「A」 マスコミが報道しなかったオウムの素顔 (角川文庫 も 13-1)
- KADOKAWA (2002年1月25日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784043625017
作品紹介・あらすじ
-オウムの中から見ると、外の世界はどう映るのだろう?一九九五年。熱狂的なオウム報道に感じる欠落感の由来を求めて、森達也はオウム真理教のドキュメンタリーを撮り始める。オウムと世間という二つの乖離した社会の狭間であがく広報担当の荒木浩。彼をピンホールとして照射した世界は、かつて見たことのない、生々しい敵意と偏見を剥き出しにしていた-!メディアが流す現実感のない二次情報、正義感の麻痺、蔓延する世論を鋭く批判した問題作!ベルリン映画祭、山形国際ドキュメンタリー映画祭をはじめ、香港、カナダと各国映画祭で絶賛された「A」のすべてを描く。
感想・レビュー・書評
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オウムのドキュメンタリー映画「A」の撮影について、森監督自身が振り返っている本。
オウムサリン事件で、マスコミはろくな取材もせずに、あらかじめ用意されたストーリーに沿って、視聴者が望む形のレポートを量産する。
オウム内部では、外部世界と隔絶し、外のことを考えずに純粋培養的に生活をしている。
この外の世界と中の世界のはざまでもがいている荒木さんを取材することで、オウムの生活から外を見ることで新たな視点を得ようとする。
オウム、マスコミともに自らの主義主張で相手の立場での視点を失っている。その主義、ストーリーに乗れないものは排除される。
森監督の企画も、テレビ局の考える「企画」としてわかりやすく狙いを語る安易な制作に乗れないために、排除され、フリーでの撮影に追い込まれる。
マスコミの客観性とは本来何なのか、矛盾がたくさんある。
ドキュメンタリーとは、だれかが感じ取った事実なので、主観でしかありえない。その覚悟を持ったうえで、最初からストーリーを付けずに、ただオウムを取材する。
その中で「結局何もわからない」ということでしかない。
これだけの解明されていない謎、カオスに満ちた状況に対して、ただただ対峙するという作品を仕上げるということが、なかなかないことなのだなと改めて思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
以前から気になっていたが、なかなか手を伸ばせずにいた。
それが、このタイミングで購入。
品川のくまざわ書店で、森達也関連の本が3冊もあったのだ。
読んでみて、もっと早く読めばよかったと思ったほど。
マスコミの機能不全を指摘したいがためではなく、
日本全体が陥ってしまった「思考停止」という言葉に気がつくために。
オウム真理教は、明らかに私達の社会から生まれたもので、
理解できないかもしれないが、そこで思考停止するのではなく、
そこから問いを立てることが、知性のするべきことなはずである。
それを怠ってきた日本社会の20年近くの欠落はあまりにも大きい。
1995年以前の日本社会とその言論がどのようなものであったか、当時高校生だった僕には知る由もない。
しかし、断言できるが、この年がターニングポイントだったのだ。
飛躍するが、だからこそ村上春樹は、オウムと阪神大震災の2つにこだわっているのだと思う。
(同じく、オウムを描いた作家として、村上を挙げないわけにはいかない)
その村上がバルセロナの文学祭で、原発について「ノーと言い続けるべきだった」と発言したと言う。
間違いなく、彼は原発や津波をテーマに作品を書くはずである
村上春樹だったら、どのような作品を書くのだろうか? -
「完全客観的な事実なんて、ない。事実をうつすだけのドキュメンタリーなんて、存在しない。」というメッセージがひしひしと伝わってきた。ドキュメンタリーやマスコミの世界だけではなくて、すべての事がひとの視点というフィルターを通して屈曲しているのだなぁと、なんだか胸が詰まりそうになった。
でも、途中からは純粋な映画メイキングストーリーとして楽しむ要素もあり、ノンフィクションなのかと錯覚してしまうくらいな部分も。ドラマを見たかのような。
何が正しくて、なにが誤ってるのか、結局それは人次第で、その人のなかで出来上がっている事実が正しいということなのか。深い! -
共同体に所属することの思考停止をきちんと看破できる数少ないジャーナリストの一人。自らの立ち位置と恣意性に自覚的であり、内省的であるところが既存の定型的な型にはまっているマスメディアとの大きな違いだ。自分が正しい立場に立たないところからオウムを見る。加害者として、有責性をもって。
