- Amazon.co.jp ・本 (270ページ)
- / ISBN・EAN: 9784041315149
感想・レビュー・書評
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「人は誰でも自分に似た馬をさがして賭ける。片目の男は、片目の馬に賭け、聾唖の男は声の出ない馬に賭ける。だから、みなしごの鉄ちゃんが孤児の馬をさがして賭けたのも、不思議なことではなかった。」(p.91)
この本の競馬観が端的に表れている箇所です。
馬券で勝てそうだから賭けるのではなく、自分を重ねた馬に賭ける。
当然、競馬で大当たりしたような愉快な話は少なく、むしろ人生と敗北とが競馬を通じて語られていくと言った調子です。
人生に負けた者が、競馬によって再度勝負する機会を得て、また負けていく。
そのくせどの短編も、読後感がとてもいい。
現在の中央競馬の一般レジャーぶりとは正反対の考え方ですが、そこはもちろん同じ競馬。
登場する馬は1960~70年代が中心で、ハイセイコー以外は正直何のことやらなのですが、東京競馬場の魔の第3コーナー(p.45)の話の続きにはサイレンススズカを挙げずにはいられないし、「日本一の逃げ馬は?」(p.119)と聞かれれば登場人物達にパンサラッサの勇姿を語りたい気持ちに駆られてしまいます。
それに、時代は違ってもダービーはダービーだし、東京競馬場は東京競馬場です。(改修で条件は変わっているかもしれませんが。)
時代も馬もコースも人も入れ替わってしまっても、それでも通じるものがあります。
読み終わって、タイトルの「競馬への望郷」が、ぴったりとハマりました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
書いたものが多すぎて全集が出せない作家ベスト1ではないかと個人的に考えている寺山修司。文章が気取っているからなど拒絶反応を起こす知り合いもいたが、寺山はかっこいいんだからいいじゃないか。
短歌に俳句に詩に芝居、小説、映画、戯曲、エッセイと、もう天才ですよ。
大学生の頃にハマり、古本屋で何十冊も買って読んだものの、自分がギャンブルをしないせいか、競馬ものは一応買ってはいたものの敬遠していたのだが……。
馬や騎手の知識がなくても面白く読める。競馬をやりたくなるというのではないが、馬と人との悲喜こもごものドラマは読ませる。
寿司屋の政とかトルコの桃ちゃんとの話など、時代の空気も感じられていいなぁ。 -
昨年の凱旋門賞の頃には高橋源一郎『競馬漂流記』を読んでたことを思いだし、では今年は、とチョイスしました。
競馬のドラマ的な部分を、ファン、競走馬、騎手に分けて、それぞれ煮詰めたような作品です。レースに勝って伝説になる馬、馬券に負けて消えていく仲間、連戦を戦い抜く騎手の人生観、どこを読んでも胸に刺さります。
加えて、この作品自体も次のドラマに繋がっていることを知りました。
騎手、吉永正人の章で、最後著者は吉永のこれからの活躍を願い、文体を強めます。「馬主各位。調教師各位。もっと吉永に乗るチャンスを与えてやってください。人生で一番大切なものを失った男は、きっとレースで何かを取り戻すはずである。」
JRAのWebサイトのコラム『競馬を愛した人々』ではこの先のエピソードがあります。昭和58年皐月賞、寺山が自身のコラムに吉永の乗るミスターシービーが本命と書きます。体調不良を理由にコラムはこれが最終回となりますが、ミスターシービーは見事皐月賞を勝ち、続けてダービーを制するのです。
この年のダービーが5月29日。同月4日に寺山は47歳の若さで生涯を終えています。吉永の栄冠を願いながら、その瞬間を見ることなく。
このエピソードを知って再度吉永の章を読み返したのであります。 -
よかった。面白かった。前作「馬敗れて草原あり」よりよかった。
書かれた時代が時代なので古い話が多いのは当然。騎手伝記で語られる騎手達に至っては、今やとっくに現役を退いており、“騎手の父”となっている者も少なくない。昔日の時代を感じられる書である。過去の競馬を知れるのはよい。 -
競馬と人間が織りなす人間味のある物語が詰まった本。古い本だけど、今でも共感できる。
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競馬のロマンを語るとき、避けては通れない本。競馬をただのギャンブルとは思ってない人に是非オススメ。
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新宿の古本屋で偶然見つけた寺山修司の絶版本!
しかし、あまり競馬に興味がないので、またあとで読みます。 -
競馬ってただのギャンブルじゃないんだなあ・・・馬にも競馬場にも馬券を買う人にもドラマが。
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ふりむくな ふりむくな 後ろには 夢がない。「さらばハイセイコー」から始まる、競馬叙情。寺山修司の競馬への愛は惜しみなく、そしてどこか哀しみを帯びている。