定本 言語にとって美とはなにかI (角川ソフィア文庫)

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  • KADOKAWA (2001年9月21日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (400ページ) / ISBN・EAN: 9784041501061

作品紹介・あらすじ

言語とはなにか、芸術とはなにか。そして文学とはどのような言語の、どのような芸術なのかー。「万葉集」「古事記』といった古典や現代の詩歌をはじめ、森鴎外「舞姫」、国木田独歩「武蔵野」、夏目漱石「それから」など、文学史上のさまざまな作品を豊富に引用し、具体的に分析。表現された言語を「指示表出」と「自己表出」の関連でとらえた独創的言語論の「改訂新版共同幻想論』に並ぶ、吉本隆明の主要著作、待望の文庫化。解説=加藤典洋。

みんなの感想まとめ

言語や文学の本質を探求する本書は、文学に対する深い理解を促します。読者は、古典から現代文学までの豊富な引用を通じて、著者の独自の視点を体験し、文学観を形成する手助けを得ることができます。言語が持つ美し...

感想・レビュー・書評

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  • 人間とは何なのか、という本質的な問いを、追求してゆくためには言語へのアプローチが欠かせない。
    人間とは言葉を使う生き物だからだ。

    言語は、コミュニケーションの手段として発明されたという、言語論が広く信じられていた(る)。
    言語の根源にまで探ることで、この常識的な言語理解が根本的に誤っていることを明らかにしたのが本書だ。
    本書は、題名が長いので「言語美」と略されて呼ばれている。

    この本で吉本は、言語がコミュニケーションのためのものだという考え方を否定する。
    確かにコミュニケーションにも使われる。
    だが、それだけでは全くないというのだ。
    吉本は、言語は語られるものだけではないと言う。
    「音にならない心の働きや沈黙まで含めた体系」と捉えるのだ。
    我々が通常言語と考えている領域よりもはるかに広く深い領野として言語を捉えていると言うことがわかる。

    彼が言語を把握するために生み出した二つの概念が重要だ。
    彼は言語に二つの側面を見出し、それを「自己表出」と「指示表出」と名付ける。

    「自己表出」とは一言で言えば「何を言いたいのか」と言うこと。
    講演会で吉本はこのように説明している。
    「言語の幹と根は<沈黙>なんだ。
    自分が自分にコミュニケーション出来れば、それは言語なんだ」
    従って、「自己表出」とは、心の動きが自然と表れた沈黙をも含んだ言葉、沈黙の幹と根(一番重要な根底)だと言えるだろう。

    もう一方の「指示表出」とは、「何のことなのか」を表すものだ。
    「自己表出」が木の幹と根だとすれば、「指示表出」は、枝と花に相当するだろう。
    他者とのコミュニケーション、情報を伝達すると言う、我々が言語というときにすぐに思う側面だ。

    吉本隆明は、「自己表出」と「指示表出」と言う二つの概念だけで、実に驚くべき理論を生み出してみせる。
    彼は「自己表出」(「何を言いたいのか」)と「指示表出」(「何のことなのか」)を縦横のベクトルで表し、その90度の平面の中に、すべての言語(と言うことは全ての文学作品も)収まるのだ、と言う理論を生み出したのだ。
    何という法外な構想だろうか。

    まず手始めに、そのベクトルで作られた90度平面の中に、品詞を並べて「品詞のカテゴリー表」を作ってみせる。
    「自己表出」性の一番高いのが感嘆詞、次が助詞。
    「指示表出」性の一番高いのが名詞、次が代名詞、次いで動詞。
    丁度中央に位置するのが形容詞。
    言語の持つ品詞の位置を、「自己表出」と「指示表出」と言う二つのベクトルの作り出す角度によって、「科学的に」、見事に位置付けられることになる。

    吉本は本書で、誰も目撃したことのない「言語発生の現場」を印象的に描き出している。
    それは、原始人が初めて海を見た時の情景だ。
    山と森に住む原始人が、長い旅の末、森を抜けた時、初めて大海原を目撃する。
    彼は目を見張ると思わず「うっ!」と声を上げる。
    これは「自己表出」の度合いが一番高い感嘆詞だ。
    その彼が、もう一度森に戻って洞窟にいる仲間に「うっ!」と発声する。
    彼「うっ!」
    仲間「うっ?」
    彼「うっ!」
    仲間「うっ!」
    彼と仲間「うっ!!」
    彼が伝えた自己表出の「うっ!」は、段々と指示表出性を帯びてゆき、遂には指示表出度の最も高い「うっ(海)」と言う名詞になっていくというのだ。
    完全に指示表出度の高い名詞になるときは、彼が仲間を大海原に連れて行って並んで「うっ!」と発声した時かもしれない。

