パイナップルの彼方 (角川文庫)

著者 :
  • KADOKAWA/角川書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (287ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784041970010

作品紹介・あらすじ

都会の片隅でひとり暮らしをし、父親のコネで入った信用金庫で居心地のいい生活を送っている平凡なOL・鈴木深文。上司や同僚ともそれなりにうまくやっていたが、ひとりの新人の女の子が配属された時から、深文の周りの凪いでいた空気がゆっくりと波をたて始めた-。現実から逃げだしたいと思いながらも、逃げだすことをしない深文の想いは、短大時代の友人月子のいるハワイへと飛ぶ…。あなたの周りにもあるような日常を、絶妙な人物造形で繊細に描く、驚くほど新鮮なPL物語。

感想・レビュー・書評

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  • 『もう、いやなの。会社も結婚も親も、なんにもないところに私行く』

    『逃げることができれば、どんなに楽だろう』と思う時があります。それは一度や二度じゃない。年齢が高くなればなるほどに、そんな思いをすることが多くなってきたようにも思います。辻村深月さんの「スロウハイツの神様」という作品の中で漫画家のチヨダ・コーキが語るこんな言葉が登場します。『いいことも悪いことも、ずっとは続かないんです。いつか、終わりが来て、それが来ない場合には、きっと形が変容していく』。私が、いつも大切に思っている言葉であり、これは世の摂理でもあります。誰にもいいことと悪いことが訪れる、それが人生です。しかし、悪い状態に陥っている時にはそんな言葉が信じられなくもなります。そんな悪い状態がいつまでも続くのではないか、そんな風に悪い感情に支配される時もあります。そんな時には『天国へ逃げたい』と思う気持ちに包まれる時もあるでしょう。人は『逃げる』という言葉にマイナスのイメージを抱き、『立ち向かっていく』という言葉にプラスのイメージを抱きます。しかし、それはあくまでイメージです。そのいずれを選択することが必ずしも間違っていると言えるものでもありません。同じような場面であっても、人によってその選択肢は変化するでしょうし、それが生きるということだとも思います。

    この作品は、『こんな幸せな現実から、どうして月子は逃げようとするのだろう』と思っていた一人の女性が『逃げることができれば、どんなに楽だろう』という現実に直面した先に選ぶ選択肢を見る物語。『いいことも悪いことも、ずっとは続かないんです』という言葉の意味を読者も噛み締めることになる物語です。

