- Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
- / ISBN・EAN: 9784041366042
感想・レビュー・書評
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エッ…エッ…結局Wが悪の権化ってことなの…?
でももう一度読む気力はない…ナ…ムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャ詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
再々読終了。
上巻読み始めてすぐに、はっと閃いてから、その仮定を基に読んでみたけど、やっぱりなんか違った。
けど、それが悪くもなかった部分もあった。
何故読むと、だんだん訳がわからなくなっていくのか。
物語が論文や会話で進んでいくからで、何が真実で、何が嘘なのかが判別できなくて、主人公の『私』は、完全にポカン君。
ただ、完全に記憶のないポカン君と、『読者である私』は、同じ条件で、論文を読み、博士の話を聞いているなぁ、と。
何回目かの読破になるけれど、今回初めて感想を書けるくらいまで読みこめた。
自分なりの結論も、とりあえず出せた気がする。
結局のところ、絶対の結論が出るようには書いてないな、と。
最初と最後の
…ブウウーンンンーンンン…
って、あぁ、『私』が同じ事を繰り返すんだと理解するのは簡単だけど、それと一緒に、今までこの大作を読んできた読者もきっともう一度始めから読み直し、と思う筈。だって、最後まで読んでも、分からないもの。『私』も『読者である私』も、堂廻目眩、つまり『ドグラ・マグラ』
以上、結構いいオチだと思うのですが…
気になる点もあるけれど。
作中の、『ドグラ・マグラ』は、いつ誰が書いたんだろう。
若林博士は収容されてる若い大学生が書いたと言ってるけど。
結局はこれは正木博士の資料だから、論文を書く事を依頼された『私』が書いたのか、だとすれば、いつ書いたんだろう。『私』が同じ事を繰り返してるならば、いつ?(若林博士の話が本当だという確証がないんだっけ)
最後も最後あたりの、禿頭の小使の点々付の台詞が妙にひっかかる。
で、やっぱり結局、また読んでしまうんだろう。
いや、何年後かにまた絶対読む。 -
この物語自体が胎児の夢なのか、又はただの無限ループなのか?
胎児の夢だとすればいつかは胎内から出るわけだから無限ループとはならない。逆もまた然り。
ストーリーも楽しめたが、「脳髄は物を考えるところに非ず」「胎児の夢」など、作者独自の理論も奇抜で面白い考えだったのでそこだけでも楽しめた。 -
胎児の夢やら脳髄は考える処に非ずやら過去の話やら様々な要素が収斂し1つになる下巻。
オチがどうだったとかいう単純なミステリ小説ではないと思った。
70年前にこんな作品を書いていたということが恐ろしい。
あらゆる意味で先駆的。 -
角川文庫のこの表紙はずっと変わらないでいて欲しいなあ……。
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上巻に書いた。
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"胎児"というテーマに惹かれて何も知らずに興味を持ちながら買った本。まさか表紙があんなだとは思わなかった。発着点は存在せず、"無"の中にあるテーマが全てという、絶大な存在感を持ち人間の脳髄に刻み込みながら最後に残るもの等何もありはしない。喩えるなら一個体の人間の細胞のひとつが廻る様な、読者の血に溶け込んで生き続ける様な本。時代なんてもので無く、別次元でありながら現実味を孕む。全てが"夢"である様に。何物にも形容できない、魅力的で貴重な一冊。
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この書物の表紙絵を拝見した時から吾輩は、物語性云々以前に妄烈に惹かれてしまった…胎児歌との邂逅から、夢中回帰迄…ありとあらゆる奇書を跳ね...