    この思考実験のようなストーリーを初めて読んだ時、大海原を初めて見た原始人になったかのような感動を覚えた。
    言語の発生とはこういうものに違いないという肚に落ちるような納得感を覚えたのを忘れない。

    だが、吉本隆明が言いたかったことは、名詞の発生のひとつの事例を述べることではなかった。
    彼はここでもっと本質的なことを言っていたのだ。
    吉本が言いたかったのは、「うっ!」という自己表出性の高い感嘆詞が「う」という指示表出性の高い名詞に変貌するという原初の事例をストーリーとして提示することだけではなかった。
    大海原を見た時に原始人が「うっ!」と発した瞬間、90度の平面、つまり「言語構造」そのものが一挙に出現した、という点がより本質的な事態だったのだ。
    このことは、「言語美」を読んでいる時は気付きようもなかった。
    こうした深い解釈を教えてくれたのは橋爪大三郎だ(「永遠の吉本隆明」)。
    ということは、原始人が大海原を見て「うっ!」と発した瞬間が、知性の発生、つまり人間の生まれた瞬間だということだろう。

    ひとつのエネルギー(ベクトル)だけでは言語は成り立ち得ない。
    二つのエネルギー(ベクトル)が重なることで、言語が生み出される。
    おそらく、青春時代に詩を書くという詩作行為という実践を通じて掴んだのがこの二つのエネルギーだったのだと思う。
    自己の詩作という切実な行為を通じて掴み出した二つのエネルギーに「自己表出」と「指示表出」と命名することで、詩作から思索へという論的転換を図ったのだと言えるだろう。
    「言語美」によって、詩人は思想家(論理の人)になった。

    この論理の有効性は、極めて単純な原理によって言語表現の全てを把握することが出来るという点にある。
    彼は日本の枕詞の分析を通じて、自己のこの理論の有効性を見事に示してみせる。
    「あしびきの」山、「たらちねの」母、「ちはやぶる」神、「あおによし」奈良、等々。
    枕詞には深い意味はなく、次の言葉を導き出すための形式的なコトバなので、訳す必要はない、と教えられてきた。
    しかし、5-7-5-7-7の31文字という限られた制約の中で、かなりな字数を有する枕詞が「意味のない、語調を整えるだけの形式的なものだ」と言われても何か釈然としないものを誰もが感じてきたのではないだろうか。
    更に「足引きの」や「垂乳根の」や「千早振る」や「青丹良し」といった、微かに残る残響を感じ、それを切り捨てる枕詞解釈に何か怒りに近いものを感じたこともあるに違いない。
    吉本は「枕詞」を「自己表出」と「指示表出」のベクトルを使って次のように説明している。
    枕詞は元々「自己表出」性の高かった言葉が、段々と習慣化して、「指示表出」性も脱落させて、形式的な「指示表出」の抜け殻に転落したものだと言う。
    90度の平面においては、指示表出性の一番高い「名詞」に辛うじて引っかかりながらも、ほとんどがその平面からずれ落ちている、という位置付けを与えることが出来るだろう。
    枕詞の位置付けを初めて明確に定義付けた説明だと言える。
    これをひとつの事例として、吉本は、文学表現は、「自己表出」と「指示表出」のベクトルの作り出す90度平面の中で、習慣化、儀式化して本来の意味が捻れてゆく、そうゆう機能の変化•変転を具体的に辿ってみせる。

    「言語美」は言語論の画期を開いた書だと言える。
    それをたった一人でやり遂げる力技。
    ひとり握り拳をつくって「勝利だよ、勝利だよ」と呟いたが、本書が言語学の分野から顧みられることはなかった。
    言語学界は本書を黙殺したのだ。
    しかし、言語学というようなそんな狭い世界のことはどうでも良い。
    現代思想の分野で重要著作として位置付けられているのだから。

  • 作家や文学研究に携わる人でなくとも、読書好きな人なら「文学とはなんだろう」という疑問を抱くことがあるだろう。しかしその疑問も私たち一般読者は、作品を読み重ねていくうちに独自の文学観なるものが形成され漠然した答えが導き出されることで解消されてゆくように思う。それは大抵、自分の「好み」がはっきりすることと、名著と評価された作品(一般的な価値基準)を取り入れることである種の(独自の)価値観が形成されるからではないだろうか。
    この著書は、研究対象としての文学の捉え方といった堅苦ものではなく(この著書の学術的な価値を批判するわけではない)、文芸作品の読み方の一つの例として私たちに貢献してくれる本だと思う。詩人であり、批評家である吉本隆明の文学観を順をおって知ることは、前述した私達が作り上げてきた価値観を明確なものとする手助けになるだろうと思う。

