定本 言語にとって美とはなにかII (角川ソフィア文庫)
- KADOKAWA (2001年10月24日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (368ページ)
- / ISBN・EAN: 9784041501078
作品紹介・あらすじ
『定本 言語にとって美とはなにか1』につづき、第5章構成論、第6章内容と形式、第7章立場の各章で、言語、文学、芸術とはなにかを考察する。引用する作品は古代歌謡から折口信夫、ヘーゲル、サルトルにまで及ぶ。日本文学の表現としての通史であり、戯作の成り立ちについて能・狂言を通じて丁寧に展開した画期的論考でもある。
感想・レビュー・書評
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下巻しか買っていない本
吉本隆明 「 言語にとって美とは何か 」 文学の言語美を論じた本。
言語を 自己表出と指示表出の区分している。わかりにくいので 下記のように読んだ
*自己表出=内在するもの=価値、言語の必要性
*指示表出=指示するもの=意味、実際 他人に伝える
言語の自己表出という構造に 言語美を見出している。
特に 構成をテーマとした章は 面白かった
*構成としての言語は 仮構線を境に飛躍する〜言語の仮構線は 諸時代の価値の中心である自己表出性の底辺の線を持つ
*言語表出の力点の転換が 組み上げられた過程の美をなす
文学の言語美を論じる上で著者が伝えたかったのは
*言語の内部には 自己表出という構造が内在する
*言語の芸術性は情緒にあるのではない〜自己表出性が指示表象と交差するところに芸術性の元がある
文学作品の価値とは 自己表出からみられた言語表現の全体の構造の展開のこと
*言語の価値は 意識を意識の方へかえすことで 成り立つ。言語は意識に還元される
*文学の価値は 意識に還元されない。意識の外へ、表現の内部構造へ突き進む
*言語の指示表出は 文学の構成に波をつくり、言語の自己表出は 構成の波を変化させ統合している
*文学作品の価値は 自己表現と指示表現が交わる相乗空間が、時間の流れに沿って変化し 統合することにより決まる
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「言語にとって美とは何かⅡ改訂新版」吉本隆明著、角川文庫、1982.02.28
358p ¥460 C0195 (2022.09.28読了)(2013.12.18購入)
この本の紹介文によると「日本文学の表現としての通史」ということです。
物語については、『竹取物語』『伊勢物語』『土佐日記』『源氏物語』などが、紹介されています。
・詩と物語(74頁)
詩は共通感をもとにして、わたしたちにちかづくが、物語は同伴感をもってわたしたちにちかづく。
【誤植】
241頁2行目
ヘーヴル『美学』の⇒ヘーゲル『美学』の
【目次】
第Ⅴ章 構成論
第Ⅰ部 詩
第Ⅱ部 物語
第Ⅲ部 劇
第Ⅰ篇 成立論
第Ⅱ篇 展開論
第Ⅵ章 内容と形式
第Ⅶ章 立場
第Ⅰ部 言語的展開(Ⅰ)
第Ⅱ部 言語的展開(Ⅱ)
あとがき
角川文庫のためのあとがき
解題「次走者への伝言」 川上春雄
解説「建築への意志」 柄谷行人
索引
☆関連書籍(既読)
「共同幻想論」吉本隆明著、河出書房、1968.12.05
「最後の親鸞」吉本隆明著、春秋社、1976.10.31
「ダーウィンを超えて」今西錦司・吉本隆明著、朝日出版社、1978.12.10
「悪人正機-Only is not lonely-」吉本隆明・糸井重里著、朝日出版社、2001.06.05
「少年」吉本隆明著、徳間文庫、2001.07.15
「定本 言語にとって美とはなにかⅠ」吉本隆明著、角川ソフィア文庫、2001.09.25
「フランシス子へ」吉本隆明著、講談社文庫、2016.03.15
「吉本隆明『共同幻想論』」先崎彰容著、NHK出版、2020.07.01
(「BOOK」データベースより)
『定本 言語にとって美とはなにか1』につづき、第5章構成論、第6章内容と形式、第7章立場の各章で、言語、文学、芸術とはなにかを考察する。引用する作品は古代歌謡から折口信夫、ヘーゲル、サルトルにまで及ぶ。日本文学の表現としての通史であり、戯作の成り立ちについて能・狂言を通じて丁寧に展開した画期的論考でもある。 -
ー わたしたちが立場というとき、それは世界をかえようという意志からはじまって世界についてさまざまな概念をかえようとするまでの総体をふくんでいる。文学(芸術) についてのさまざまな概念をかえるためにも、立場はなければならないし、またどうしてもあることになってしまう。文学(芸術)についての理論は、すべて無意味なスコラ的なものにすぎないという見解は、たんに創造家の側だけからばかりではなく、理論じしんのがわからもたえずいわれている。その理由は、文学の理論がほんとうは個体の理論であるにすぎないのに、普遍的であり共同的であるかのように振舞い、また、たんに主観であり政策であるにすぎないのに立場であるか のように振舞ってきたからだ。そのようなところでは、理論はたえず不安感にさらされて、創造そのものに近づきえないのではないかという危倶を、こころのなかで自問自答しながら展開されてきたのだ。
しかし、すくなくとも、わたしたちはここではそんな危倶をかんじなかった。理論は創造をはなれることによって立場と化し、はなれることによって創造そのものに近づくという逆立ちした契機をものにしようとしていた。それがどの程度に実現されているかはじぶんでいうべきではないとしても、だ。 ー
頑張って最後まで読んだけど、結局、言語にとって“美”って何なんだろう?
