軽蔑 (角川文庫)

著者 :
  • 角川書店(角川グループパブリッシング)
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本棚登録 : 191
レビュー : 36
  • Amazon.co.jp ・本 (462ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784041456125

作品紹介・あらすじ

好寄に満ちた視線が行き交うトップレス・バーで、真知子はただ一人の男を思い、踊る。カズさんとの交情は、潔らかで高貴だった。得体の知れない熱い血が突き上げる-。恋に落ちた二人はヴァレンタインの夜、警察の手入れで逃げ出し、カズの故郷へと向かった。夫婦となり、新生活が始まるが、閉塞感と運命は、二人を否応なしに試練へと導いてゆく。惹かれ合う男と女の本能を、異才・中上健次が描き尽くした究極の性愛の物語。

感想・レビュー・書評

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  • 「男と女。五分と五分」というキー・ワードが何度も出てくる。別世界(舞台)に生きる女が地上に降りて恋をするとそこに悲劇が生まれる。五分と五分の関係とは思えないな。女は強し。
    中上健次の作品を読んだのは十年ぶりくらいだろうか。彼も都会を描いていたんですね。知らなかった。でも、やはり、和歌山の土地描写、ねっとりとした感じは懐かしい感覚だった。
    さて、映画を観てみますか。

  • 中上の作品を読み進んでいると、棟方志功の姿が思い浮かぶ。古い映像で見た棟方の姿は、版木に一心不乱に向き合い、同じ箇所を何回も何回も、執拗に見えるくらい彫りを加え続けていた。それ自体は人を殺傷すらできる彫刻刀を、まるで本来、人や自分自身の身体を傷つけるために振り上げたものを、そうする代わりに版木に向かって線を刻み、乳房や女陰など自分の身体に存在しない器官はことさらに強く太く鋭角的に線をくわえ、そうすることで私たちの観念や想像をはるかに越える像を立ち現れさせる。

    「軽蔑」では、“相思相愛の男と女、五分と五分”といった核となる言葉が、他の中上作品同様、技法的に何回も何回も繰り返される。その言葉が出るたび、私たちの胸中に強く太く描線が刻まれ、単なる男と女の物語として読み始めた読者の心に、読み進めるうちに、棟方の版画作品のように、聖なるもの俗なるものそのほかのあらゆるものがすべてその強く太い描線によって浮かび出されたかのように、読者はありふれた男と女の真知子とカズさんに手を合わせ、幸せを祈り不幸を悼み、2人の物語に自分の人生観を濃く重ねることができる。

    しかし、私たちのように平凡に日々を安穏と生きる者は、この本を閉じれば、強く太く描かれた物語の登場人物の人生とは明確に区切られた日常空間に引き戻される。棟方作品に魅かれる者が、仏教界や宗教界に精神ごとどっぷりつかるとは限らないのと同じ。私たちは、人生について深く悩み、傷つき、死を考える前に、棟方が自分に彫刻刀を向ける代わりに版木に自分の魂を刻み付けたのと同様に、この作品を読み進めることで、自分の中の爆発しそうな魂を、本を閉じるのと同時に封じ込めることができるということになるのかなどと考えたりもする。

    その一方で中上は、読者が心の中にもつ獣のように暴れる魂を、その一身で肩代わりしたかのように、この作品を書き終えた直後の1992年8月に逝ってしまった。
    (2011/6/13)

  • 重い恋愛小説で、正直入り込めず。。。ヤクザっぽかったり、トップレスバーの踊り子なのに、お互いに対しては純粋すぎて、不器用すぎて、痛々しい感じ。

  • 真千子は言う「男と女は五分と五分」と。
    夜の新宿、身一つで生きてきた真千子。
    身一つでカズの故郷へ。
    夜の新宿、ある意味拳一つで生きるカズ。
    真千子を伴い故郷へ。

    都市生活者と僅かな半径で生きる者の意識差。
    真千子の言葉は通用しなかった。
    戸惑、好奇、しがらみ、因習、嫉妬、・・・・・コンプレックスが生む軽蔑。
    不寛容、絶望、覚悟・・・・・・"空気"に追いつめられる二人。


    中上健次最後の作品は割とシンプルな純愛作品。
    幼稚な二人の幼稚な純愛の果ては実に不様で無残。
    けれども美しい。
    そして凄く切ない。
    読後感はホントに居た堪れない切なさだった。

