- Amazon.co.jp ・本 (160ページ)
- / ISBN・EAN: 9784042106197
作品紹介・あらすじ
伯爵家の女主人オリヴィアを熱愛するオーシーノ公爵。だが兄を亡くした哀しみに暮れるオリヴィアはけんもほろろ。その頃難破船から救われ、女であることを隠して公爵に仕え始めたヴァイオラは、優しい公爵に恋心を抱く。さらに、そんなことはつゆ知らぬ公爵が恋の使者として遣わしたヴァイオラに、なんとオリヴィアが一目惚れ…!?もつれにもつれた恋の糸。ロマンスと笑いと風刺が絡みあう、シェイクスピア喜劇の頂点。
感想・レビュー・書評
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嵐に遭遇し離ればなれになった双子の兄妹セバスチャンとヴァイオラ、妹のヴァイオラは男装し、シザーリオとしてオーシーノー公爵に仕える。シザーリオはオーシーノーの片想いの伝言役としてオリヴィアに伝えるが、オリヴィアはシザーリオに恋心を抱く。オーシーノーに興味はないが、シザーリオにまた会いたいオリヴィアの言葉が愛らしい。「でもまた来て。だって、あなたのせいで、あるいは、嫌いなあの方の愛が好きになるかもしれないわ。」
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『お気に召すまま』の流れをくむ、誤解が誤解を呼ぶ喜劇。
膠着した人間関係の中に、遠い異国の国から突如として流れ着いた不思議なひと。その正体は虚構で作り上げられた、実在するも実在しない逆説的存在。そんなひとの登場によって、イリリアのふたりに新たな風が巻き起こる。
誤解が誤解を呼び、目まぐるしいまでのことばの渦が沸き起こる。もうこれ以上いったら何もかも壊れて悲劇が訪れる。その瞬間に快刀乱麻、虚構の魔法が解かれてすべて喜びの世界が訪れる。
たった一瞬で悲劇が回避され、喜劇となる。喜劇と悲劇は同じものの裏表で、その思考から生まれるものなのだと知る。まさにwhat you will ということ。
解説というよりかは感想では、この十二夜について、キャスティングの難しい劇だと述べていた。見ての通り、この劇を成り立たせているのは、よく似た双子の兄妹という存在だからだ。実際にシェイクスピアが書き上げた当初、この劇がこの通りに上演されたかはわからない。しかし、おそらく、劇団はキャスティングに悩むことなく、劇は行われたものと思われる。
劇とはそれ自体が虚構である。だから、役者が実際にその役通りの人物かどうかは二の次の話である。たしかに、虚構をより見抜けぬように本物に限り無く似せるということは、観客に夢を与え、それがとけた時の効果は一層強いものとなる。しかし、観客は劇場にわざわざ足を運ぶのである。はじめから、虚構と知って劇を見るのである。したがって、どんなに本物に似せようが、似まいが、役・筋書きが確固たるものとしてあるのなら、関係ないのである。年齢や性別がどうであれ、役が演じられるのであれば、理論上関係ないはずだ。それが、本来の演劇ではないのか。
役がよく似た双子の兄妹ものであり、筋書きがふたりを取り違えるのであれば、実際に少年のような双子でなくても、そうなってしまうのが演劇の力だ。だからこそ、道化のような存在が常に傍らにいて、警鐘を鳴らしている。映像化でこの劇が失敗するのは、ひとえに役者とそれを役として受け入れぬ、観客の問題であると言える。 -
それぞれの人物の勝手な勘違いと誤解が交差する本作は、時には悲しくなる場面もあるが、最終的には笑いへと収束する。事故によって、血のつながりのある者を亡くしたと思い込んだり、ちょっとしたきっかけで興味を持った人が、実は同性であったりと、所々すれ違う場面が挿入されるのが本作の特徴であり、それが一種のユーモアを喚起する。このように、読み進むにつれて、話がこじれてしまい、複雑化するが、最後はハッピーエンドを迎える。
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第11回毎週ビブリオバトル
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ありきたりといえばありきたりな恋愛模様もシェイクスピアに掛かれば登場人物全てが何らかの啓示や教訓を示しているかのような壮大な物語に変貌するというのはやはり凄いと思う。一見するとただ遠まわしでややこしいだけに見える台詞も深く読み取っていけばそこらの教科書よりも深い道徳を教えてくれるような気がする。
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愛されるわけだ。翻訳も読みやすく、それでいて軽すぎず、いい訳だと思う(音楽の部分だけ少し違和感があったけど、リズムを重視した部分もあるだろうし難しいところではあると思う)。いくつか他の作品もこの人の訳で読んでみたい。
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なんと、歌舞伎化しました。
オリヴィアが織笛姫になっていたり、すべてが和風に……!