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オウム事件からもう25年程経ちました。震災を別にするとあれほどインパクトの有った事件は無かったと思います。
事件当時にオウム信者そのものを撮ったドキュメンタリー映画「A」。
その作者、森達也さんの書籍版「A」です。
当時二十歳位だったと思うのですが、オウムは異常者の集まりで殺人集団というイメージでした。今でもそう思っていますしね。
センセーショナル極まる事件だったし、放置すれば自分の周囲でも何かされるのではないかという漠然とした不安が漂っていました。今だからこそ冷静でいられますが、その当時近所にオウムの道場があるとか、同じマンションに居るなんて事になったら恐怖だったと思います。
なので当時この本を読んでもピンと来なかったかもしれないなあと思います。25年経って冷静な目で読めるようになってみると、オウム信者でいる事を異常であるという方向へ誘導するような報道に溢れていたような気がします。
当時の感覚でいくと森さん危ない!!てなもんです。近づくと何かされるのではないかという恐怖心です。
今になってもあれは何だったんだろうかと思います。あんなに沢山の人があの宗教に入信しのめり込んだという事実。それは今だって起こりえる事です。歴史を繰り返さない為にはやはり当時の事を読んでおくのは大事な事な気がします。 -
最後のベルリン映画祭でのエピソードに思わず涙してしまいました。
山手線車内にて。
オウムというものを通して森さんが描く日本は、特異な環境なのでしょうか。
少なくとも、この著書を読み終わり感じたことは、そこにいた人々も「普通の」日本人だったのではないかとの思いです。
オウムの教団に属して、地下鉄にサリンを蒔いたとされる人々は死刑に処されるのは時間の問題かもしれません。
決して、日本という社会がその事件が起こった背景に深く掘りこまないままに。
それでよいのか、森達也監督の映画を見て、今一度考えたいと思います。 -
オウム真理教のドキュメンタリー映画『A』の監督、森達也氏が作品上映までの道程を記した本書。ドキュメンタリー畑を歩んできた氏の文章はやはりドキュメンタリー的である。点の集合で絵柄が浮かび上がる点描画のように、遠目に見ると一つの像が現れるモザイクのように、本筋には無関係のような描写を書き込むことで、本筋の輪郭を浮き彫りにする。
オウム真理教にレッテルを貼らず、内部から見た外部を描くことで、オウム真理教の真実を描こうという試みは、ゆっくりと森氏に迷いをもたらす。それは、
①真実は一つではなく無数にある
②信じない者が信じる者に肉薄できない
③ドキュメンタリーに中立はありえない
という三重苦となり、難産の末に『A』を完成させる。『A』は社会の歪みを描いたドキュメンタリーであった。
本書のテーマを一言で言えば「無自覚の自覚」であろう。思考停止を自覚的に選んだ信徒と思考停止に無自覚な多くの人々。思考停止を自覚的に選んだ信徒は自覚的であるだけまだいい。無自覚に思考停止に陥った人は無自覚ゆえに、そして思考停止ゆえにそれに気づくことはない。そこには無自覚をどう自覚するかという難問が横たわっている。 -
オウムの中から見た、外の世界。
1995年の、熱狂的なオウム報道に感じる欠落感の由来を求めて、オウム真理教のドキュメンタリーを撮り始めます。
メディアが流す現実感のない情報や、正義感の麻痺と蔓延する世論を鋭く批判した映画「A」。
映画の撮り始めから、葛藤、そして完成まで。
各国の映画祭で絶賛された「A」の全てが描かれます。
全ては地下鉄サリン以降なのだ。
思いだして欲しい。僕らは事件直後、もっと煩悶していたはずだ。「なぜ宗教組織がこ んな事件を起こしたのか?」という根本的な命題に、的外れではあっても必死に葛藤をしていた時期が確かにあったはずだ。事件から六年が経過した現在、アレフと名前を変えた オウムの側では今も葛藤は続いている。でも断言するが、もうひとつの重要な当事者であるはずの社会の側は、いっさいの煩悶を停止した。
剥きだしの憎悪を燃料に、他者の営みへの想像力を失い、全員が一律の反応を無自覚にくりかえし(半世紀以上前、僕らの父や祖父の世代は、こうしてひとつの方向にのみ思考を収斂させることで、取り返しのつかない過ちを犯してしまったはずではなかったのか?)、「正と邪」や「善と悪」などの二元論ばかりが、少しずつ加速しながら世のマジョリティとなりつつある。 ー 252ページ