発揮する者が多くなる。改革者が自分も政治性で対抗したら同じ穴の貉になる。頼りにする武器は、あくまで戦略的手法が生み出す論理の力だ。客観的事実、ぐうの音も出ないデータの裏付け、正直で裏のない会話、社内都合よりも「競争と顧客」の論理に徹することが重要だ。

     なまぬるい会社に共通し特徴は、社員のエネルギーが内向していることである。個々の社員は真面目なのだが、全体として何となく士気の低い企業はよくある。
     会社がそうなってしまった要因は、必ず社内のあちこちにうずまいている。「お客様」と「競争相手」に対する意識が薄く、もっぱら自分たちの都合がまかり通っていることが多い。
     黒岩は、自分がそうした社内のもやもやしたゲームに参加することだけは避けなければならない。黒岩は社員の目を社外の「競争」に向けさせ、彼ら自身がいい仕事をしているのかを自ら考え、自ら判定するやり方を取りたかった。
     たとえその結論が彼らにとって面白くない内容であっても、それを社内の誰かのせいにしているのではない。この先どうすれば良くなるかを、なぜ、なぜ、なぜと考えさせていけば、皆にはそれが他人事ではなくなってくるはずだ。
     この会社は黒岩にとって戦略経営者としての初陣だったが、彼がこだわり続けたのは、改革の冒頭で皆の意識を覚醒させ、それによって新しい戦略を組織の末端にまで確実に浸透させ、全員がダンゴになって競合企業に切り込んでいくというアプローチをとることだった。果たして黒岩はそのような手法で成功するのだろうか。

     もしあなたが黒岩莞太と同じように、どこかの問題会社に乗り込んでいくなら、その会社の状況を早く判断したいと思うだろう。戦略的な観点からは、その会社が世の中の競合に較べて、いい勝負をしているのかどうかがカギである。
     社内だけを見ていくら良さそうに見えても、市場で競合にやられつつあるのなら、その会社の明日の命運は分からない。逆に、社内を見ていかにお粗末に見えても、競合企業よりマシなら、とりあえずは勝っていることになる。競争とは相対的なものだからだ。
     あなたが経営の状況を見て、それが「相対的」にお粗末なのか、それともマシなのかを判断するには、あなたは初めから何かの「基準」を持っている必要がある。それで実際に会社の中を覗くと、その基準に照らして正常なこともあれば、外れた現象に出くわすこともある。ズレを見つけたら、それを生み出している原因が何かを探っていく。慣れてしまうと、問題点を絞り込むのには、このやり方が最も効率が良いのだが、そのためには、自分で先に一般的な論理から、あるいは経験からくるフレームワークを蓄積していなければならない。それもないなら、ズレ(異常)があっても、あなたは気づかず目の前を通り過ぎていくことになる。

     そこで黒岩莞太は考えた。機械にしても検査薬にしても、プロテック事業部が一年前にこの価格を決めた時には、どのような論理(ロジック)に基づいていたのだろうか。
     黒岩は周囲の者にその経過を訪ねて回ったが、誰も明快に答えられなかった。
     機械、検査薬とも、原価の上に一定の粗利益を加えて価格を設定したのかもしれない。コストプラスの考え方だ。それはあまりにも古典的な、戦略欠如の、愚かな手法である。
     価格設定は、トップが重大な関心を寄せて、明快なロジックを立てて行うべき戦略的決定である。原価に一定%を上乗せして自動的に価格を消えるコストプラス方式は、それが対競合戦略として有効に機能するかどうかを考えない、非戦略的手法である。市場の状況によっては、コスト自体の妥当性(コスト削減を急ぐべきかどうかの判断)を社内で問題にすることも重要なのに、そんな思考もなく、与えられた数字に無批判に従い、一定の数字を乗せて価格を決めるのはアマチュア的な手抜きである。
     黒岩は価格戦略の良否を判断するロジックを白紙状態から探さなければならないと思った。
     どう進めればいいのか、彼は今、トップの「ハンズオン」行動の典型を示している。組織が問題を間違って扱っていると気づけば、高尚な経営論を語り続けるよりも、その現場に降りて行かなければならない。