  • 日本映画チャンネルで「軽蔑」を観た。どう見ても歌舞伎町でNo.1のトップレスダンサーには見えない鈴木杏は置いといて、物語が中上っぽくない。
    (終盤、腹を刺された一彦が商店街を走る「勝手にしやがれ」なシーンに被る憂歌団、あれは反則でしょ。)

    ・・・と原作を読んでみることにする。

    中上健次といえば、濃厚で重厚な物語、むっと匂い立つような生々しい性描写で読むのに結構体力がいる作品のはずが、どうもこの作品は違う。
    サクサクと読める。新聞連載だったからか、性描写もほとんどない。中上色が希薄。
    田舎の土地の因習、人間関係になじめずに居場所を見つけられない真知子は泣いてばかり。どうしようもなく半端なヤクザ者の一彦は、これといった見せ場もないまま物語は進む。
    このだらだらとした日常はある意味、非常にリアリティがあるけど、物語としてはねぇ…。
    ただ、最後の場面は、素晴らしく中上らしい終わり方。

    手を伸ばせば届きそうなところで踊りながらも、手を触れてはいけない、非現実の存在としてのトップレスダンサーに真知子が戻るのは、自らがこの世の者でなくなるということ? そうなるとラストも特別な意味を持つ。

    「軽蔑」というタイトルもどうとっていいのやら。

  • 本編より解説の方がいい本って、なんだか微妙な気持ちになる。

  • 手を伸ばしてさみしいに触る、降る星のように愛されながら遠くで腕を広げて待っているかなしいやみじめさに触れる、触らずに生きていかれないほどに人間が弱い生き物だから、それがどんな感触であっても自分以外の体温があったから。共有できないことはわかっている。共有できないことにうちひしがれれば、自分以外の誰かの影にさわれる、ひとりじゃない、そうまじないのようにとなえる。

    中上健二の書く女性は何処か男性の目やにおいを感じる。中上がどこまでも男性だったからなのだろうか。

  • 軽い、中身も軽い。

  • 近代の都市生活者としての真知子が、前近代的な田舎=共同体に縛られるカズさんを愛するも、ふたりは都会から田舎へと場所を移すとどうしても上手くいくことが出来ない。

    それはカズさんの田舎である共同体=前近代が、真知子という都会者から彼を奪おうとするためであり、しかしカズさんは自らがそのようにして故郷が真知子=都会=近代から田舎=前近代へと引き戻そうとされていることに気がつかない。

    それは、カズさんがあまりにも共同体に根付いてしまっているからであり、一方の真知子は過去がほとんど語られず、そのような共同体をそもそも持っていない。

    かつてあったものとしての共同体=前近代に対する追憶や、自らがそれを持ち得たかもしれないという可能性への執着を、真知子は持っていない。

    真知子はもとより都市生活者=近代として存在し、つまり共同体=前近代がなくなったところから始まっているのであって、追憶や執着は共同体=前近代に属していた者しか抱きえない。

    カズさんのようにどっぷり浸かりきってしまえば、追憶や執着を抱けるほど客観的な距離をもつこともできない。
    それゆえ、カズさんは真知子の感情にあまりにも鈍感である。

    また、真知子もはじめより共同体=前近代から完全に抜け出てしまっているがゆえに、追憶や執着という形で近付くことすらままならず、ただ「軽蔑」することしかできない。
    真知子の「軽蔑」は、つねに共同体=前近代から遠退くために、距離を生むためにはたらいてしまう。

    このようにして、都市=近代では交じり合った真知子とカズさんの視線は、田舎=前近代へと戻ることによって擦れ違い続けざるをえなくなってしまうのである。

  • 中上健次の晩年の作品。お金持ちのボンボンの男と踊り子の女の逃避行、かと思いきや男の実家の田舎町へ移り住む女。そこで、家の問題やヤクザが出てきたりの流れで、とっても狭い世界に男と女の熱情と悲恋が描かれる。中上健次の描く世界観を、積極的に取り込もうと意気込んで読まない限りはなにか退屈な印象を受ける。とにかく、同じような時間軸と思考のリフレインが時に苦痛であったりもして。描写は結構独特で緻密なものがあった。もっと前期の他の作品を読んでみたいと思う。

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著者プロフィール

1946年和歌山県生まれ。74年『十九歳の地図』でデビュー。76年『岬』で芥川賞、77年『枯木灘』で毎日出版文化賞、芸術選奨新人賞を受賞。他の作品に『千年の愉楽』『地の果て 至上の時』『日輪の翼』等。

「2015年 『中上健次』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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