続氷点 (下) (角川文庫)

著者 :
  • 角川書店
3.63
  • (125)
  • (161)
  • (317)
  • (15)
  • (2)
本棚登録 : 1238
レビュー : 79
  • Amazon.co.jp ・本 (370ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784041437063

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
  • 「氷点」上巻を読み終えて、いざ下巻へ…と思ったら。

    陽子は実は佐石の子ではなかったことになってるし、陽子の母は三井恵子…だ、誰??

    話が飛びすぎでついていけない…それもそのはず、私が買っていたのは「続 氷点」の下巻でした…。

    高木の配慮により、佐石の娘ではなく他の子を養子縁組させられていた辻口。陽子のことをルリ子の仇 佐石の娘と思い込み、冷淡にし続けていた夏枝。陽子を絶望させ、自殺未遂にまで追い込んでしまったことへの自責の念を抱えながら、彼女が殺人犯の娘ではなかったことに安堵する辻口夫妻。

    陽子の弟や本当の佐石の娘まで登場して、ますます昼ドラ風に…
    赦すこと、赦されること。裁くこと、裁かれること。ザ・三浦綾子作品。

    私は夏枝や恵子にイラッとしちゃうのですが…特に夏枝…何で高木さんまで夏枝にホの字なんだよう…

  • 今冬ドラマ化予定の石原さとみちゃん主演、氷点。
    どこまで放送されるのかわかりませんが、とりあえず続編までも読み終えました。

    前作品でのテーマは原罪。
    そしてこの続編でのテーマは罪のゆるしとなってます。


    人間って勝手なものですべて起こったことを自分中心の観点から判断しますよね。
    実はそれっていかに傲慢なことなのか・・・っていうのが最後の結末。
    まあこれはキリスト教の教えみたいなんですけどね。


    本文の描写の中にもそれが何度か出てくるんです。
    他の人のやったことは許せないのに、同じようなことでも自分がやったことなら許せる・・・みたいな。
    こういう感情ってけっこう日常茶飯事だと思うんですけど、そういった感情を個人個人が持ってるから世の中ってややこしいんですよね。


    最後のほうの流氷の描写は、ちょっと読むだけではわかりにくかったのでドラマの放送が楽しみです。


    以下に簡単なあらすじをまとめてみました。


    続編は、自殺を図った陽子が大学生として新しい一歩を踏み出すところから始まります。

    新たに登場するのが、陽子の実の母とその子どもたち(とその父親)。
    それから、徹と北原をはさんでの三角関係は、もう一人の女の子を交えての四角関係になります。


    読みすすめていくうちに彼女が誰であるか予想はついたんですけども。
    このことも、罪のゆるしというテーマを扱うには大きな存在というわけです。

    そしてもちろん夏枝と啓三、村井、由香子たち(もちろん辰子や高木も)を抜きにして語られることはないんですが、陽子と比べると対照的というか、暗いというか、けっこう重苦しい展開だったりします。

    ま、陽子のほうも前編に比べるとかなり暗いんですけどね。。。


    物語の軸としては、陽子の弟にあたる達哉がポイントとなって進んで行きます。
    最後の結末へ向けてのストーリーも彼がいなければありえないですから、けっこう重要な役割です。

    彼が起こした行動によって、ラスト、陽子はある決断をすることになります。


    そう。
    陽子は徹、北原のどちらを選ぶことになるのか・・・・?!
    陽子にとっての罪のゆるしとは?!

  • 人は人である限り、罪を持つというのが『氷点』。じゃあ、その罪を人はどうやって許すのか、というのが『続 氷点』。

    「許すとは、何と困難なことであり不可解なことであろう。
    人間同士、お互いに許し合えたとして、それで果たして事はすむのかという問題がある。
    たとえ人が自分を許してくれたとしても、私が裏切ったという事実は、厳然としてこの世に留まっている。だからこそ、私の血の中を流れる罪を、ハッキリと『ゆるす』と言ってくれる権威あるものがほしい。」

    って下りが、忘れられない。
    本当にそう。(2009年6月21日・記)