    問題の根源
    (1) 営業の「リーダーシップ」が足りない
    (2) 販売の「目標」がはっきりしない。
    (3) 営業の活動に「絞り」がない。
    (4) 製品の良さを説明するための「道具」が足りない。
    (5) 代理店まかせで「顧客」がつかめていない。
    (6) こんな状況でずっときたから何をやるにも「自信」がない。
    これらを改善するにはどうするか。
     口うるさく社員を叱り、尻を叩いたところで組織は変わらない。組織が弱体化した責任は、個々の社員よりも、それまでの経営や戦略のあり方に問題があったはずだ。経営革新には「戦略」と「ビジネスプロセス」(社内の仕事の流し方や組織の組み立て)を改革し、その実行のための具体的「プログラム」を用意することが必要だ。
     社内の誰もが理解できる「単純な目標」と、その実現を支援するための一連の施策。それによって「目標と現実のギャップ」に橋をかける。
     そうした手法を根気よく繰り返していかない限り、長丁場の経営改善は進まない。
     それを支えるために、組織のなかで「戦略意識」を醸成し、社員が共通の「戦略言語」を喋るようにならなくてはいけない。

     本書のプロテック改革の話は紙幅の大部分が「事前準備」に使われている。行動結果のことは最後の短い紙幅でしか描かれていない。いかなるビジネス行動も、すべて1枚目(現状認識・反省)→2枚目(対策・戦略)→3枚目(実行)の順序で進行する。1枚目は強いトップリーダーの登場がカギだ。すると「過去の否定、新しい価値の創出、リスクへの対峙」などが行われる。2枚目に行くと「ミドルへの橋渡し」が始まる。本書では東郷の役割が次第に大きくなっていく。3枚目ではトップの影はさらに薄まり、ミドル主導で集団による熱い実行がカギになる。戦略プロフェッショナルを目指すあなたは、プロジェクトが1→2→3枚目と移行するに従って自分の役割を変えていくことが必要だ。

     この二年間は、強引な中央突破戦略でした。
     私が来た時は、皆元気がなくて、何となく負け犬みたいでした。
     だから組織をヒエラルキー型にまとめちゃって、完全にトップダウン戦略で旗を振ったんです。
     私が来てから、外部の人材を登用して、いろんな考え方がぶつかるようにしました。異質の人材がたくさん増えて、何となく動物園みたいです。
     そう、「ゆらぎ」なんてカッコつけた優雅な言葉じゃなくて、ガタガタ、ドタドタひっかきまわしたら、途端に皆元気になっちゃったんです。
     でも組織を刺激しただけじゃ、まだ何も起きませんから、そこで上から戦略目標を与えた。セグメンテーションのような技法も導入して、皆のエネルギーを束ねたんです。
     それで皆が一つの方向にガーンと走った。
     この二年間で起こったことを簡単にまとめるとそんなところです。
     でも最近、このアプローチにもじわじわと問題が出始めているみたいな気がしますね。
     まず第一に、トップダウンでやってきたせいか、一度は考えることを求められたせいで元気になったのですが、それで一つのやり方が固まってきたあとは、また自分で考えなくなってきたような気がします。私が来る前の状態に戻りつつあるのかもしれないと、少し心配なんです。
     彼らは最近、上からの命令を待っているんです。
     最初の頃に比べると、最近は、下からこうしたい、ああしたいという提案が出てくることが減りましたね。
     第二に、何か組織の「遊び」みたいなものがなくなってきているような気がします。
     行動管理やターゲット先の進捗管理をあまりにもキッチリやりすぎたのかもしれません。
    何やら真面目。
     何やら窮屈。
     何やらモノトーン。
     要するに、面白くも何ともない、機械みたいな組織になりつつあるんじゃないか、そういう恐れなんです。
     中央集権にすると、組織の活性というか、自分で自己増殖的にころがっていく力がかえって衰えるという現象は、これを見ても事実のようですね。
     この戦略ドラマの最後にきて、黒岩莞太が感じている「戦略モノトーン化現象」の話は、多くの読者が読み過ごし、戦略経営者本人も気づくのが遅れがちになる。戦略志向でとことんやりぬき通した組織だけが、何年か経って見せかねないその反作用について、自社にその症状が出ていないか、気をつけた方がいい。
     いろいろやってみて、事業組織が一皮むけたからこそ見えてきた問題ですから、これは次のステップに行くための嬉しい問題と考えれば気が楽です。
     この先の対策は明確です。
     組織をヒエラルキー型にし過ぎたから、これを意識的にゆるめて、平べったい部分を作ります。
     少し手綱を緩め、心の余裕を持てる問題を個人的に設けるようにします。
     つまり、恐らくは問題は私自身なんですよ。経営者として競合などに対しいつも「時間がない」という意識に追いかけられると、どうしても部下を急がせたくなるんです。
     いまは、トップとしてのエゴをおさえて、目標を過度に高くしないことが肝心のようです。下からプランが上がってこないといってシビレを切らして指示を出すと、トップダウンの続きになってしまいます。