生の舞台、とても面白かったです。お見事!! -
Dステに備えて読んだため、どうしてもDの子たち変換してしか読めなかったクソでつオタです。
道化師の一人称がオイラなのと、オリヴィアがお嬢様然としているくせにすごい簡単に落ちちゃうところ、あとアンドルーエイギュチークの頭が悪すぎるところが可愛すぎた。クソでつオタです。 -
悲劇のマクベスを読んでから喜劇の十二夜読むとギャップがすごい。これはほんとに喜劇だ。おもしろかった。登場人物たちの軽妙で滑稽で洒脱なやりとり、それからドタバタ劇は、ちょっと三谷幸喜を思い出した。
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シェイクスピア(1564-1616)の、『夏の夜の夢』『じゃじゃ馬ならし』『空騒ぎ』『お気に召すまま』と続いた"喜劇時代"の最後の作品、諸説あるが1599から1601年頃の作とされる。なおこの後、四大悲劇を産み出すことになる"悲劇時代"へと向かっていく。
本作は、主人公女性の異性装とそれによって瓜二つになってしまった双子の兄妹と云う設定によって惹き起こされる勘違い・食い違いがその動力となる、ドタバタ恋愛喜劇。喜劇の登場人物は、躍動的であるに限る。
ヴァイオラ――・・・。/なんて罪作りなの、変装って。/悪魔でも、見かけをごまかして人を騙す。/ハンサムな悪党なら、蠟のように柔らかい女の心に/いともたやすくその姿を刻みつけてしまう!/ああ、仕方ないわ、だって、女は弱き者。/女はそういうふうにできているんだもの。/一体どうなるのかしら。私のご主人様はお嬢様をこよなく愛し、/私は(哀れな化け物!)同じくらいご主人様を愛し、/お嬢様は(間違えて)どうやら私にお熱。/てことは、どうなるの? 私は男だから、/ご主人様から愛してもらえる見込みはない。/私は女だから(ああ、なんてこと!)/お気の毒なオリヴィア様、どんなに溜め息をついても無駄。/・・・。
シェイクスピアの作品は、喜劇であれ悲劇であれ、外見/内面、言葉/内実、則ち内/外の間に予め本質的に横たわっている否応のない無の深淵をモチーフにしたものが多いように思う。その空隙こそが、生の在りようであると云わんばかりに。その"距離"から惹起される悲喜劇こそが人生であり、それは各人が仮面を被って台詞の如く言葉を繰って演じる芝居であると云わんばかりに。
道化――・・・。何という時代だ! 頭のいい人にかかると言葉なんて、くるっとひっくり返されちまう――あっという間に裏返しだ。
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道化――だから妹は名前がなかった方がいいと思ったんですよ。
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道化――だって名前は言葉ですからね。その言葉をもてあそぶやつにいたずらされて、妹は淫らになっちまう。まったく、言葉なんて、証文が必要になって以来、信用なくした悪党だ。
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道化――わけって言われたって、言葉を使わなけりゃ説明できないのに、言葉は信用なくしましたからね、言葉で説明したくありませんよ。
我々は、仮面を脱いだらその下から真実の顔が現れるのだろうか、或いは仮面の下から無際限に「真実の顔」を語る/騙る別の仮面が現れ続けるような存在なのだろうか。
道化――・・・。/昔、この世が始まった。/やれ、ヘイホウ、雨と風。/それがどうした、劇は終わった。/今日も明日もごひいきに。
喜劇の幕は下りても、個々人の人生は、どうしようもなく続いていく。