  • 日常生活で人が普通に抱くような憎しみ、嫉妬や、
    犯してしまった過ち、
    それを取り巻く事柄の因果関係が巧みに描写されていた。

    望まれて生まれなかった自分に対し、いっそ殺人犯の娘でもよいと
    感じた陽子の気持ちが苦しかった。

    自分が生を受けた意味を見いだせない陽子をみて、
    今後自分が大人になっていく中で、
    単純かもしれないが子供は愛していきたいと思った。

    続氷点で描かれていた「罪」は、現実世界においても突拍子もないことでもないと思う。
    それぞれ犯した罪をどう許すか、許せるのかみせてもらった気がします

  • 無名の主婦だった三浦綾子氏を一躍作家にした作品。

    全四冊でしたが、一気に読めました。

    1970年代くらいの作品ですが、時代は変わっても
    人の嫉妬・憎しみ、欲望は変わらないもの。
    2010年の今でも、ある意味違和感なく読めました。

    「原罪」とは何かがテーマですが、人はほんとに罪深い生き物だと思いました。そのうごめく臨場感は、秀逸でした。

    育ての母親が言い放つ陽子さんへの怨念のような言動は、
    どの女性でも持ちえる独特のものなんでしょうか。
    レビューには、独特の醜さと記した方もいましたが、ほんとにそうなのか。判断はつきません。


    「許す」ということは、人を上からも下からみない、そう接しないということでしょうか。

    それが隣人への愛でしょうか。
    「許さない」と思った時点で、上か下かはわかりませんが、
    自分の立ち位置が変化しているということなのか。

    主人公の陽子さんは、ラストでそれがわかったので、
    ああいう決断に至ったのか。

    心情的には、そっちじゃない方にいってほしかったけど。
    せつなかったので。

    人は絶対ではない、永遠に相対的な存在だ、と常々考えの基本においてますが、「許さない」とは、絶対的な存在だと自己を示しているということか。だとしたら、神以外許すことはできないっていうことになる。

    だから本文にもあった、大きな石と小石の話か。

    大きな石を移動させて、元に戻せと言われてもできるけど、
    小さな石は、いちいち場所を覚えていないので、元に戻せないって話に繋がるのか。


    多くのひとは小さな石(小さな悪)の集合体とも言えて、そのひとつひとつを覚えてはないし、覚えていては生きていけない。
    なぜなら、人は相対的な存在でしかないから。
    だから、小さな石のことくらいは許すけど、大きな石は許せないか。


    陽子さんは、本文で「権威がほしい」と言っていたけど、あいにく永遠に持てない存在。だから苦しいのか。

    わかったようで、わからない永久なテーマですねえ。

  • 陽子にとっての罪のゆるしとは。
    育ててくれた母の夏江のように自分はならない、、と自分が正しいと思って見下していたと気づいたとこ、そして自分を捨てた実の親を憎むとこ、最後の陽子の気持ちは燃える流氷として描かれていたのはドラマティックであった。
    特に夏江とかちっぽけすぎて共感できないところもいっぱいあったけど、世の中のいろいろな問題や感情がいろいろちりばめられた作品なのかもと客観的にみつつ、自分の中の罪の意識を考えさせられた作品だったかな。今このタイミングで読めたのは自分的によかったけど、また罪とはなんて忘れていく。そしてまたぶつかっての繰り返しなんじゃないかと思うけど、自問自答してくのも悪くないし、むしろ考えて答えを探していく人生なのかもなと思った。

  • 2016.7.29
    「真に裁き得るものだけが、真に許し得るし、真に復習し得る」(曙光)という言葉が非常に刺さっている。この小説を読み返すたびに、罪から許されるためにはと考える。最終的には神々しい景色を眺めることで神の存在の核心へと至った陽子なわけだが、私はやはりそのような許す神裁く神という、人類の父であり母であるような人格神は認められないというか、人間が都合よく作ったフィクションに過ぎないと思ってしまうのである。もちろん宗教に限らず人間は様々な幻想の中を生きているわけであり、その幻想を信じることができればその個人にとっては幻想は現実で、ゆえに救われることもあるだろう。しかし信じるとは、どうすればできることだろうか。竹田青嗣はフッサールの哲学を参考に、確信成立の条件は内的確信つまり経験の反復と相互確信つまり他者の承認とがあるといった。私が神を信じるには、神を信じている人間集団の中に入るか、私が宗教的な経験をするしかない。しかしこれもイマイチというほかない。たとえ万人が神は存在し許されるといっても私が信じるかどうかはまた別だし、宗教的経験と言っても、その経験を可能にしているのが宗教的枠組みの物語であって、その物語を持たない私にとってはたとえ超自然的な経験があっても偶然としか捉えないだろう。私は、私を許すことができない。どうやっても過去の過ちは残る。私は罪人であるという罪悪感とはなんだろうか、それが残るとはそれが私の記憶の中に残るということである。しかし考えれば、私は許されたいとも思っていないのかもしれない。こうして苦しむことで、勘弁してくれと思っているのかもしれない、過ちをしでかした上で許してくれなんて虫が良すぎるのだと思っているのかもしれない。ただ恐ろしいなと思ったのは、罪は罪を呼ぶのである。嘘が嘘を呼ぶように。この連鎖は恐ろしいと思った。許されたくないという、自分で自分を苦しめることが正しいことだという、果たしてそうだろうか、一面ではそうだろう、忘れるべきではなく、後悔し続けるべきであり、何事もなかったかのように振る舞うべきではない。しかし過去は美化されるように、醜化もされるのではないか、すなわち私はあの過去を罪と捉えているがそうでもないのではないだろうか、だとしたら罪とは何か。私が本当に苦しんでいる罪の意識とは何か。本当は苦しむにも値しないようなことに苦しんでいるのではないだろうか、しかしそれを認めるとこれまでの苦痛がなかったことになるから、見ようとしないのではないだろうか。苦しみすら、痛みすら、自己愛の対象であり、愛しくなるもの、手放したくなくなるものなのだろうか。うーん。