     米国人の元気復活を駆り立てていたのは何だったか。私はその最大の要素として彼らの「プロフェッショナリズム」を挙げる。
     ベンチャー・キャピタリスト、ベンチャー経営者、安心な論理開発を行う学者やコンサルタント、あるいはバイオ産業や金融工学など先端企業を率いる経営者・学者・技術者、一気呵成の改革を目指す大企業のプロ経営者など、米国の新時代を切り拓いていった人々に共通していた特性は「戦略志向」「リスク志向」「プロ志向」である。それらすべてに共通した基盤として、金持ちになりたいという「マネーへの渇望」があった。
     プロ人材は「個人の突出」が許されるカルチャーがあってこそ育つ。日本の組織は逆だ。昔から今に至っても、日本の企業組織ではプロが育ちにくい。集団主義の規範を守らせることと、一流のプロフェッショナリズムを育むことは、組織論において一つの「対立概念」なのだ。しかもそこに「マネーへの渇望」を加えたら、日本の大企業でそれを満たすことは絶望的になる。
     六〇年間のシーソーゲームの前半で、日本組織の「横並び精神」は一つの強みだった。当時、それは日本にとって戦略適合だった。しかし大組織のなかで出る杭は打たれる。日本のリーダー行動はしばしば「突出」よりも「うまく収める」ことが重視される。そうなると組織のリスク志向は減退し、必然的に本人の経営的力量も上がらない。事業戦略は後追いになる。それが日本的組織の宿命だった。
     私はバブル破綻後の一九九四年に『経営パワーの危機』を出版した。そこに描いた日本企業の「組織の劣化」「経営者人材の枯渇」の姿は、出版の一〇年前にすでに観察していたものである。バブル破綻に先立つ八〇年代前半には、日本企業の組織活性低下の症状は既に見えていたのだ。
     メガトレンド後半三〇年間の長期停滞は長い。大学を出た人材が、五〇歳を過ぎるまで、投資や経費と抑制するように頭を叩かれ続け、その体質は後輩世代にも刷り込まれていった。多くの日本企業が長い期間その状態に支配され、企業の戦闘力は、毎年、少しずつ、明確に意識されないスピードで落ちて来たと思う。だから、日本人は米国や中国に対抗して、攻めの戦略を追えといきなり言われても、すぐに頭も行動も切り替えられない。
     日本の組織劣化という下向きの伏線は一九八〇年代に動いていた。それは米国が強さ復活への出口をみつけようと新しい論理開発にのたうちまわっていた八〇年代と、完全に時期が重なる。二つの伏線は一九九〇年前後に、もはや伏線ではなく、一気に表面化してきて交差した。メガトレンド後半三〇年間の大逆転が始まったのである。
     ここで、「事業革新のメガトレンド」から得られる教訓を、現実直視のストレートな表現でまとめてみたい。
    1. 日本人は経営の『知的創造』で負けた。
    日本の経営はメガトレンド前半三〇年間で素晴らしい経営成果を出したが、長い年月をかけて米国人によって解析され、見破られた。日本人は商品開発には熱心だったが、同じくらい重要な「経営手腕の開発」には十分な金も時間もかけなかった。経営の新しい「論理化・敷衍化」で後手に回り、自ら先手を打つ改革を推進できなかった。
    2. 日本人は「個人の経営的力量」で負けた。
    内向き志向が強く、サラリーマン化が進み、会社の大改革や世界市場で勝ち抜くために個人として必要な「経営リテラシー」「経営フレームワーク」を、自らの成功失敗体験の中で磨いていく機会から遠ざかってしまった。
    3. その結果、近年、世界の事業革新のメガトレンドの変化がますます加速しているのに 
    対して、日本人の多くは後から追いかけることしかできなくなっている。

