大学でミステリに目覚めた私が各種ガイドブックを読み漁って、手当たり次第にその道の作家の作品に手を出していたのは既に別の感想でも述べたが、その中の1人に竹本健治氏がいた。
この作家の代表作として必ず挙がるのが『匣の中の失楽』。しかし現在双葉文庫で出ているこの作品は当時絶版であった。数年後どこかの書店でノベルス版を見かけたが、文庫本で購入することを原則としているので文庫落ちをじっと待っているような感じだった。
とにかくいわゆる新本格ミステリ作家の方々が影響を受けた作品としても『匣の中の~』の名はたびたび挙がっていたので、この竹本健治という作家の作品とはいかなるものかと各社の文庫目録を調べてみたところ、ほとんど作品がなく、唯一角川文庫だけがこの作品を文庫で出版していた。昨年2016年は『このミス』で1位を獲得するなど、最近になって精力的に活動されており、現在は竹本氏の文庫は各出版社から出ているため、容易に購入できるが、90年代当時は実に稀少だったのだ。
本書の舞台は元産婦人科医院を改装した「樹影荘」というアパートを舞台にした作品である。そこに住む男女はどこか歪んでおり、屈折した性格を持っている。
そんな彼らに起こる奇怪な出来事。虫が這いずり回り、天井から血がしたたり、生首を思わせるマネキンの首が玄関に放り込まれる。便所には「死」の文字が殴り書きされ、廊下一面に血が流される。そんな怪異に住人たちも疑心暗鬼に捉われ、お互いを疑い出す。やがて住民の1人が首吊自殺を遂げる。それがカタストロフィの始まりだった。
この作品を読むまで私はホラー小説を読んだことがなかった。文字で人を怖がらせるなんて到底できるものではないと高を括っていたのだが、それが間違いだと気づかされたのがこの作品。
とにかく怖い。
書かれている内容もそうだが、並んでいる文字の字面が怖い。あとがきによればとにかく怖い文章を書こうと使う単語を吟味し、漢字からひらがなの表記、つまり文字が与える印象までを徹底的に考え抜いたのだそうだ。その成果は竹本氏の期待以上に出ている。常に湿り気を纏ったようなじとじとしたような印象と指に血が付いてこすり合わせた時に感じる、あの粘着感。特に最初の産婦人科時代に行われた中絶場面など、いきなりこれかよ!と気持ち悪さに身悶えしたものだ。
昭和の安アパートを思わせる「樹影荘」も舞台効果が抜群だ。六畳一間の日焼けした畳敷きの部屋に天井から1本ぶら下がる裸電球。部屋の隅には照明が届かず、影が常に下りている。そんな風景が終始頭に浮かんでいた。
そして最も驚いたのはこれがミステリだということだ。怪奇現象としか思えないこれらの現象が犯人の意図によってなされた物としてきちんと処理される。これにはビックリした。文庫裏表紙の紹介にもミステリなどとは書かれていなかったため、その驚きはなおさらだった。
前情報がないほどやはり読書は面白くなると思った好例だ。この作品の世評はそれほど高くないが、私にとってはこの驚きが未だに残っているので個人的には良作である。
この作品との出逢いがなければ私は竹本氏の作品を追う事はなかっただろう。数ある作品の中で当時本書のみを文庫として残していた角川書店に感謝したい。