言語の分析論は分かりやすかったし、言語の価値論や文学の価値論はなんとなく分かったような気がするけど、最初の問いの答えがよく分からない。
まっ、言語にとって“美”が何であれ、読書が私にとって何らかの価値を内面から見出させてくれる限りは、それはかけがえのないものだから良しとしよう。 -
後半部分は、「共同幻想論」につながっていくようなモチーフがみられる。
おそらく、
個人には、架空の言語空間への接続があると考えられているが、
それは具体的な形象を持った空間ではない。
そこから個々の内観を通して、共通性への架橋がなされるのである。
その個々が持っている空間を、「共同幻想論」では
対幻想や共同幻想などと言い表しているのだろう。
本作でそれは、
言語と像を、自己表出と指示表出から描こうとした
ところに顕現している。
それにしても、いくつか登場する図解がわかりにくかったりする。 -
1に続いて、前半は各論。詩や物語や劇などが(それこそ宗教の儀式の前の発生の所から)どういった構造で生まれて、発展してきたかを確実に説明してくれる。
自分がこういう本を読まないせいもあるかも知れないけれど、言語や芸術についてここまでとてもとても考えられない、極みまで明らかにしてしまっているので全く鵜呑みにしそうで怖い。と言うかしている。
共同幻想論でもそうだけれど、最初から最後まで、基本的には同じ事を言っている(ある一つの考えに達した人が書いているのだから当たり前だけれど)意味、価値、内容、形式、表現のあらゆる事は自己表出と指示表出、その構成や広がりである事を示してしまうと、ヘーゲルもサルトルも、他のあらゆる評論もその中の端で水掛け論をしていた様に見える。と言うかそう言っている。
如何に言葉を無自覚に使っているか思い知ったし、言葉とは何かと言う何の足がかりも無い様な事を、こんなに自在に動いて目の覚める様な精確さで捉える人がいるのだなぁと、感動した。
影響を受けすぎるので、早く違う本を読みたい。二冊を通して掴んだ言語観で、周りの言葉全てが一枚奥まで透かして見える様。 -
一夏かけて一巻、二巻と読了。
実に難解。
自己表出、指示表出という概念を用いて、源氏物語のような古典からサルトルのような現代までの文章について書かれている。
正直なところ半分も理解できてない気がする。
特に二巻は劇についてや、ヘーゲルの美学など、自分がこれまでほとんど触れたことのないところが多く、さっぱり分からないところの方が多かった。
一巻については、ある程度昔の小説を呼んでいる分、なるほど、と思うところもあったが、やはり難解。
しかし、読んで損は無かったと確信できる。
今、理解できずとも、この本を読んでおけば、これから先の読書というものがさらに深みを増すんじゃないかと思う。
自分の書くものがよりよくなるかどうかは分からないが、『知の巨人』の文章学校に体験入学できた、そんな気がする。 -
第Ⅴ章 構成論
第Ⅰ部 詩
第Ⅱ部 物語
第Ⅲ部 劇
第Ⅰ篇 成立論
第Ⅱ篇 展開論
第Ⅵ章 内容と形式
第Ⅶ章 立場
第Ⅰ部 言語的展開(Ⅰ)
第Ⅱ部 言語的展開(Ⅱ)
解題 川上春雄
文庫版あとがき
文庫版解説 関係論として読む 芹沢俊介
索引
(目次より) -
仮にも文章書きなら読むべきかと思って買ったけど、3ページくらいしか読んでない。