     今後、日本の経営を革新するためには、「組織問題」が常に「戦略」と抱き合わせで扱われなければならない。当たり前に聞こえるだろうが、これが簡単ではない。社長自らが毎日、事業のことと同じ熱心さで、「組織の劣化」に対して「今そこにいる人びと」の目を輝かせる組織を保つには何が有効かを考えているだろうか。事業戦略と組織問題をセットにして、改革を試し続ける必要がある。
     この後は、日本人がこの状況から抜け出るための参考として、私が過去三〇年間、経営者ないしターンアラウンド・スペシャリスト(事業再生専門家)として試みてきた改革手法について述べる。
     バブル破綻後に不振に陥った上場企業に行くと、例外なく直面したのは「経営者人材の枯渇」「組織劣化」の問題だった。改革に背を向け、時に背後から改革者に弾を撃つ人がいる組織を、いかに新戦略に向けて束ねていくのか。その手法(フレームワーク)を編み出すために、苦渋の試行錯誤を重ねた。
     不振企業の元気復活のためには、誰しも、まず通常の「戦略」の観点から、いま追っている事業戦略が正しいかどうかをやり玉に挙げる。私のビジネス人生でも、初めはそれが当たり前の手順であった。
     ここでの「戦略」とは、市場競争に対する自社の戦い方、社員から見れば会社の「外」に向けた打ち手を点検し、それを斬新でより有効な内容に組み立て直すことを意味している。
     しかし私は、バブル崩壊後の大企業の中に入って事業の再生を手がけるようになってから、その手順に問題があることに気づいた。改革案作りをするのにまず「戦略」から入ると、それはいかにも当たり前の改革手法に見える。けれども、実はそれによって、業績不振を生み出しているもっと根の深い問題を見過ごしてしまい、会社の本当の元気復活を先送りにしてしまいかねないことに気づいたのである。
     もっと大きな問題とは、「ビジネスプロセス・組織」の問題である。多くの幹部や社員が、事業不振は他の部署や個人のせいである(自分だけはちゃんとやっている)という心理を抱いている。本来なら経営判断は明るい昼間に「正しい、正しくない」の議論をきちんと行って決めるべきだが、実は組織の陰ないしはアフターファイブに「好きか、嫌いか」の感情を伴う「組織の政治性」がはびこっているのだ。
     事業再生専門家というのは、経営がかなり悪くなり、もう後がないという状況が見えてきてから、依頼を受けるのが常である。行ってみると、ほぼすべての企業で歴代の経営者が改革と称するものを行ったことがあり、ほとんどが「戦略」の問題を表層的にいじり回して、結局は大した効果が出ずに短命の改革で終わり、その結果、社内に諦めが広がっているというパターンを起こしていた。
     そのような会社では、顧客と競合を意識して最善の戦いをするための「ビジネスプロセス」や「組織体制」が崩れているのがほとんどだ。それが会社の根っこに潜んでいる最大の不振原因なのだが、日本企業の多くがバブル崩壊以降の三〇年間、それを問題にすることを避けてきた。
     どうすればいいのか。私は事業の強さを狙う再生プロジェクトを繰り返すうちに、事業の不振原因を、あえて大きく二つに分けるフレームワークに行き着いた。「戦略」(会社の外に目を向けた戦い)と、「ビジネスプロセス・組織」(会社の内部に目を向けた戦い)をまずは一旦分けて、病気の原因と改革法を整理するのである。どちらも最終的には市場での勝ち負けに影響している。両社は深く繋がっており、従来はこの二つを含めて「戦略」と称することが多かった。
     ところが、バブル崩壊後の日本企業の活性化に取り組み始めてから、私は改革の「入り口」としては、この二つを明確に分けて考えることが重要だと気づいた。
     不振企業では、まず社内のビジネスプロセス・組織の病気を抜本的に治して「戦う体制」を組み立て直す。つぎに、その結果として前よりも小ぶりで機動力の上がった事業単位それおれにおいて、あらたに抜擢した経営者人材が、最適と思える戦略を個別に立案する。