  • 「定本 言語にとって美とはなにかⅠ」吉本隆明著、角川ソフィア文庫、2001.09.25
    399p ¥700 C0195 (2022.08.24読了)(2016.05.22購入)
    本の題名からは、何を論じる本なのか、見当がつきません。「言語論」「文字」「表現の仕方」「発音」…。読んでみてもよくわかりません。
    わかった範囲でいえば、最初の方は、言語論。後半は、日本近代文学における小説表現の変遷を具体的な小説の一節を引用しながら、考察しています。
    円朝「真景累ヶ淵」、東海散士「佳人之奇遇」、坪内逍遥「当世書生気質」、
    二葉亭四迷「浮雲」、森鴎外「舞姫」、幸田露伴「風流微塵蔵」、
    幸田露伴「五重塔」、泉鏡花「照葉狂言」、広津柳浪「今戸心中」、
    国木田独歩「武蔵野」、永井荷風「地獄の花」、島崎藤村「水彩画家」、
    島崎藤村「破戒」、鈴木三重吉「千鳥」、泉鏡花「婦系図」、
    田山花袋「一兵卒」、森田草平「煤煙」、夏目漱石「それから」、
    森鴎外「ヰタ・セクスアリス」、近松秋江「別れた妻に送る手紙」、
    志賀直哉「網走まで」、谷崎潤一郎「刺青」、夏目漱石「道草」、
    志賀直哉「和解」、夏目漱石「明暗」、有島武郎「カインの末裔」、
    佐藤春夫「田園の憂鬱」、横光利一「蠅」「無礼な街」「頭ならびに腹」「ナポレオンと田虫」、
    佐藤春夫「都会の憂鬱」、中条百合子「伸子」、竜胆寺雄「放浪時代」、
    野上弥生子「真知子」、平林たい子「施療室にて」、横光利一「機械」、
    小林多喜二「蟹工船」、川端康成「浅草紅団」、武田麟太郎「銀座八丁」、
    谷崎潤一郎「春琴抄」、徳永直「八年制」、太宰治「満願」、
    伊藤整「生物祭」、中野重治「歌のわかれ」、野間宏「暗い絵」、
    椎名麟三「深夜の酒宴」、武田泰淳「蝮のすゑ」、椎名麟三「邂逅」、
    坂口安吾「白痴」、梅崎春生「桜島」、原民喜「夏の花」、
    織田作之助「世相」、石川淳「焼跡のイエス」、太宰治「斜陽」、
    三島由紀夫「仮面の告白」、佐多稲子「私の東京地図」、大岡昇平「武蔵野夫人」、
    小島信夫「小銃」、安岡章太郎「遁走」、吉行淳之介「原色の街」、
    堀田善衛「時間」、中野重治「むらぎも」、三島由紀夫「金閣寺」、
    深沢七郎「笛吹川」、島尾敏雄「重い肩車」
    日本文学の代表的作品は、結構読んできたつもりでしたが、まだ読んでない作品がたくさんあります。70ほどの作品が取り上げられていますが、読んだのは、17作品です。4分の1ですね。

    【目次】
    文庫版まえがき
    選書のための覚書

    第Ⅰ章 言語の本質
    第Ⅱ章 言語の属性
    第Ⅲ章 韻律・撰択・転換・喩
    第Ⅳ章 表現転移論
    第Ⅰ部 近代表出史論(Ⅰ)
    第Ⅱ部 近代表出史論(Ⅱ)
    第Ⅲ部 現代表出史論
    第Ⅳ部 戦後表出史論
    解題  川上春雄
    文庫版解説 言葉について  加藤典洋

    (「BOOK」データベースより)
    言語とはなにか、芸術とはなにか。そして文学とはどのような言語の、どのような芸術なのか―。『万葉集』『古事記』といった古典や現代の詩歌をはじめ、森鴎外「舞姫」、国木田独歩「武蔵野」、夏目漱石「それから」など、文学史上のさまざまな作品を豊富に引用し、具体的に分析。表現された言語を「指示表出」と「自己表出」の関連でとらえた独創的言語論の1。『改訂新版共同幻想論』に並ぶ、吉本隆明の主要著作、待望の文庫化。