    『きょう日の花嫁はロールスロイスで嫁いでいくらしい』と『ピンク色のオープンカーに、新郎新婦がニッコリ笑って乗って』現れた光景に『ゴンドラじゃなきゃいいと思ってんのか、なつ美は』と呟く主人公の鈴木深文(すずき みふみ)。『やめなさいよ、深文。ご両親に聞こえるわよ』といなすのは友人の三浦月子。花嫁の なつ美を含めた三人は『短大の時からの友人』。『学校を出てそれぞれ就職をし、そして三年目の夏、突然なつ美が結婚することになった』という二十三歳の今。『まだまだ人生の決断を下すには早過ぎる』と考える深文は『狙いをつけて対策を練り、周到に用意した罠に獲物を追い込むように結婚をした』と来年母にもなる なつ美のことを考えます。『すっごくかっこよくて、慶応出てて、世田谷に大っきい家があるんだって。でね、次男なの…ぜったい、あの人にする』と なつ美が『大きな獲物を捕ってきた』と思う深文。『友達の幸福そうな顔は、無条件で私も幸せにした。だけど、共感はしなかった』という深文は『自由に使える時間とお金を放棄してまで、なつ美が獲得しようとしているものが』まるで分からないと思います。そんな時『新婚旅行はハワイだって』という月子に『新婚旅行にハワイじゃ、あんまり工夫がなさすぎない?ウケ狙ってるのかな』と返す深文。『ウケなんか狙ってどうすんのよ。ハワイって、いい所らしいわよ。私もハワイに行くの』と予想外のことを言い出した月子。『留学するの。九月からだから、八月の頭には、私、日本を出る』とキッパリ言い切る月子。『一応、二年ぐらいって思ってるんだけど。英語学校なの』という月子は『知ってる人が行ったことのある所の方が安全でしょ』と続けます。思わず『逃げるなら、もう少し思いきった所へ行ったら?』と言った深文に『逃げるんじゃないわ…勉強しに行くのよ…勉強して帰って来たら、もっと条件のいい会社に…』と言う月子に『分かったよ、ごめん。言い過ぎた』と謝る深文。しかし、内心では『これ以上聞いていると、本気で腹がたちそうだ』、『月子は逃げるのだ。会社と男だ』と思い『いつも月子の結論は現状から逃げること』と考えます。家へと帰り寝っ転がって白い天井を見る深文。『私には、もう不満なんてない。会社に行ってお給料をもらい、家賃を払って住んでいる。誰にも保護されていない。誰にも迷惑をかけていない。誰も私に、ああしろこうしろとは言わない』、だから『二十四時間は、まるごと私のもの』とニッコリ笑います。そんな深文の勤め先は『通勤時間二十分』という信用金庫。配属が決まってすぐに『サユリの下じゃ大変よ、気の毒だけど頑張ってね』と他課の人から同情されるも思った以上に優しい先輩のサユリにホッとする深文。そんな中、入社三年目にして初めての後輩ができます。『これから先何年かは、この子と毎日顔をあわせなくてはならないのかと思うと、かなり憂鬱なものがあった』というそんな後輩・日比野弓子の存在。しかし、見かけ上大きな事件も起こらず、ただただ流れていた深文の日常が、『もう、いやなの。会社も結婚も親も、なんにもないところに私行く』と大きく変化していくことになる物語が描かれていきます。

    「パイナップルの彼方」という少し不思議な書名のこの作品。主人公・深文の友人である なつ美の新婚旅行先であり、もう一人の友人である月子が唐突に『留学するの』と言い出したその行き先、それがハワイでした。1901年、”パイナップル王”とも言われるドールによってハワイのオアフ島で開始されたパイナップル栽培。現在はオアフ島中央にあるドール農園で観光用に栽培される程度ですが、ハワイと聞いてパイナップルを思い浮かべる方は今もって多いと思います。しかし、そんなパイナップルは日本人にとっては未だ”南国”を強く意識させる果物であることには変わりはないと思います。そんな”南国”という言葉には同時に何かしら心ワクワクさせられるような幸せな響きも感じます。そんな感覚もあって、この「パイナップルの彼方」という書名の作品を読むにあたっては、そこに幸せな物語を期待するのは決して間違ってはいないと思います。しかし、この作品で描かれるのは全編に渡って燻り続ける主人公・深文が、友人の『逃げ』の行動を否定しつつも、一方で『逃げることができれば、どんなに楽だろう』と相反する感情に苛まれる物語でした。

    この作品では主人公・深文を中心に、彼女の私生活では友人の月子と なつ美。そして、職場においては先輩サユリと、後輩の日比野というそれぞれ二人ずつの女性が、深文の人生に関わりを持ち影響を与えあっていきます。そんな深文自身は『私は無口で陰気な子供だった』、『そんな性格だから、ろくに友達も出来なかった』という高校時代までを過ごした後『同じ嗜好の人間が、こんなに世の中にはいたんだと』感心し、『猿の惑星から同胞の住む星へ帰って来たような感じがした』という短大時代を送ります。この短大時代に知り合ったのが月子と なつ美。幸せな時代に作った友人は当然にかけがえのない宝物です。しかし、深文は『留学するの』という月子を『こんな幸せな現実から、どうして』逃げようとするのだろう、と思い、早々に結婚した なつ美を『こんな自由な毎日を、どうして』手放してしまうのだろう、と彼女たちの行為が理解できません。そんな彼女達への深文の思いを第三者的に見る読者は、そのあまりの”余計なお世話”的思考にイライラさせられるほどです。そんな『逃げ』の象徴として描かれる友人二人に対して、『立ち向かっていく』相手として描かれるのが職場の二人。そんな両者を見て『私は逃げないし、逃げられもしないだろう。いずれは誰かと結婚し交尾して生命を生み出すのだ』と現実も直視する深文。『夢のような二年間』の象徴でもある友人二人の行動に不満を覚えつつも、彼女達と同じように行動すべきか逡巡する深文。『つらい現状から次々と逃げ出していく彼女を、私は少し羨ましく感じた。尊敬はできないまでも、それもひとつの積極的な方法かもしれない』と考える深文。そして『私には、もう不満なんてない』と言い切っていた深文の人生が突如として揺らぎ始めます。それは、深文の身の錆として始まったものでもあり、読者としても決して彼女を擁護したい気持ちは起こらないと思います。そんな中、なつ美から届いたパイナップルによって、パイナップル=ハワイ=逃げる先、という図式が浮かび上がってきます。