     改革の後半では、レベルアップしたビジネスプロセス・組織と、市場に向けた新戦略を合体させ、総合的な改革を進めていくという手順である。拙著『V字回復の経営』のモデルとなった日本企業の事業改革ケースでも、このフレームワークが積年の不振から脱却する突破口になった。
     思い起こして欲しい。「メガトレンド」における「読み取られ『第1』大事件」で米国は歴史的にまず戦略を問題にし、「読み取られ『第2』大事件」ではビジネスプロセス・組織の改革手法を生み出した。彼らはこの二つを一九九〇年以降に合体させ、米国の強烈な元気復活を実現させていった。つまり、企業だけでなく国単位の活性化においても、二つの組合せがダイナミックに作動していたのである。
    「戦略」と「ビジネスプロセス・組織」の二つはそれぞれに対処するフレームワークが異なり、社内の組織力学が異なり、実行するときの具体的行動も異なる。その意味で、この二つをまずは峻別して組み立て、そのあと矛盾が出ないように二つを整合ないし融合させながら改革を進める手順が大切なのだ。
     最後のまとめとして、以上の考え方と実行手順をまとめておく。
    1. 不振会社を元気にするために改革を目指す場合、戦略をいじり始める前に、まず「創る、作る、売る」の組織機能が「肥大化」していないかを点検する。事業組織毎に「創る、作る、売る」のワンセットが含まれていて、自律的に経営のできる小ぶりな体制を整えることを狙う。顧客ないし競合に対して、組織のスピードが上がり、自社の強みが最速で発揮されるようなビジネスプロセス・組織のコンセプトを目指す。
    2. 現実に、ビジネスプロセス・組織の改革を行うのは簡単ではない。社内からさまざまな抵抗が出る。長い年月、肥大化した組織にどっぷり浸かってきた幹部・社員にとっては、今までのやり方が一番自然なのである。しかし妥協してはならない。不振企業の再生では、この組織デザインの点検が改革の出発点になるのだ。
    3. 業績不振企業でなくとも、多くの日本企業がこの組織問題で効率を落としている。それが多くの日本企業において、重要な、隠れた戦略課題になっているはずだが、ほとんどの日本人がそれに気づいていない。
    4. 前よりも小ぶりになって速く回る事業組織を設計したら、次いで、「気骨のある人材」を選び出し、各事業単位の長に抜擢する。その上で、事業毎にビジネスプラン(事業計画)を組む作業を行わせる。
    5. そのためには、選ばれた彼らが戦略リテラシーを高めるよう、集中的な戦略教育を行う必要がある。ミスミの場合、CEO就任以来、私は自ら塾長として役員・社員を対象に『戦略と志』講座を開催してきた。この講座はCEO退任後も続けており、その開催日数は二〇年間で一五〇日前後になっている。
    6. 各事業責任者はそこで学んだ戦略フレームワークをベースに、自分の「ビジネスプラン」を作成する。戦略論理と「現実の事業の苦しい実態」の間を行ったり来たりしながら、自分なりの突破口を探す。企画スタッフにやらせるのではなく、事業責任者が自分の手でビジネスプランを書き、それを自分で実行し、一年後に更新することを繰り返す。
    7. 企業トップは、小ぶりになった事業組織の責任者が作るビジネスプランに「それで勝てるのか」を問い続ける。それには社長自身が高い経営リテラシーを持つことが必要だ。簡単ではないが、けれどもそれを諦めたら、会社を元気にする望みは絶たれる。社長が「自分もあなたの船に乗ったよ」と言える計画を作らせる。社長を頂点に、事業ラインに沿って、ハンズオンの指導を行うことがポイントである。
    8. この段階では、立案した戦略は「仮説」に過ぎない。だから、それを実行に移せば「うまく行かない」が頻発する。それでいい。戦略とはそういうものだ。人に作らせたものでなく自分で考え抜いた戦略であれば、たとえうまくいかないことが起きても、①崩れた部分の感知が早い。②各事業は「小ぶりの組織」になっているから、修正行動が迅速になる。③それによって経営者人材としての学びの蓄積スピードも加速される。