  • 2015.10.1四月、陽子は北大の学生となった。かつて父、啓造や実父中川が学んだというキャンパスで、陽子は一人の青年に話しかけられた。「あなたは僕の母にそっくりです」ーー彼こそが三井恵子の息子で自分にとっては"弟"であることを直感した陽子の胸は騒いだ。困惑と喜びのまじった複雑な陽子の心境も知らず、彼、達哉はぐんぐん陽子に接近してくる。
    その一方で、徹と北原、札幌で知り合った順子との交流も深まり、四人は支笏湖に遊んだ。その後にきた順子からの便りは、陽子を衝撃で打ちのめしたーーー。
    愛憎交錯するなかで、悩み、成長してゆく陽子の姿を通して、"罪のゆるし"とは何かを世に問う、感動の巨編、ついに完結!(裏表紙より引用)

    「氷点」では、人間の原罪がテーマだった。原罪とは罪の種子のようなもので、法を犯すだのの罪ではなく、罪の可能性のようなもの。その種子は、自己愛を土壌として育つように思われる。人のことだと人間は弱いからねなんてヒューマニズムを掲げても、いざ自分が裏切られると相手を憎まずにはいられない。自分が正しくて相手が間違っていると、自分を上、相手を下に見ざるを得ない。すべて、自分を愛しているという人間の当たり前とも言える、傲慢な性質からきているのではないか。故に人間はその存在の根源において、自己愛を土壌に罪の種子を育む、原罪を抱えている。この「続氷点」は、その罪の赦しがテーマだった。私自身、人を、ある団体を裏切ったことがある。それも私の利己心からくるものだった。暫く忘れていた罪の意識を、見つめざるを得ない作品だった。時間が解決するということがあるが、それは忘却故である。しかし忘却とは言わば痛み止めで、病を治す治療薬ではない。ルソーは、不健康と良心の呵責こそが不幸だと言ったと、この前聞いたが、この良心の呵責こそ罪に伴う罰であり病である。忘却はこの痛みをなくしてくれるが、それは病が治ったことを意味しない。治療薬とは、赦しのことである。しかし"裁き得る者こそ赦し得る"わけであり、誰かに危害を加えることが罪なら、その相手こそ裁き得る者であり、故に赦し得る者ではないか。その裁き得、赦し得る相手に対し、赦しを求めることが、謝罪ではないか。しかし謝ることは簡単ではなく(少なくとも馬鹿なプライドを持つ私にとっては)、謝ることの苦しみ、またはそれをしなかった者の良心の呵責こそ、罪に対する罰のように思う。子どもの頃から教えられた、ごめんなさいを言うことの大切さが身に刺さるようである。が、この小説で明らかにされた赦しはこれよりももっと深いレベルでのことである。新約聖書にてイエスが、罪のない者が石を投げろと言ったように、罪あるものには相手を裁く権利も赦す権利もない。そして人間原罪説に則るなら、罪のない人間などいない。自覚してるか否かの違いである。私を裁ける人間はいないことになり、故に真の意味で私を許してくれる人間もいない。また罪ある私に人を裁く権利はないし、故に人に真の意味での赦しを与える権利もない。裁くことができるのは、赦すことができるのは、絶対的に正しい神のみである。故にその、唯一罪を赦せる神という存在から、人間の罪に対する赦しを得るために、イエスは十字架にかかったのである。これを心に直感した時、陽子は目の前の氷河が溶けて炎の燃えてるかのような景色を見ていた。まさに彼女の心の中の"氷点"が、溶けた瞬間だったのだろうと、象徴的な描写だった。しかし正直、私は神の赦しについて、納得できなかった、いや理解できなかった。赦されたい私が、絶対の権威である神に赦されたとしても、私が裏切り、被害を被った人々はどうなるのか。彼らへの迷惑を棚に上げ、私は救われたと、ルンルン生きてていいのか。私が裏切った相手も原罪があり、私を裁く資格はないとしよう。しかしそれは私が偉そうに述べることではない。三井の旦那の手紙に述べられている通り、自らの罪への自覚は人を赦す姿勢に変わるのはわかる。