戯曲 毛皮のマリー・血は立ったまま眠っている (角川文庫)
- 角川グループパブリッシング (2009年2月25日発売)


- Amazon.co.jp ・本 (342ページ)
- / ISBN・EAN: 9784041315323
作品紹介・あらすじ
美しい男娼マリーと養子である美少年・欣也とのゆがんだ激しい親子愛を描き、1967年の初演以来、時代を超えて人々に愛され続けている「毛皮のマリー」。そのほか1960年安保闘争を描いた処女戯曲「血は立ったまま眠っている」、「さらば、映画よ」「アダムとイヴ、私の犯罪学」「星の王子さま」を収録。寺山演劇の萌芽が垣間見える、初期の傑作戯曲集。
感想・レビュー・書評
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再読。やはり「毛皮のマリー」が良い。対になってる「星の王子さま」も。「血は立ったまま・・・」は安保の時代を知らないと理解しづらいかも。「さらば、映画よ」は哲学的な面白さがありました。
※収録作品
「さらば、映画よ」「アダムとイヴ、私の犯罪学」「毛皮のマリー」「血は立ったまま眠っている」「星の王子さま」詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
5篇を収録する戯曲集。篇中の白眉はなんといっても「毛皮のマリー」だろう。この作品は、こうして戯曲として読んでも、想像力が拡がって十分に楽しめるのだが、やはり舞台で見てみたい。寺山自身による演出で、1967年新宿文化劇場で初演されている。その時には都内21件のゲイ・バーが協力したというから、さぞかし賑やかで楽しい舞台だっただろう。また、その後もフランクフルト国際実験演劇祭やニューヨークでも上演されたようだが、舞台の様子は、その都度大いに違っていたようだ。それでこそ寺山劇だと思う。天井桟敷、見たかったなあ。また、姉妹編の「星の王子様」は、宝塚OBやレズビアンバーが応援に駆けつけたらしい。お芝居がライヴに生きていたんだなあと思う。
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五編の戯曲のうち槙島が薦めていた「さらば、映画よ」だけですが読了。
巻末の寺山の解説によると、この戯曲は「二人の中年男のアイデンティティをさがす」ことが主題であり、映画はメタファであるそうです。
槙島は作中で、この作品を「読むといい」とまで言いました。サイコパスは現在14話まで放映されています。徐々に明らかになってきた槙島の思想と照らし合わせると、「さらば、映画よ」は槙島の考えの一部を物語っていることがわかります。
だけど槙島が何を伝えたかったか言語化せよと言われるとボクには難しーっす(。>ω<。)ノ なので気になったところを引用しつつ。
“私たちの時代ではむしろ「お金」より精神経済(サイキックエコノミー)の方が重大”p7
“どこへ行っても私がいる。どこへ行っても私がいない”p19
>シビュラによって精神的に画一化された民衆のことを指しているのではないでしょうか。
“私は映画の中のハンフリー・ボガードは映画の外のハンフリー・ボガードの代理人だと思いこんでいたが、実はあべこべだったんだ……”
>コミュフィールドとそこで活躍するアバター、その「中の人」を巡る話のなかでこの戯曲は紹介されました。
アバター=自分の代理人
だと皆思いこんでいるけれど、実際は
自分=アバターの代理人
になっていないか。
御堂はまさしく「自分=アバターの代理人」となっていて、槙島に、君自身はどこにもいないと切り捨てられてしまいました。
この戯曲が書かれた時代にはソーシャルネットワークなど無かったわけですが、ソーシャルネットワークが発達した現在、「さらば、映画よ」の「映画」「代理人」のような概念は再び意味を持つようになったのではないでしょうか。この戯曲は再評価されるべきだという槙島の意図を感じる……ような感じないような。
“「代理人」を放棄して、ただひたすらに動物的に、動物的に、動物的に。”