     生きるか死ぬかの瀬戸際に追いつめられた事業を救うには、悠長な検討ステップを踏んでいられない。しかし私は経験を重ねて五〇代に入ると、自分の経営的力量がかなり上がったと感じるようになった。昔は困難と思えた状況でも「これは、いつか見た景色だ」と驚かないことが増えたのだ。事業再生の最後の仕事は、当時一兆円企業だったコマツの産機事業の再生だった。
     私は二〇〇二年にミスミ(現、ミスミグループ本社)の創業社長から将来の経営を託され、ミスミのCEOに就任した。その仕事を引き受けた最大の目的は、業績を上げることはもちろん重要だが、「組織の劣化」「経営人材の枯渇」に直面している日本の経営に対して、新しい経営モデルを手作りで創り出すことだった。それが私の野心だった。
     四〇年以上の経営経験で蓄積した私の「フレームワーク」を若い世代に伝授し、彼らに経営のライン責任を早期に負わせ、戦略プランを作らせ、人材育成を世の「二倍速」、つまり普通の企業なら二〇年かかる育成を一〇年で、一〇年かかる育成なら五年で行うことができないだろうかと考えたのである。ミスミCEO時代はその一念で必死で働いた。私は上場企業CEOとしては異常とも思える時間を費やして、経営者人材育成プログラムに注力したと思う。
     ミスミは東証一部上場とは言え、就任した時は社員数わずか三四〇名の商社だった。就任して二年後に、生産会社を買収してミスミを商社からメーカー業態に変身させる決断を下した。それなくして世界進出はないと思って、創業六〇年を過ぎてからの大変身を図ったのだ。
     ミスミは今では世界二二カ所の工場と一八カ所の物流拠点を持ち、正社員数は三四〇人から今ではグローバル一万人を超えている。もちろん、人は思い通りに育たないので、組織作りは簡単ではなかった。急拡大することで、ミスミにも大企業病が忍び寄っていることを感じる瞬間が増えた。ミスミが次の世代で売上高一兆円を目ざすには、私の時代の経営を否定し、次の「組織フレームワーク」を編み出し、新たな革新を狙うことが不可欠だと思う。
     日米シーソーゲーム六〇年間の歴史から学ぶべき最大の教訓は、「企業の強さはフレームワークで決まる」ということだ。米国は前半三〇年間をかけて、強さ復活に転じるフレームワークをみつけた。日本は同じ三〇年近い歳月を過ごして、いまだに強さ復活への出口を見つけていない。
     日本人は低迷することにすっかり慣れてしまい、そのまま次の一〇年間に入っている。政治家に期待する話ではない。戦後の荒廃からこの国の豊かさを作り上げたのはビジネスパーソンだった。この低迷から抜け出すのもビジネスパーソンの責任ではないか。
     まず「自分の会社を元気にする」。それが日本全体を元気にするために、今われわれが果たすべきことだと思う。

  • セグメントの切り口、営業組織の動かし方。

  • ビジネス版半沢直樹。経営状況が芳しくない企業の再生が描かれているが、再生に用いられるフレームワークや組織の動かし方などか非常に参考になる。組織を束ねる立場の方にはおすすめの一冊

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著者プロフィール

(株)ミスミグループ本社名誉会長・第2期創業者。一橋大学卒業、スタンフォード大学MBA。20代で三井系企業を経て、ボストン・コンサルティング・グループの国内採用第1号コンサルタント。32歳で日米合弁会社の常務、翌年社長就任。次いでベンチャー再生等二社の社長を歴任。41歳から事業再生専門家として16年間不振事業の再生に当たる。2002年、ミスミCEOに就任。同社を340人の商社からグローバル1万人超の国際企業に成長させ、2021年から現職。一橋大学大学院客員教授など歴任。著書4冊の累計100万部。

「2023年 『決定版 V字回復の経営 2年で会社を変えられますか? 「戦略プロフェッショナル・シリーズ」第2巻』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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