  • ー 原始人がはじめて現実の対象を有節音声としてえらびとったとき、発したその音声は意識に反作用をおよぼした。それは一連の意識の波紋をえがいたにちがいない。こういった一連の意識の波紋は、また一連の音声波紋として表出せられたかもしれない。これを、不完全な言語の段階での文だとかんがえれば、わたしたちは、カッシラアにならって、言語の世界でいちばん簡単なのは、常識的にかんがえるような単語ではなく、むしろ文だとおもわれる。

    しかし、こういう仮定にそれほど固執するわけではない。原始人たちは、海を眼のまえにはじめてみて〈海(う)〉といっただけかもしれたない。ただこう仮定したのは、一連の音声波一紋の表出が完結するためには、有節音声は、よりおおく意識の自己表出としてのアクセントで発せられるものと、指示表出として発せられるもののどちらかに傾かざるをえないことをいいたかったからだ。もちろん、言語の本質はこのふたつの面をもっているから、いずれのばあいも他を含んであらわれるといえる。 ー

    想像していたより分かりやすくて面白い。

    最近、ビジネス書とか地政学とかが多かったので、違うジャンルを読みたく、かなり遠めのジャンルに行きました。

    とは言え、佐藤優繋がりで、マルクス主義文学論とかも出てくるので無縁ではない。

    言語にとって美とはなにかを問うことは、言語と行動の問題、言語が人々に与える感情の問題、言語と戦争の問題、言語と世界内存在の問題を問うことに繋がってくる。

  •  この人の「共同幻想論」は昔読んだ。「言語にとって美とはなにか」というこの本もたぶんタイトルは何度も見たことがあるはずだ。しかし、今まで買ってもいなかったのは、この人の本の難しさを知っていたからだろう。今回これを読むことになったのは、古本屋に何か読む本を買おうとして入り、絶対何かは買って帰ると思って本を探したが、結局この本しか買う気にならなかったという事情による。しかも、この本は「Ⅰ」と「Ⅱ」に分かれており、その古本屋は揃いでしか売らないような値付けがされてあったので、「Ⅰ」「Ⅱ」とも買うことになった。
     やはり難しい。何を言っているのかわからないのだ。すべてがわからないというのでもないのだが、かなりの部分がわからない。それでも読み進めていると、微かに仄白くわかったような感じになることもある。何しろ、言語とは何かという言語学の問いとも言えるところから始まる。わかりにくい言葉も山のように出てくる。「表出」という言葉が全体のキーワードであることは何となくわかってくる。今、「文庫版まえがき」を読み返すと、「表現された言葉は指示表出と自己表出の織物だ」と書いてある。「Ⅰ」を通読し終えた今、ようやくその言葉が少し意味があるように思えてくる。
     引用は膨大だ。日本の近代以降の小説だけでなく、万葉集の歌なども多くまな板の上にのせられている。マルクス、フロイトなども登場する。「登場する」と書いたのは、それらの人の名前が登場する文脈を正確に理解できていないからだ。何度も読み返したり、引用されている小説を読んだりするのも面白いだろうなと思いつつ、人生にそんな暇があるだろうかとも一瞬思ってしまう。

  • 自己表出と指示表出という見方は面白い。ただ、後半いろんな例を挙げて、それぞれの配分がどうかというようなことを言っているのだが、全然ピンとこない。。

  • 扱いに困る本です(褒めてない)。
    扱いに困るのは言語表現を「指示表出」「自己表出」の二軸により分析しようとする、この抽象化のモデルがあまりにも胡乱で無理があり、傾向としては漱石『文学論』やセジウィック『男同士の絆』、サイード『オリエンタリズム』みたいに、かなり無理のある見込みなさそうな抽象化にそれと整合的なパターンだけ、あるいはそれと整合的に恣意的に解釈して適当にパッチワークしてでっち上げた分析という印象が極めて強いです。
    ただ吉本さんは詩人として、趣味人としてはそれなりに見識と批評眼はある人で、本著も文章読本的なものとして眺める分には面白いです。

  • 画期的な言語論。
    言語をウィットゲンシュタインのように本質的な起源から構想したというよりは言語を意味論的なものとし、表現形式としての単語を解体し、それを文法表現から自己表出(最も自己表出性を帯びたのは感嘆詞)と指示表出(前略 名詞)に分けている。また、彼の美意識によって日本文学から引用しながら作られた表出史なるものは文語体と話体で区別し、前者を自己表出性のある文学と区分し、それぞれ表出史に出てくる文学を解説する試みであるが、これはスゴい。しかし、一読しただけなので、私はまだ、半分も理解できてないだろう。
    これは素晴らしい言語論だ。