>11話で槙島が朱に語った、自分で考えて行動しろという言葉とも合致します。シビュラに隷従するのを放棄して、本能の声を聞いて行動せよというメッセージに聞こえます。 -
物語をつくる人の中には、ふたつの人間がいる。
ひとつのテーマを繰り替えし使うひと。
おんなじテーマは二度とつかわないひと。
寺山氏は、繰り返しつかう人であり、また、昔自分がつくったお約束をちょっとずつ替えていきながら、同じテーマを「完成」に近づけていくような人なのかもしれない、と思った。
いわゆるオカマのような人が登場する作品だが、風呂でわき毛を剃るシーンから始まり、それがとにかく衝撃。想像してしまう自分に、またその想像力に自己嫌悪してしまう。 -
1960年。演劇実験室では歴史も政治も自分自身も…この世の全てはお芝居だと。夢、まぼろしの物語だと暴く怒れる若者がいた。時代の匂いをたっぷり含ませて未だに色褪せない世界観と言葉。
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絢爛豪華なことばが縦横無尽にはねまわっている戯曲集。
貧困や政治や性を扱っているのに、ことばが喚起するイメージだけで、舞台が天国にも宇宙にも変わる。
放埒な中にも、シェイクスピアなり聖書なりのモチーフをさりげなく生かしているのがいやらしいほどうまい。
(テグジュペリがなんていうかは知らない)
特にどの戯曲が好きというのはなくて、テーマや言い方は違えど、通底するものは同じに思える。それが何かは言葉にできないけど。
寺山修司はエッセイを1,2冊しか読んだことがないのだけど、その中の言い回しやアイデアがここにも(というか、自分の戯曲をあちらで引用していた)。
色々なところから気に入ったフレーズを蒐めてはコラージュして、繰り返し使う作家だったんだろうな。
寺山の短歌の模倣(というか盗作)なんかは有名な話だけど、国語の資料集に載っちゃってるし。
「去ってゆくものはみんな嘘」と言った天才は、そんなところも嘘だった。
戯曲という目で見ると、実現しづらそうな指定が色々あるのだけど、どこまでリアルに演じたのか気になる。
そういえば2011年に「盲人書簡」を見に行ったことがあるけど、気圧されてよく分からないまま終わってしまった。
また何か見に行きたい。
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1976年に角川文庫から発売された寺山修司戯曲集。
内容紹介には、初期戯曲集とありますが、演劇実験室天井桟敷の初期の2編の台本と、天井桟敷以前の戯曲3編が収録されています。
自分、寺山氏の演劇作品は全く観賞したことがないんですが、寺山修司監督映画『書を捨てよ町へ出よう』と『田園に死す』は、なぜか好き。
この作品集に収めれた5編に、それぞれこの2作品に通じるものがあり、ちょっと嬉しくなりました。
丸山明宏、春川ますみ、といった役者が演じることを想定したキャラクターが面白い。登場人物が会話するセリフとひたすら壁に落書きされた文を読み上げるセリフとが重なるという手法が面白い。役者が登場人物としてではなく役者として言葉を発し始めるという手法が面白い。
各作品、そうした面白さはありますが、文章だけでは、感動はほとんど無かったですね。実際に演劇を観たら、感動かもしれないですけど。
唯一、巻頭に収録された「さらば、映画よ」には、しびれましたね。
登場人物が、終わり近くで観客に向かってアジテートするのは、寺山修司監督映画『書を捨てよ町へ出よう』と同様。感動、というか、単純にカッケー!ってなりますね。 -
戯曲、という特殊性から
目の前に舞台を想像しながら読みました。
人間の汚い部分を引っ張り出した内容で
胸がザワザワするような感覚。
日常では決して表に出さない闇を
目前に見させられているような気持ち悪さ。
でも人間臭さがまた面白さであり、
良いスパイスになっています。
テンポも良く、語感を充分に楽しめました。 -
過激な中にも、たくさんの名言が散りばめられてる。
著者プロフィール
寺山修司の作品