    『ハワイという所は、私にとってちょっと特別な場所』と語る山本文緒さんは、その場所へ『遊びに行くのではなく、新婚旅行で行きたいのでもなく、そこへ私は”逃げよう”と思っていた』と続けます。『そこに行きさえすれば、きっと救われるのではないかと根拠もなく思い込んだ』という山本さんが語るハワイ。私も幾度かハワイに行ったことがあります。国内外を含めてリピートする旅行先はそこだけという私にとってのハワイ。そんなハワイの魅力に取り憑かれている方は多くいらっしゃると思います。海外旅行に行けなくなってしまった現在、そんな幸せの象徴のような場所へと思いを募らせている方も多いのではないでしょうか?社会の中で日常を生きていくというのは、学生時代に考えていた以上に大変です。年齢が高くなっても、組織の中で経験年数が増えても、そして幾ら人間関係を学んでもストレスというものは決してなくなりません。『社会の中でうまく人々の間を渡っていくためには、誰でもが何かしらの鎧を着て、身を守っている』という鎧を下ろしたくなるのは山本さんだけでなく、誰でも同じことだと思います。そして、そんな場所へと”逃げる”ことは決して否定されるものでもないはずです。

    ハワイには”天国”と冠される場所が幾つかあります。そんな場所を訪れるた時の心持ちは、まさしくこれぞ”天国”と感じるものがあります。しかし一方で、そんな”天国”に住むということはないと、冷静に思う自分がいつもそこにいます。”天国”に何を求めるのか?、”天国”をどういう場所に位置づけるのか?、そして”天国”に”逃げ”て何をしたいと思うのか?、それは人によって様々だと思います。『生きてる人間が、天国に住むのはつらいよ。あそこは本当になんにもないんだから』という”天国”を見やる感情の先にあるもの。恐らくこのレビューを読んでくださっている多くの方も、一度は”逃げたい”という感情を抱かれたことがあると思います。『逃げたい私と、逃げない私が、一枚の壁を両方からぐいぐいと押している』という深文が陥った八方塞がりの現実。もちろん中には”逃げよう”という感覚の先に行ってしまう方もいらっしゃると思います。しかし、他の圧倒的大半の方は、そこに留まる選択をされ、南国のパイナップル畑を歩く自分を妄想しながらも辛い現実をなんとか生きられているのではないでしょうか?安易なハッピーエンドではなく、いっ時の光を見るその結末に、それでも生きていく他ない私たち人間のある意味での現実を感じる物語。だからこそ「パイナップルの彼方」が”天国”のようにも感じられる、それが生きるということなのかなとも思いました。

    『私は南の島の青い空を思った。どこまでも続くパイナップル畑を思った。かつて、逃亡しようかと考えた夢の国は、どんな所だろう』というハワイ。幸せの象徴のように語られるその地に人の安らぎの感情を見ることは、誰にも止められません。そんな地へと実際に赴くことは誰にだって自由です。しかし、そんな場所に何を求めるか次第で、そんな幸せの地に見えるものは違ってくるようにも思います。

