遥かなノートルダム (角川文庫)

  • 角川グループパブリッシング (1983年11月17日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (256ページ) / ISBN・EAN: 9784041535011

感想・レビュー・書評

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  • ブクログには、森有正氏の『遠ざかるノートル・ダム』が登録されていません。そこで、ご迷惑をかけますが、森有正氏の『遙かなノートル・ダム』の場をお借りして、森有正氏の『遠ざかるノートル・ダム』の感想を書かせていただきたい。
    後日『遙かなノートル・ダム』の感想も書くつもりです。

    ~~~~~~~~~~

    【森有正『遠ざかるノートル・ダム』の感想】

    『セーヌの辺で』と同様、森有正氏の最晩年のエッセー集のようである。森氏が亡くなって1カ月が過ぎた頃に、お弟子さん(?)の辻邦生氏が解説を書いている。似たようなタイトルの『遥かなノートル・ダム』と比べると、ほとんど話題に上らない本である。
    特に、「知識人とは何か」(インタヴュー)を大へん興味深く読んだ。思わず絶句させられる。森氏の言葉「「知的」な面で、日本人ほど怠け者はいないということですよ」が、脳天気な私の頭にグサリと刺さる。森氏の発言の当否はともかく、こういう話はいかにも昭和時代を思わせる。平成・令和の日本ではなかなかお目にかかれないと思う。それでは、さっそく「知識人とは何か」から森氏の発言の概要を紹介したい。

    <――知識人が、民衆と連帯することが本当にできないのかどうかという点を伺いたい。
    森: 私は民衆と連帯できないと思う。民衆とは、それ自体の運動法則で動いている集団だから。私たちも民衆の一部ではあるが、私たちは民衆の中で発言したりしなくはないが、今、民衆とトンタクトを取ってやるといっても、大変難しい。(略)
    だから、民衆とはいっさい関係のない場所で発言する以外にない。そのような形で民衆の目に入って、問題解決のための、ある端緒を分からせる以外には方法はない。民衆と相談をして始めようとすれば、永久に相談がまとまらないし、始めることができないだろう。
    フランス大革命は民衆がやった、などと言っているが、民衆など何も関係はない。あの当時のブルジョワ不平分子が集まって勝手にやってしまったわけであり、根本的にはロシア革命だってそうだと思う。
    これは大変に難しい問題であるが、私は、民衆というものは本来存在しないと思う。つまり、これが民衆だと言って、指し示すものがなにもない、つまり存在しないと同じことだ。

    昨日、ラジオでジャック・ラカンが連続講義をしていて、質問者が、「両性(男女)の問題はどう思うか?」というバカげたことを聞いた。ラカンは、「第一、女は存在しない」、「女が存在しないのだから問題は起こらない」と答えた。意外な答えに質問者は困って、「しかし、現実にいるではないか」と言うと、ラカンは「いてもそれは、あちこち歩いているように見えているだけで、実際には存在しない」と言う。
    これは非常に大切なことで、全く同じことが、民衆に対しても言えると思う。ラカンは「男は確かにいる」と言う。「女」は男に追いかけられているうちに、男によってどうにでも変るものだ。女が女としての存在(意思)に基づいて明確な行動ができないのだ。だから、つまり女は存在しないのだ。恋人とか母親としては存在するかもしれないが、それは決して女としてではない。

    民衆も全く同じだ。その意味で「民衆のため」というのは、完全な逃げ口上でしかない。「民衆を代表して」とか、「民衆との連帯」というのも同じだ。屁理屈であって、民衆に聞いてみれば、「そんなものは、私は知らん」と言うだろう。歴史的に見てもわかる。戦後ドイツの民衆は民主主義という言葉をみんな口にするが、その同じ民衆が、ヒットラーを支持していたわけだ。
    ドイツばかりではなく、日本でも戦争中は大部分が東条を支持していたのだから。東条の大東亜共栄圏構想に皆感心して、若い人たちは、特攻機にまで乗っていったわけだ。中には『きけ わだつみの声』の若者のような人もいたが、それはごく少数だったのだから。>

    <――民衆はついに、知識人の意識の中にも存在する余地はないのだろうか?
    森: もし仮に、数人の知識人がいるとすれば、その数人の知識人こそ、本当の民衆なのだ。数人の知識人が、民衆のことを考えて、民衆のために発言することが、「民衆」なのであって、その辺を歩いているおじさんやおばさんに民衆を見ることはできない。民衆としての存在性を持っていない。ただ数人の本当の「民衆」がいるために、たくさんの人が、民衆としての姿を現わしてくるだけの話であって、しかし最後には、数人の人が、民衆と思っているものに突然、裏切られてしまうわけだから。存在としての「民衆」という意識は、わずか数人の心ある人が持っているのであって、デモクラシーというものはこの世の世界にあり得ないことだ。デモクラシーを構成している大多数が実は存在しないのだから。>

    <――この話の前に、「私は知識人などは信用しない」とおっしゃったが。
    森: 日本人というのは、おおよそ知識人になるために一番根本的な傾向がちがう人種・タイプに属していると考えられるから。知識人を出すような民族ではないのだ。根本的な点というのは「知的」な面で、日本人ほど怠け者はいないということだ。知的怠け者は知識人になれない。肉体的には確かに日本人は怠け者ではないけど。「考える」ことをやらない。考えない人間が知識人になることはできない。そのような人が「私は知識人だ」と言っても、とても信用できない。知識人の偽物ですらありえない。ジャーナリズムは、その必要から偽の「知識人」を作りあげたのだろうし、また、それが出てくれば、有難がって読む人がいるからであって、読者が欲しがっているから、ジャーナリズムが知識人を用立てるだけの話だ。始めからいないものはいないのだ。>

    以上

    ~~~~~~~~~~

  • 森有正の名作。

  • 高校の頃、初めて読んでいまだにときどき読み返す。

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著者プロフィール

1911年東京に生れる。1938年東京大学仏文科卒業、卒業論文はパスカル。その後同大助教授をへて、1950年8月、戦後初のフランス政府給費留学生として渡仏。この時以降、一時的な帰国をのぞき、日本に戻ることはなかった。パリでは国立東洋語学校およぴソルポンヌで日本語、日本文学を講じ、1972年からはパリ大学都市日本館の館長をつとめた。『バピロンの流れのほとりにて』をはじめとする一連の著作は、経験と思索を独自の言語表現にまで高めたものである。1976年10月18日、パリで逝去。著書は『森有正全集』(全14巻・別巻1、筑摩書房、1978-82)にほぼ収められている。訳書にはデカルト『真理の探究』、バスカル『幾何学的精神』(ともに創元社、1947)、アラン『わが思索のあと』(思索社、1949)ほかがある。

「2019年 『定義集 新装版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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