私も、赦して生きたいと思う。しかし結局最後まで、私が赦される方法は、よくわからなかった。苦しめたなら苦しむのが当然で、相手は苦しんだに関わらず自分は赦されよう、この良心の呵責の苦しみから逃れようなんて、結局神の赦しも人間のエゴが生み出したご都合主義なフィクションじゃないか、なんて考える私はひねくれているだろうか。神を信じないのではなく、神に赦されていいと思えないのである。相手に迷惑をかけ、謝罪する、そして許されたとする。それでも自分で自分を許せない時があるだろう。誰ももう責めてなんかいないのに、相手に迷惑をかけたという過去の事実に縛られ、自分が自分で許せない。こうなるともう、他者も自己も許せない、ならば誰が赦せる?神だろう、ということか。んーダメだ納得いかない。それでいいのか。確かに苦しみたくない、不幸になりたくない。しかしだからといって、私は赦されていいのだろうか。赦してください、なんて、少なくとも今の私には、虫がよすぎるという思いが、払拭できない。私を赦してくれる権威あるものが欲しい人は、神に祈るべきだろう。多分私は、赦されたくないんだろうな。赦されたい人にとってはこの作品は確かにあとがきの通り、希望の文学である。求めよ、然らば与えられん、である。しかし赦されたくない私、赦されることに対する罪悪感を感じる私、求めてることが後ろめたい私のような人間は、どう生きていけばいいのか。赦されないこと、良心の呵責の痛みに対する甘えもあるかもしれない。この痛みによって私は償えているのだと。赦されるべきか、赦されないべきか。神が赦しても俺は赦さない、てのはやはり人間の傲慢か。あぁなるほど、私は赦されたくないのではなく、神に赦されることが許せない、結局自分で自分を許せないだけか。自分で自分が憎いだけか。一方で私には許す権利のないことがあり、一方で人を裏切った私から苦しみが取り払われていいのかという思いがある。許す許さんはお前の選択肢ではないんだから、いいから祈らんかい、なんて言われそう。でもそんな正論では自分で自分が許せない思いは消えない。自分で自分を許せない、神に赦されることが後ろめたい人間は、いかに生きていくべきか。自分の罪を許し、神に赦される自分を許すべきか、ならばどうすればいいのか、または良心の呵責に苛まれ続けるべきか。人を裁く権利も許す権利もないように、私が私自身を裁く権利も許す権利もない、のか。あーダメだ。なんかその内、他人も思いっきり許せず憎む日が来そうな気がする。納得や理解の及ばない無知さも、納得や理解があってもその通りに生きれない愚かさもまた、原罪である。私自身の人生テーマとして、生涯で考えていく必要があるだろう。あと、人生の終わりに残るのは集めたものではなく与えたものである、という言葉も、納得はできなかったが感銘を受けた。自分の人生においてどこへ向かって歩んでいくかを考える時の、ひとつの指針としたい。罪とは、赦しとは、愛とは、人生とはを考えさせられた作品。私にはまだ、感情的な面でも経験的な面でも、人生について知らないことが多い、理解できないことが多いなと、血の通った言葉で語れる人生哲学が少ないなと、改めて実感させられました。あとキリスト教への興味がより湧きました。

  • なんか、最後は凄い事になったなぁ。結局人を赦すという事がテーマだったと思うがなんとなく、尻切れとんぼのような感じ。これからは、達也が一生苦しみを背負って生きるという事だけはわかる。現代でこんな風に生きてる人の方が少なくなってるんじゃないかな。

  • 一生を終えてのちに残るのは
    われわれが集めたものではなく
    われわれが与えたものである。

    この言葉 忘れないようにしよう。

全79件中 1 - 10件を表示

続氷点 (下) (角川文庫)のその他の作品

三浦綾子の作品

続氷点 (下) (角川文庫)を本棚に登録しているひと

ツイートする