    25年以上も前に刊行されたこの作品。電話の表現などに時代を感じつつも、人の感情の中に見え隠れする憧憬、嫉妬、そして愛憎が現代社会と何ら変わりがないことに驚くこの作品。「パイナップルの彼方」に見えるその景色を思い、『逃げることができれば、どんなに楽だろう。親も会社も恋人も捨て、アッカンベーをひとつ残し、どこかへ行ってしまえたら、どんなにいいだろう』と思う深文が選んだその結末に、いつの世も変わることのない人の生き様を見た、そんな作品でした。

  • ポップなストーリー展開。主人公の投げやりさや多くの登場人物の突き抜け感がおもしろい。

  • オフィスで主に使われる機械は「ワープロ」、ケータイもインターネットも普及していなかった時代の物語ですが、まったく古臭く感じませんでした。
    独身OLの悩みも子育て中の主婦の悩みも、時代が変わっても根っこの部分は変わらないのですね。

  • 面白いなぁ、山本文緒。
    どこにでもいる普通のOLのありがちな日常なのに、続きが気になってどんどん読んでしまう。
    主人公の性格もいい人でもなく嫌な人でもなく、自分本位だけど葛藤もあって、生の人間の繊細な感情を、嫌味なくさらさらっと描けてしまう。
    こんなに読みやすいのに、決して薄っぺらくない多面的な人物描写が魅力的。

    古い小説かもしれないけれど、奇抜なストーリーや、複雑な設定で魅せる小説とは全く違う。
    素朴なはずの登場人物や、舞台設定なのに不思議と引き込まれてしまう。

    普通すぎるストーリーでありながら先が全く読めず、登場人物たちの織りなすいざこざも興味深い。
    地雷男だけど引かれてしまう感覚や、そんな男に惹かれていることを認めたくないプライドへの共感も…。

  • 読みながら「恋愛中毒」を思い出した。
    主人公が魅力的でなく、ひとからもさほど好かれておらず、半ば自暴自棄なところもあって、悪いことにも手を染めてしまうところ。話し方も乱暴だし。
    でも、そういう部分の方が、本当は現実的なのかもしれない。

    個人的には「恋愛中毒」の方がかなり好きですが、このように女性を描く山本文緒さんの、もう新しい作品を読めないということが残念でならない。

  • うん、なんか甘ったるくなり過ぎちゃうちょっと手前で留まっててそれなりにわかる気がする。

  • 深文はハワイには行かなかった。けど、結果的に会社は辞めた。逃げたのか逃げなかったのか…
    二択に揺れる心に共感しました。
    自宅電話だったり、円形ハゲに驚く姿に、昔の小説だったと気づく。今読んでも違和感ない。
    大きな出来事はないのに、いつの間にか勢いに乗せられてる。流れるように読めました。

  • 23歳のOLの日常のようなドラマ。会社でのいざこざ、彼氏とのあれこれ、ちょっとした浮気、小さな不正。誰にでもあるような、だけど退屈しない話。
    あるあるが組み合わさって、壮絶な展開へと進む。

  • 16年も前に書かれてるのに全然古くささを感じさせないって凄い。出てこないのなんて携帯電話ぐらいじゃないかな。しかも共感できる事が多い。ほんの日常を描いた作品なんだけどそこにきちんとドラマがあって惹き付ける何かがある。

  • あー・・何か分かるなー・・ってのと、自分に重ね合わせて、あたしはあの時何を考えてたんだろーとかそんなことを思い出そうとして思いだせなかったり。

    サクサク読めるわりに、投げかけてくることが多い作品。

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著者プロフィール

1987年に『プレミアム・プールの日々』で少女小説家としてデビュー。1992年「パイナップルの彼方」を皮切りに一般の小説へと方向性をシフト。1999年『恋愛中毒』で第20回吉川英治文学新人賞受賞。2001年『プラナリア』で第24回直木賞を受賞。

「2023年 『私たちの金曜日』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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