この書物の表紙絵を拝見した時から吾輩は、物語性云々以前に妄烈に惹かれてしまった…胎児歌との邂逅から、夢中回帰迄…ありとあらゆる奇書を跳ね除ける畢生一大奇書であることは云う迄に非ず…この無限地獄を淘汰する物語等、現世に存らず…幻術師が生涯を掛けて創造した産物に残留する著者の思念思想が、骨の髄迄滲み渡るのである…読者を毒する作者の真の意図を読者が知る事は永劫叶わず…只、其こそ未知の魅惑と蠱惑なのである…理解出来ないのが快感なのだ…この蠢く気持ち悪さ…タマラナク…早々に嚥下したいのに出来ない塊…未知こそ快楽の骨頂なのだ…2011/02/16
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頭の中がぐちゃぐちゃになりました~。ちょっと気持ちいい。
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「頭の中がぐちゃぐちゃに」
スカラカ、チャカポコチャカポコ・・・って、呟いてたりして、、、「頭の中がぐちゃぐちゃに」
スカラカ、チャカポコチャカポコ・・・って、呟いてたりして、、、2013/02/04
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夢野久作の「ドグラ•マグラ」では、表面的な食事の場面が二つしかない。
そのうちの一つは、精神病棟の病室で目覚めた主人公に入り口の扉の横にある小さな切戸から白木の膳が差し出される場面である。この場面では主人 公は自らの名前を知りたいという欲求から食事を放棄し、差し出された食器を床に散らかしてしまう。自分しかいない限られた空間の中で、切戸から出てくる女 性の腕は、主人公にとって身体的な飢えではなく、精神的な飢えを満たしてくれるものであった。主人公が切戸から出てきた腕にしがみつき、声を振り絞って自分の名前を尋ねる場面では一瞬で緊迫した空気が流れる。食事というものが本来持つ満たされることによる満足感や安心感は消え去ってしまっているのだ。そこに配膳を床に落とすという行為が、空腹に苦しむ主人公の切迫感を強調する。名前が分からないということによるアイデンティティーの欠如が、他の欲求よりも 飢え乾いているのだ。
食事を摂ることを放棄した先ほどの場面とは違い、もう一つの場面では主人公は食べ物を口にすることを拒まない。医学部長室の中で正木博士と対面 する主人公は、小使の差し出すカステラを食べる正木博士を見ながら茶を啜る。カステラが場に参加したことによる緊迫感の薄れをこのとき主人公はカステラ事 件と呼び、茶を飲んだことで緊張がほどけ安堵の溜め息をつく。しかし、この場面で主人公は先ほどの場面と同様に、まだ自らの名前を知ってはいない。ただし、正木博士との名前を教えてもらえるという約束が主人公にはある。たとえそれがまだ与えられていないものであったとしても、未来にそれが得られるという 確信があるとき、精神の飢えから解放されることができるのだ。
しかし、どうだろうか。どちらの場面も物としての食事が与えられているためにそれが食事の場面だと理解することができるが、後者の場面では精神 の飢えを満たすための食事が行われるのはその先の場面である。だが、精神の飢えが満たされる場面にははっきりとした食事の描写はない。精神の空腹を満たす食事でははっきりとした描写はなくただただ満足感を感じるだけであるし、また別の場合、更なる飢えに苛まれることもある。そしてもし、精神的な空腹感が満たされるまでの過程も食事だとするのならば、本作に見られるアイデンティティーの欠如から自己の認識までの一連の流れを食事と捉えることができる。
飢えが満たされるまでの過程としての食事で印象的なのは、唐代の画家である呉青秀が妻の肉体が腐っていく様子を描いていく場面である。成熟した美しい肉体は次第に腐敗し、食欲を誘う艶かしい肉はただの白骨と腐肉に帰す。本作ではこの絵は見るものを狂気に駆り立てるが、それは絵の中の美しい肉体を食すイメージが、巻物を進めるにつれて次第に腐っていく肉体を食すイメージへと変わっていき、食中毒を起こすためだ。カステラの場面でも精神的飢えは実際 の食事よりも前に満たされたが、この場面はいつまでも配膳されることがない食事である。これだと思って注文したメニューが配膳されるのを楽しみに待っているうちに、いつの間にかどんどんメニューが変わっていき、食事の想像で満たされていた心には腐肉を食すというイメージだけが残るのだ。
本作において、主人公の精神的飢えが満たされることはない。食事をとる機会はあっても、それは満腹感を与えせず、食後の気怠さを残すだけである。そして規則的に響く針の音を聞きながら、腹を休めるために床に臥して次の食事を待ちながら微睡むのだ。 -
わけが分かんないです。 わけわかんなすぎてレビュー書けません。 読んでみてください。