美と共同体と東大闘争 (角川文庫)

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レビュー : 27
  • Amazon.co.jp ・本 (176ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784041212080

作品紹介・あらすじ

学生・社会運動の嵐が吹き荒れる一九六九年五月十三日、超満員の東大教養学部で開催された三島由紀夫と全共闘の討論会。両者が互いの存在理由をめぐって、激しく、真摯に議論を闘わせた貴重なドキュメント。

感想・レビュー・書評

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  • 以前、一度読んで、三島由紀夫のパートは拾い読みしたが、東大全共闘のパートは観念的すぎて読む気が失せると放ってしまった。今回、映画「三島由紀夫vs東大全共闘」を観て、その熱が覚めぬうちに文庫版を手に取った。/映画で、実際に熱く語り言葉をぶつけあい、時に笑い、時に赤ん坊を抱き、殴らせろと壇上にかけあがり、タバコの火を融通し合う。そんな血湧き肉躍る論戦のあとに読むと、今回は東大全共闘のパートも、すっと入ってくるとはいかないが、ある程度興味を持って追うことができた。/当初のイメージは、極左であるところの全共闘が、反動の極地とも思える三島を招いて、論破し、つるしあげ、粉砕し、晒そうという意図で、それを返り討ちにしようと三島が乗り込んでくるような構図かと思っていた。ただ蓋をあければ、おたがいに目指す方向は近くて、暴力を全否定しないところから通ずるものがあるのでは、という発端から、三島は、言葉の力を信じ、言葉の有効性を信じ、どんな質問にも、たとえ了解不能な質問と思えるものにも、真摯に、言葉で持って立ち向かおうとしているようにみえた。全共闘の側からは、他者との関係、人間対自然、歴史と時間、天皇の問題などさまざまな問題提起がなされたが、惜しむらくは、同じ言葉なのに、三島と全共闘ではその中身がぜんぜん異なっていることだ。たとえば歴史。たとえば時間。たとえば天皇。もっと丁々発止で実りある論戦を行なうのならば、とりあげたい議題をざっくりとでも決め、そこに用いられる言葉の内容をすりあわせておけばよかったのでは、というないものねだり。フリースタイルの思いついた順にしゃべりだし、論を戦わせ、語るというのも、それはまた違った熱量を生み出したのかもしれないけれど。/両者は結局この討論に何を目論んでいたのか。三島は、安田講堂に立てこもった諸君がひとこと「天皇」と言ってくれてたなら喜んで一緒に立てこもったのに、と言い、最後は論理的には負かされながらも、意地となって共闘を拒否、全共闘側も立て看などに観られたように、最初は揶揄しあざ笑おう、なんなら殴りつけてやろうという気概もあったように思うが、討論を通して、通じ得ない部分も多分にあるが、一緒にやれるところもあると思ってきたのではないか。映画を観て、この本に触れて、そう思った。映画は、50年後の真実、と銘打っていたが、明かされたのは、全共闘Aこと木村修がお礼の電話をした際に、きみ、楯の会に入らないか、と三島が勧誘したところぐらいでは、と思ったが。ただ歴史にifはないし、それほどおおきなうねりとはならなかったかもしれないけど、三島vs東大全共闘が、三島&東大全共闘となった世界線も垣間見て見たかった気もする。/全共闘A木村修、全共闘C芥正彦、全共闘H小阪修平の論は特に興味深く。芥氏については、もっと文章にふれたいと思った。映画では負けず嫌いでクセのものすごくつよいダンディといった感じだったが。

  • 学生運動たけなわの1969年、東大教養学部の講堂で、三島由紀夫と東大全共闘が討論会を行った。
    その議事録と三島・東大全共闘双方からの補足説明文を収録。

    まず、読んでも読んでもなにを言っているのかわからない。

    ”彼は決して政治的にアンガージュマンしているのではない。滑稽なのは三島の政治的エピゴーネンであり、三島が政治的エピゴーネンの群れを引き連れようともくろむ時彼はデマゴコスの地位を獲得する。”

    わからないのは、私の知識不足のせいかもしれない。
    でも、基本的に言葉というのは、相手に伝わって(周囲に伝わって)なんぼのものじゃないの?
    難しい事柄を分かりやすい言葉で語ることでこそ、相互理解が進むのではないの?
    どうしても、難しい言葉をこねくりまわしているだけの、言葉遊びをしているだけのように思えたのだけど、自分たちでもそう理解していたようです。

    ”知識人とは永遠に肉体を持たぬ言葉のさすらいびとなのだ。”

    なるほどね。
    で、体制に反発して学生運動をやっていたのだとしたら、卒業後はすっかり体制側の人間になってモーレツ社員になったことなどは、どういう理由付けをしているのかと思えば

    ”大学とは具体的な教授や講義ではなく、地位へのパスポートにあるいは生産関係の中に私達が呑み込まれていくための形式に過ぎないのだ。”

    やっぱ、学校という名前の人生の夏休みに、好き勝手なことをしていただけじゃないのかな。

    ブルジョアを目の敵にしていたようだけど、何一つ生産することなく、好き勝手なことをほざいて、暴力で物事を解決しようとして、それをする権利が自分にはあるのだと思い込むのは、ブルジョアと何が変わらないのだろう。
    しかし、では、生産しない者を悪として、額に汗して働く労働者を絶対の善とするのなら、それは毛沢東の行った文化大革命と変わらないのではないかと、私自身の思考にも混乱が生じてくる。

    ”今日私達が暴力学生と呼ばれるのは暴力に陶酔するとか人間性の復活とかではなく、暴力によってしか自己が完結しない冷厳な時代の事実があるからだ。”