  • 思索
    文学

  • 『言語にとって美とはなにか』によって、文学の政治による抑圧から解放された。この著作に至る前に、日本共産党批判、社会主義リアリズム批判を著者は成し遂げている。「政治と文学」論争を通じて、「文学」の「自立性」を追求し、時枝誠記の言語理論、三浦つとむの言語理論を援用し、古代から、近代までの文学作品の評価軸を確立した。ただ、歴史社会学派からの批判的な継承に関して、立場は明確だが、記述から不分明な感もある。不思議なことに『平家物語』には一切触れていない。

  • 「文学の作品や、そのほかの言葉で表現された文章や音声による語りは、一口にいえば指示表出と自己表出で織り出された織物だと言っていい」。

    『言語にとって美とはなにか』という命題は、
    長年、詩や文学に対峙してきた吉本が、
    これらを原理として上昇させようとした意気込みとある種の確信を表している。

    彼は、差異性をことさら強調するのではなく、
    共通性にこそ着目する。
    それは信じて疑わない。

    この態度は、しばしば断定的に現われるため、
    違和感を感じるかもしれないが、配慮してもなお余りある成果が在る。

    この理論に対する正当な批判は存在するのか?

  • 一巻。まずは言語について、え そこからですか…?ってくらいのところ(それこそ原始人が叫んでいた頃から)から、本当に確かか丁寧に丁寧に固めながら、言葉の意味とは、価値とは、音韻とは、比喩とは、正に冒険と言う感じに根本から問い直して、答えを出してくれる。凄くエキサイティングだし説得力があった。
    後半は、イデオロギーや歴史に依らない、表出の変遷だけを追った表出史。主に文学体、話体(自己表出、指示表出)と言う切り口で、これもまた丁寧に言語表現の歴史を追っている。

    全篇通して異常な密度。

    二巻が楽しみ。

  •  まだ、読みかけなのにレビューを書く。
     読了語のレビューは2の方にでも書く。難しい本だけど、頑張って読んで、読了後のレビューを書きたい。

     吉本氏の賢さに文庫版の前書きでやられる。
    「言葉で表現された文章や音声による語りは、一口にいえば指示表出と自己表出で織り出された織物だと言っていい」
     いきなりか。
     凄いな。

     吉本氏の書くものというのは、読む価値がある。
     なぜってありきたりではない、しかし、突拍子もないくだらない戯言ではない。彼には膨大な知識がある。
     膨大な知識があると、逆に新しいものが書きにくかったりする。それまでの知識に足を取られる。
     がりがりの大学教授の話が面白くないのはそんなわけなのだ。

     とは言っても、吉本氏の本には難しすぎるものも多い。
     だから、基本的には簡単なものを読みつつ、自分の興味のあるところだけでも難しい本も少しずつ読めれば良いと思う。

     ブックレビューなのに、ちと脱線したが。

     まあ、冒頭から改めてそんなことを感じさせてくれる一冊。

     頑張って読んで行く。

  • [要旨]
    言語とはなにか、芸術とはなにか。そして文学とはどのような言語の、どのような芸術なのか―。『万葉集』『古事記』といった古典や現代の詩歌をはじめ、森鴎外「舞姫」、国木田独歩「武蔵野」、夏目漱石「それから」など、文学史上のさまざまな作品を豊富に引用し、具体的に分析。表現された言語を「指示表出」と「自己表出」の関連でとらえた独創的言語論の1。『改訂新版共同幻想論』に並ぶ、吉本隆明の主要著作、待望の文庫化。

    [目次]
    第1章 言語の本質;第2章 言語の属性;第3章 韻律・撰択・転換・喩;第4章 表現転移論(近代表出史論;現代表出史論;戦後表出史論)

  • 難しい本ですが、必読かもしれません。

  • 日本人が自ら立ち上がり考え抜いた言語論(特にその本質論)はこれしかない。出版当時に学生だった先生から強く薦められ、実際、現代の学生であるぼくにとっても、海が割れるような衝撃だった。また、この本のおかげで時枝誠記を知ったのも大きい。

  • 古典から現代までの文学を言語表現の展開として、完全に理論化した超作品。いちどはふれてほしい。

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著者プロフィール

◇吉本隆明(よしもと・たかあき)
1924年、東京・月島生まれ。詩人、文芸批評家、思想家。東京工業大学工学部電気化学科卒業後、工場に勤務しながら詩作や評論活動をつづける。日本の戦後思想に大きな影響を与え「戦後思想界の巨人」と呼ばれる。2012年3月16日逝去。

「2026年 『吉本隆明全集【第Ⅲ期セット】』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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