- Amazon.co.jp ・本 (250ページ)
- / ISBN・EAN: 9784041835067
作品紹介・あらすじ
カトリック神父のもとで育ったイラストレーター・理津子の前に、本能のままに生きる男・大西が現れた。精神と肉体の変化、個人と社会の関わりを残酷なまでに孤独な女性を通して描ききった力作長編。
感想・レビュー・書評
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彼女の食べるものが美味しそうで美味しそうで。
凄く共感すると言うわけでは無いけど、なんだか切ない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
『ドールハウス』に続く3部作の2作目。前作のヒロインもそうだったけど、今作のヒロインも歪んでます。とにかく痛々しい……ふわふわとして幸せな気分に浸れる恋愛小説を求めている人には向かない。
『私は男に飢えていた』という冒頭の文章が強烈。
そして最後も、男が欲しいと何度も繰り返している。
最後に自分の歪みみたいなものを自覚したところが、小さな救いなのだろうか? -
難儀だなぁ。スイーツ脳の女子にぜひ読んでいただき、まとはずれな感想聞いてみたい。とか、意地悪く思うほどに難儀なんですよ、この主人公。ドライバーは、柄のほうとわかっていても痛いっす。パスタおいしそう。本能、ね。
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「女である」ことを自分以外の誰かに明言されたい、その為に異性に抱かれたいと願う女性の話。
そしてそのような思想を、作者自らが後書きの解説でばっさりと斬っている。
恋愛や本能から離れた思想の部分で異性を利用しようとする者は、異性から欲情もされず抱かれもしないと。
主人公のように極端な環境で育たなくても、「自分が女である」という健全なイメージを持つことは現代社会ではなかなか難しいことなのかもしれない。
性に関する保守的な抑圧と(名ばかりの)男女平等の狭間にいるのが、私達という世代なのだろう。
本著を読んで「女とは何か」を考えた時、今のトレンドである「ゆるふわ」や「スイーツ」は作られた偽物の女性性なのだと強く感じた。
「女の子」や「女子」だと自らを偽らず、自覚的に「女」となりそれを楽しむこと、それが次世代の女性像なのかもしれない。 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/737195 -
理津子は33歳のイラストレーター。職業柄あまり人と話す機会がなく、加えて幼少から培った規律正しい厳格な性格も人を遠ざけていた。偶然知り合った大西という男とも一緒に食事をするのみ。大西と会い続ける理津子。だが彼女はいまだ男に飢えていた――
「私は男に飢えていた」という書き出しから恋愛依存症女を想像するかもしれないが、違う。一度も恋愛の味を知らないからこそ、枯渇しているからこそ、欲するのだ。
一応「処女三部作」の2作目ではあるが、それぞれ別の人物なので単体でも読める。
大西は前作の江木と比べて、ぶっきらぼうだが優しい男に思える。が、なぜか関係はジリジリと進まず、ラスト近く「鉄の身体になんてなりたくなかった」と泣く理津子を押さえつけたので、とうとう彼女の願いが叶うのかと思わせて、あの言葉……残酷だ。最後の数行も痛々しい。
姫野先生の作品はある種のコンプレックスを抱えた人には非常に刺さるのだけど、それを感じてこなかった人あるいは克服してしまった人には、ただひたすらなぜこんなに拗らせてるのかと思うだけなのだろう。 -
姫野カオルコ。凄まじい作家だ。
主人公のような人物を、現実には「こじらせた」人と言うのだろう。しかし、小説の中では、その凄まじさはたとえようがない。
これでもか、これでもかとつらいエピソードが続く。
性の貧困は、自分観の貧困、人間関係の貧困も招くからだ。
その中でも後の救いとなる、大西と食べるシーンは量感的で圧倒される。
あとがきを読んで、初めて主人公が救われたことに気付く。身体を取り戻したのだ、と。大西のおかげで。 -
読んでいて苦しくて疲れる。読者を勃たせない。笑
ありのままでいることを許されない幼少時期が内なる健やかさ、自尊心、女性性をねじまげ、上手に解消できないとやっかいなモノを抱えて生きることになる。よく分かる。 -
卑下しすぎて痛々しいなぁ…
きっと本当はキレイな人なんだろうに、と想像しながら読みました。
謙遜の域を超えた、本気の卑下は苦手。
どうせ私なんて…って、思うのは自由だけど聞かされるのは辛いです。
著者プロフィール
姫野カオルコの作品