    何が嫌いって、東大全共闘の人たちに他者に対する敬意が感じられないところ。
    目の前に三島由紀夫本人がいるのに「三島は…」と呼び捨てにするところや、自分と意見の違う人に対する徹底的な排除。
    なのに徒党を組みたがるところ。
    自分の目的を達するためならば手段を問わないところ。特に暴力に訴えたがるところ。
    維新の時の長州勢を彷彿とさせて、大嫌い。

    ”二・二六の青年将校達―磯部大尉の楽天主義と呪詛は、共同体が地上的権力として現象する構造を見ずして観念に懸想した者の悲しき運命(さだめ)である。”

    これについてのみ、同感。
    磯部元大尉だけどね。蜂起した時は軍属じゃなかったから。

    今まで三島由紀夫の言動って、ちょっと極端じゃないの?って思っていたけれど、これを読む限りでは常識人だったね。
    極論をお持ちとは言え。
    逆に東大の方々は、頭でっかちのお子ちゃまと感じました。
    三島由紀夫は正体を現して発言しているのに対して、東大全共闘は匿名で暴言吐き放題というのも下品だなあと思います。

  • 『つまり、これは』

    まあ、下らないと切り捨てられる人は、とても正常で健全な魂の持ち主であるだろう。この、討論にシンパシーのようなものを抱いてしまった僕は、東大教授によるとどうやら気違いらしい。ふむ。この本の価値は冒頭16ページで見極められる。ただ全共闘の人となりが低俗過ぎて萎えてしまった。

    人と話す時、情熱に託けて冷静でいられない人は頭が良くても、心の使い方を理解してない馬鹿だと僕は思う。買って後悔はしていません。

  • 三島由紀夫vs東大全共闘との歴史的な討論。

    歴史的とは「歴史的価値を持つ」という意味だが、ネガティブに捉えれば「歴史的価値しか持たない」ということでもある。

    三島由紀夫の言説はさすがと言うより他にない。日本人が自らの政治思想を組み立て上げる際に避けて通れないのは天皇の問題であり、そこへ向かってどのようにアプローチしていけばよいのか、そこを諄々と説いている。これはまさにポジティブな意味で歴史的価値を持つ。

    だが、全共闘側の理屈は……これは何だ?
    借り物の言葉を縦横無尽に使っているだけで、響いてくるものがなにもない。要するに、当時の知的ファッションを着込んで仲間内にだけ通じる言葉で語っているだけ。詰る所、彼らの言説そのものが共同幻想の枠組みから一歩も出ていない。
    ネガティブな意味で歴史的価値しか持たぬ議事録であって、これをありがたがるのは「あの頃は青年たちは……」云々の懐古趣味でしかない。

    この感想は、巻末に置かれた全共闘の振り返りを読んで更に強いものとなる。
    今の表現を用いるならば、「中二病」。

    つくづく学生運動は何も生み出さなかったのだ。

  • もうあれですね、上の人たちの話合いです。映像で残っている分が好きですが、自身の存在証明において、なぜ日本人だと思えるのかの説明は天晴れ。象徴だからこそ、天皇の在り方への考えも角度を変え、できればみんなで協力して、強く元気な日本国を創っていただきたかった。

  • 面白い。三島のほうが分かりやすいかな

  • 映画化で注目!
    両者が互いの存在理由をめぐって、激しく、真摯に議論を闘わせた貴重なドキュメント。

  • 本は新潮社から1969年6がつに出版された物。定価250円の物だ。映画化されたので本箱の奥から引っ張り出して読んだ。今読んでも難しい事を討論している。昔はもっと理解できなかっただろう。それでも無理して読んでいたのだ。

  • もう、ずーっと昔、音声でこのやり取りを聞いたことがある。今回改めて、文字として読んでみた。

    うーん。
    くだらない。
    全共闘も三島も。
    読んでて恥ずかしく悲しくなる。

  • 全共闘は驚くほどラディカルな思想を有していた。事物を関係性の元で見るのではなくあくまで事物そのものとして見るということは、討論の中でも触れられているが人類が事物に対して何ら意味づけをしていなかった時代と同じことをするということだ。確かにそういう風な見方をするためには<時間>という概念は必要なくなる。<時間>を導入してしまうと例えばそれは何のために動いているといった意味づけないしは関係性が嫌でも発生してしまうからだ。一方で三島由紀夫は全共闘のそういった考えを認めつつも<時間>という概念を無視することはできないと主張する。一番わかりやすい例は言葉であろう。ある共同体内で積み重ねてきた時間が言葉の違いなどを生じさせるからだ。これは文学者である三島にとっては無視することはできないだろう。そういったものすらも乗り越えられると考える全共闘と三島との溝はここにおいて出来上がる。討論後に全共闘Aが書いているが三島と全共闘の意見の対立は実はそれほど多くない。しかしながら<時間>という概念に対する捉え方の違い(これは「天皇」という言葉を使うか否かに集約されるのだが)この一点が三島と全共闘を引き離してしまうのだった…

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著者プロフィール

三島由紀夫(1925.1.14~1970.11.25) 小説家、劇作家。
東京生まれ。学習院時代から文才を注目され、1944年、東大入学と同時に『花ざかりの森』を刊行。47年、東大卒業後、大蔵省に勤務するも、翌年辞職。49年、『仮面の告白』で新進作家として地位を確立。『金閣寺』『鏡子の家』『近代能楽集』など、強固な美意識で彫たくされた作品を発表。海外での評価も高い。68年、楯の会結成。『豊饒の海』の最終回を書き上げ、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地東部方面総監室に立てこもり、割腹自決。

「2017年 『告白 三島由紀夫未公開インタビュー』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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